産業革命とヨーロッパの科学技術の進歩
中世のヨーロッパは、オリエントに比べ文化がだいぶ遅れていました。とくに数学は、数秘術的なものとユークリッドの『原論』全13のうち第1巻のほんのさわりだけを教会の付属学校で習うだけでした。12世紀になると、オリエントに温存されていたギリシア数学がヨーロッパに入ってきます。ほとんど白紙の状態から学ぶのですから、習得するのに時間がかかります。300年以上の年月をかけ、ヨーロッパの人々はオリエントの進んだ科学技術を取り入れます。とくにユークリッドの『原論』は、数学の模範であり、仰ぎ見る存在でした。やっと16世紀になって、『原論』の最初の数巻が大学で教えられるようになりました。しかし大学で教えられていたのは理論数学としての幾何学だけで、計算問題を主とした実用数学や代数は大学では教えられていませんでした。
18世紀に入ると、ヨーロッパとオリエントの立場は逆転します。産業革命によりヨーロッパの富は増大し、科学技術は格段に進歩します。その中で数学は大きな役割を果たします。数学は、机上の理論から役に立つ理論へと変貌します。ヨーロッパの人々のオリエント観も変わります。エジプトはもはや神秘の国ではなく、かつてはヨーロッパの植民地だった国、文化の遅れた国になってしまったのです。
ギリシア数学とオリエント数学の違い
ヨーロッパ文明の源流は古代ギリシアにあるとされてきました。彫刻や建築、悲劇や喜劇などの演芸、歴史や詩作などの著作、哲学や数学など、ありとあらゆるもののはじまりはギリシアにあるとされてきたのです。しかし、最近では「どんな文明も独自に生まれたものではなく、以前の文明を引きついだものである」という見方がされるようになってきました。ギリシア数学もオリエントの数学の影響を受けていたのではないか、と考えられるようになったのです。
ギリシア数学は輝かしい成果をあげました。その光の影にかすんで、エジプト数学やバビロニア数学は見えなくなってしまったように思われます。本連載で考えているピラミッドの謎も、そのため正しくとらえられなかったのかもしれません。ギリシアの数学がオリエントの数学とどのように違うのか、簡単に歴史を振り返ってみましょう。
古代ギリシアの歴史
古代ギリシアの歴史区分
エーゲ海には多くの島々が点在しています。ギリシア人はこのエーゲ海を庭とする海洋民族でした。かつてはギリシア本土にはミケーネ文明という文明が栄えていましたが前1200ごろオリエント全体を襲った未曽有の混乱のなかで壊滅的な打撃を被りました。滅亡してしまったのか、文化が細々と継続していたのかよくわかっていません。このあとのギリシアの歴史を歴史家は次のように分けています。
まず簡単に、この歴史区分を眺めてみましょう。ピラミッド時代の古王国時代から2千年近く経った紀元前7世紀ごろ、ギリシア世界は長く続いた暗黒時代を抜け出し、復興のきざしが見え始めました。このころを東方化革命の時代といい、美術史ではアルカイック期とも呼ばれています。オリエントから多くを学んでいる時代です。紀元前480年はペルシア戦争があった年で、これに勝利したギリシア(特にアテナイ)は、その後急速に発展します。紀元前338年はギリシアのポリス(都市国家)の連合軍がマケドニアに敗れた年です。この後マケドニアの王アレクサンダーの東方遠征がはじまります。前317年はプトレマイオス1世がエジプトにプトレマイオス王朝を開いた年で、前31年はプトレマイオス王朝がローマに敗れた年です。これ以後ローマ時代となります。
東方化革命時代
紀元前700年ごろになると、文化の沈滞した暗黒時代を抜け出し、ギリシア人は穏やかなエーゲ海を越えて荒波の高い地中海へと乗り出していきます。地中海や黒海の沿岸地域に多くの植民地を作り、勢力を拡大していきます。オリエントの進んだ文化に接し、先進技術や学問を学び吸収します。「光は東方から」という言葉のように、農業、文字、冶金、宗教などヨーロッパ文明の基礎となるものは常に東方(オリエント)からもたらされたものです。ギリシアはオリエントの進んだ文化を学ぶことで大きな変化をとげます。
この時期の土器など美術工芸品に書かれているスフィンクスとかゴルゴン(竜)などの架空の動物や、ライオン、ヒョウなどの実在の動物などの図表や、ロータスなどの植物文様などにオリエントの影響が見受けられます。またエジプトの大型石造彫刻をまねてギリシアでも石造彫刻が作られるようになります。大型青銅像の製造技法もエジプトから学んだものです。ギリシアで作られ始めた全裸の男性立像は、クーロス像と呼ばれ、半歩足を踏み出し両腕を突き出した姿勢などはほとんどそのままエジプトの立像のコピーです。少女像は「コレー像」といい、唇の両端が少し吊り上がっていて不思議な笑みを浮かべているように見えますが、これを「アルカイック•スマイル」といいます。ギリシア本土は肥沃な平野が少なく農耕だけでは食べていけません。交易や植民も行いましたが、オリエントの大国の傭兵になるのも生きる手段のひとつでした。エジプトにはギリシア人の傭兵だけの町が作られていました。ヘロドトスもこの町を訪れています。ここに住むギリシア人たちはエジプト各地にある壮大な石造建築に圧倒されたことでしょう。ギリシアの初期の石造建築(ドーリス式柱廊)には明らかにエジプトの影響がみられます。
古典期
古典期はギリシアの美術の最盛期で、オリエントから学んだものを自分のなかに取り入れ十分に熟成させ、より洗練された独自性のある人間表現を見せるようになります。アルカイック期の彫像は両足に均等に重心がかかった、動きのない硬直した像で、顔も無表情でしたが、古典期以降の彫像になると、躍動感のある動作や自然な動作を示すようになり、表情もひとつひとつ個性的なものとなります。これらは、現在私たちが美術館でよく見かける彫像と大差はありません。
石造建築についても同じことが言えます。アテナイのアクロポリスの丘の上に建てられたパルテノン神殿は、ギリシアの最盛期に建てられた世界史上最も美しい建築だといわれています。近代建築の巨匠ル・コルビュジェは「すべての時代を通してどこを探しても、建築でこれを越えるものはない」と言い切っています。
古典期は美術だけでなく、ギリシア悲劇や喜劇、叙事詩などの文芸、哲学や数学が発展した時代でもあります。ヘロドトスの『歴史』が書かれたのもこの時期です。数学もこの時期アテナイで生まれたといわれています。
- ギリシア数学とエジプト数学の目的の違い
- ヘレニズム期:ギリシアの理論数学とオリエントの応用数学の結びつき
- ヨーロッパの合理的精神とオリエント数学の評価
- ギリシア数学の論理的な体系構築とオリエント数学の実用的な計算技術
- エジプト・ギリシア・ヨーロッパのその後の文明の変遷と数学
- まとめ
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