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ピラミッドの謎・あとがき

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時代によって変わる歴史の解釈

クフ王を極悪非情な暴君で国民を奴隷のようにこき使った。クフ王の悪行はとどまることを知らず、資金に困ると、娘を今でいう“夜の町”に働かせに出した。娘は父に命ぜられた額のお金を稼ぎ、さらに自分のためにも稼いだ。大ピラミッドの前にある小さいピラミッドの真中のピラミッドはこうしてできたものだ。

個人が稼ぐお金でピラミッドが建つなど信じられませんが、ヘロドトスは次のように述べています。

わたしは聞いた通りを書いているのであって、信じられる人はそのままうけとるがよい。

私たちのものの見方はその時代の一般的な見方に支配されます。近世に入って、エジプトはかつての文明の面影はなくさびれた農村が広がっていました。ヨーロッパの人びとは、暗黒時代と呼ばれた中世封建時代のヨーロッパの農村を投影したのでしょう。中世のヨーロッパの農民は、経済的社会的には封建領主に支配され、日常生活はキリスト教会に支配されていいました。読み書きができるのは一部の支配層と教会の司祭だけでした。暦も知らず、主日(日曜日)に教会に出かけて、司祭から口頭で“時”を告げられたのです。日にちには数字が割り当てられておらず、聖人の名前が割り振られていました。月の名前や年の名前も同様です。農民にとって最も大切な祭りの日、正月、春分の日、クリスマス、… などはすべて司祭が取り仕切っていたのです。農民にとって、労働は苛酷で苦しいものであり、富裕層は「労働は身分の低いものが行う下賤な行為」とみなすようになります。

ヨーロッパは、近世に入って科学が著しく発達しましたが、その当時のエジプトは非文明国であり、古代の天文学とか数学の痕跡などはもはやなにも残っていませんでした。ヨーロッパの人びとが、古代エジプトを専制君主が支配する封建国家だったと見なし、次のように考えたのもやむを得ないことです:天文学は民衆をコントロールするための秘伝であり、書記(官僚、学者)や司祭は一部の貴族の子弟に独占されていた。農民は狡猾で非情な役人に搾取されており、毎日の労働は苦しく耐え難いものだった。

しかしヘロドトスが訪れた時代、農民たちは日々の労働を楽しみ、時にはビールを飲み、祭りの日には女性もお化粧をして着飾り、生活を享楽していました。労働は決して苦役(くえき)ではありませんでした。書記は学ぶことが多かったためもあり、5歳になると書記学校に入りました。学校に入学するのは書記裕福な家庭の子息が多かったようですがこれは現代でも同じで、決して神官や貴族に独占されていたわけではありません。父親が息子に、「農業で肉体労働するより、勉強して書記になった方が優雅な生活が送れる」とさとす文書が残されています。また、いろいろな職業の子弟に、書記になるように勧める広告の文書も残されています。

また、よく言われているように「シリウスが太陽とともに昇ったら洪水が起きる」というのは、「ファラオの魔力を民衆に見せつけるための秘密であった」というのも事実ではなく、民衆は誰でも知っていました。

時代によって歴史の解釈はずいぶん変わってきます。ある高名な歴史家は、「歴史は歴史家の創作である」と言っていますし、「いかにして歴史は捏造(ねつぞう)されたか?」というタイトルの本もあります。しかしこのことは歴史に限ったことではありません。古い説が訂正され新しい説に書き換えられることは学問の世界では日常茶飯事です。しかし一般の世間では、“失敗”は“発明の母”として持ち上げられているのに対し、“間違い”とか“誤り”はなにか悪者扱いです。学校のテストとかクイズ番組の正かもしれません。この世界にはまだわからないことがいっぱいあります。誰でもが yes か no かを答えられる問題よりも、まだわからない問題とか隠された秘密の方が面白いとは思いませんか。

エジプト数学に対する評価は19, 20世紀になると急速に落ちたように思います。よく引用される例は、14世紀にイギリスに建造されたリンカーン大聖堂と大ピラミッドの高さの比較です。もとはイギリスの歴史家の見解のようですが、主旨は次のようなものです。

イギリスに建造されたリンカーン大聖堂と大ピラミッドの高さの比較の例

大ピラミッドの高さは、19世紀になってはじめて凌駕されたというのならまだしも、まだ大英敵国ができる前のまだ発展前の中世に凌駕されてしまった。古代エジプトの技術はごく初等的なもので、ただ大人数を動員してできたものにすぎない。

