4-6.古代ローマの数学と建築|ウィトルウィウスの図形と黄金比

じっくり 幾何
4-6.古代ローマの数学と建築|ウィトルウィウスの図形と黄金比
 ローマ期の建築家ウィトルウィウスと実用数学
ヘレニズム期・ローマ期の数学
ウィトルウィウスの『正方形が3つ並んだ形の作図』
ウィトルウィウスの『正方形が2つ並んだ形の作図』
ウィトルウィウスの『正方形が3つ並んだ形の作図』

ギリシアの数学の変遷:古典期からヘレニズム期、そしてローマ期への移り変わり

『4-4.古典期の数学とヘレニズム期の数学』でギリシアの古典期の数学とヘレニズム期の数学の違いを述べ、『4-5.アルキメデスの円周率 』では具体的な例として、アルキメデスの円周率の計算を見てみました。ここではもう一度振り返って、古典期からヘレニズム期、ローマ期とどのように移り変わっていったかを見てみましょう。

アテナイの学園都市とギリシアの古典文化の守護

ギリシア史のある専門家は、ヘレニズム期のギリシア文化圏を「ふるいギリシア」と「新しいギリシア」の2つに分けることができる、と述べています。「ふるいギリシア」とはギリシア本土と、エーゲ海の島々のことで「新しいギリシア」とは新たに支配したエジプトやシリアやメソポタミアなど、豊かなオリエント文明の遺産を引き継ぐ地域のことです。「新しいギリシア」はエジプトのアレクサンドリアやシリアのアンティオキアを中心として活発な交易活動を開始し、文化の先進地域となります。新しい血が入ったため、ギリシア文明も若さを取り戻し、再生します。一方「旧いギリシア」であるギリシア本土は、もともと農作に適さない痩せた土地であったうえに、大国の間にあって相変わらず紛争や政変が繰り返されて、経済も疲弊し、新しい潮流から取り残されていきます。

古代ギリシアの地図

ローマは、紀元前4世紀ごろまではイタリア半島中部の小さな都市国家にすぎませんでしたが、しだいに勢力をのばしてきて、やがて東地中海地域はローマに支配されることになります。ローマ時代になっても、「ふるいギリシア」と「新しいギリシア」はそのまま存続します。

ふるいギリシア」に属するアテナイは、かつての裕福なポリスではなくなっていましたが、「学園都市」として存続していました。プラトンの創った教育と研究の学園アカデメイアはプラトン学の牙城として、アリストテレスの創ったリュケイオン学園はアリストテレス哲学の牙城として、「ギリシアの古典」を守り続けていました。ヘレニズム期にはヘレニズム王国の王族の子弟たちが、ローマ時代にはローマの貴族の子弟たちが、ギリシアの古典文化を学びにアテナイに留学していました。ローマ人は地中海に進出する以前からギリシア文明を尊敬し、学んできましたが、地中海世界を支配下に入れた後も変わりませんでした。しかし、ローマ人が尊敬し学ぼうとしたのは「ふるいギリシア」だけのようです。ローマ人は「新しいギリシア」とくに「数学」には興味がなかったようです。

古典期のアテナイの多様性と自由な発想

古典期のアテナイは、発展途上の若々しさがあり、因習にとらわれない大胆で自由な発想がギリシア文明の独創性と独自性を生み出してきました。誰でもが裁判官であり、政治家であり、軍人であり、哲学者であり、数学者でした。討論や対話はその場限りの白熱した真剣勝負でした。しかし「ふるいギリシア」となった今、学問は専門の偉い学者の占有物となってしまい、ギリシア哲学の権威と伝統の灯を守ることに汲々としていたのです。一方、「新しいギリシア」では、オリエント文明と混合し、ギリシア語を共通語とした新しい文化を創り出し始めます。特にアレクサンドリアでは、多くの国々からいろいろな分野の人が集まる学際都市となり、科学者たちは未知の領域を切り開き独創的な成果を生みだしていました。

結局西ヨーロッパには数学は伝わらなかったようです。古代ローマの雄弁キケロもローマ人が数学に興味を持っていないことを認め次のように言っています。

キケロ

ギリシア人は幾何学に最高の敬意を払い、数学者ほど尊敬されるものはいなかった。われわれローマ人は、この技法を測量や計算という実用的なものだけに限定してしまった

しかしキケロ自身もギリシアの哲学や弁証法を学んでいますから、「ふるいギリシア」は伝わったようです。ヨーロッパの歴史では、ギリシアの後はローマが続きますが、数学の歴史ではギリシアの後にはローマが続きません。ヨーロッパの人たちから見れば、アカデメイアが閉鎖された529年頃がギリシア文明の終焉に見えるかもしれませんが、これは「ふるいギリシア」が消滅しただけで、「新しいギリシア」は東ローマ帝国のもとで、エジプトやシリアやアナトリアで存続し、やがてアラビアで興ったイスラームの人々に受け継がれます。ここで発展した数学をアラビア数学といいます。

ギリシアの没落とエジプトの変遷:ローマ時代の科学と文化

エジプトがローマの属州になると、それまで支配階級にあったギリシア人たちは没落します。しかし、それまで大きな成果をあげてきた科学研究所ムセイオンは存続します。それどころか、ローマ帝国の手厚い保護を受けています。たとえば、紀元130年にローマ皇帝ハドリアヌスは、ムセイオンを訪れ学者たちと懇談していますし、学術振興には出費を惜しみませんでした。数学の研究は一人ではできず、やはり学園とか研究所のような公共の施設が必要のようです。アルキメデス はシチリア島のシラクサで一人研究を続けましたが、常にアレクサンドリアの学者たちと手紙のやり取りをしています。ローマは、科学研究はアレクサンドリアにまかせ、本国のイタリアには科学研究機関は作らなかったようです。

しかしアレクサンドリアにおけるギリシア人の零落はだんだん目立つようになってきます。それに代わってエジプト系ローマ人が政府の要職に就くことが多くなります。このころはギリシア人もかなり混血していたようですし、学者たちのなかにもエジプト人や外国人が増えてきます。たぶんそのためでしょう、ギリシア人の中にバルバロイ(蛮人)に対する差別意識が強くなってきたようです。またローマの著述家、たとえばストラボン、ディオドロス、プリニウス、プルタルコスなどは、ギリシア文化を崇拝するあまり、ギリシアのことをあまりよく書かなかった歴史家ヘロドトスをひどく嫌って酷評するようになりますし、エジプト文明に対しても、野蛮で原始的だと見るようになっています。ヘロドトスの評価は、このように時代によって乱高下します。

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