大聖堂とピラミッドでは、建造目的も構造も違います。使われた建築技術とか数学を比較するのなら分かりますが、なぜ高さを比較するのでしょうか。それに大聖堂ができたのは大ピラミッドの3千年以上も前の話です。この意見の背景には、当時ヨーロッパの列強がアジアに進出しようとしていた時代背景があるように思われます。つまり、なんとしてもエジプト文明をあまり高く評価したくないという気持ちが裏に隠れているような気がします。

改めて『エジプト文明』を考える

ピラミッドが建造されたのはいまから4千年をはるかに超える前のことです。ピラミッドが建造される数千年前はまだ石器時代だったのです。人びとは狩猟採集の生活で、住居を転々としていました。集落といってもせいぜい数百人のことですから、言語もたいして発達していたとは思えません。言語の発達には数千人規模の社会と、言語を記録する文字が必須条件です。エジプト文明の画期的なところは、ナイル川周辺に集まってきた人びとが、文字も文化もまったくの無の状態から言葉を発展させ社会を構成し、死後の世界観を創造して神話を作り、数学を生み出したことです。

皆さんは、正三角形とか正方形などといったものが現実の世界に存在すると思いますか? こういった抽象的対象は、現実の世界にあるのではなく皆さんの頭の中に存在するのです。いつから存在するようになったのでしょう。それは「正三角形とか正方形という言葉ができた時」だと思います。ですから、石器時代には正三角形も正方形も存在しなかったと思います。チンパンジーは三角形とか四角は認識できますが、これは人間が教えたからにすぎません。

人間は言葉を使ってものを考えます。言葉がなければものを考えることはできません。言葉は文字の発明によってさらに発展します。エジプト人は数を表す記号も発明しました。この記号がなければ“万”とか“千”といった大きな数を考えることはできません。つまり文字(記号)は、単に「遠く離れた人に情報を伝える」こととか「情報を記憶する」といったこと以外に、思考にとってはなくてはならないものとなります。このような力を持つ“言葉”や“文字”や“図形”には、神秘な不思議な力が宿っているのではないかと、古代人は考えていました。神聖文字(ヒエログリフ)は現代人が考えているような単なる記号ではなく、一つ一つが呪力をもつものでした。壁画に書かれた絵は単なる美術作品ではなく、文章の説明文の役割をしていました。壁画に書かれた人物像は、顔と腰から下は横を向いていますが、体は正面を向いています。これはエジプト人が絵の技術がなかったわけではなく、日本語の漢字のように、人物を書く際の形式なのです。重要な人物は大きく書きましが、大きさに関係なく顔とか胴体などの比率は一定でした。これはカノンと言い、ギリシア美術に引き継がれています。

おわりに

数学の歴史を探るために本連載では古代エジプトを見てきました。数学の源流の一つはやはりエジプトのようです。エジプトでは、直角、円、正方形など幾何学の基本概念が生まれ、数に対してはエジプト分数や、ケセドなどの比の概念も生まれています。

なぜエジプトで数学の基礎概念が生まれたのでしょうか。エジプト人が最も大切にしていたのはマアト(規則、数理)であり、暦と数学の神トト神でした。ピラミッドの底辺は正確に正方形であり、縦は東西を、横は南北を正確に向いています。ピラミッドの傾きは正確に 5;1 4 か、あるいは 5;1 2 となるように作られています。これらを考慮すると大ピラミッドの緯度が30度というのも偶然だとは思えません。エジプト人はこの世界はマアト(数理)によって支配されていると考えました。ファラオはこのマアトの実現者であり、ナイル川の洪水を支配する力を有するものだと信じていました。日本の前方後円墳がやがて自然の山と化し、寺院仏閣が自然の山の中に抱かれるようにたたずんでいるのに対し、ピラミッドはナイル川を支配するように、平原を睥睨(へいげい)するように(ごう)(ぜん)と座っています。

ナイル川はエジプト文明の大動脈であり、エジプト人は川の民でした。長い旅を終え、ナイル川を下ってきた旅人がナイル川のはるか彼方に白く輝く大ピラミッドを見た時、自然の山とはまったく異なる四角錐のピラミッドを見た時、大自然を支配するマアトの具現者であるファラオの力を感じたのだと思います。当時は、ファラオは人民を守る神だったのです。

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