目次

目次へ戻る

Chapter 1:ピラミッドの秘密

1-3.ピラミッドの謎に魅かれた人たち

Advertising

超古代文明説とプラトン

太古の昔は神々と怪物の住む世界でした。夜空の星々の向こうには神々が住み、地球の果てには一つ目の巨人が住んでいました。現在では、宇宙は無数の銀河が広がるばかりで神々の住む場所がなくなってしまいました。地球も隅々まで調べられ、もはやどこにも一つ目の巨人などが隠れ住む場所など残っていません。神々は宇宙人(地球外生命)にその座を譲ったのでしょうか。古代の昔から、私たちは不思議な話に興味を持ってきました。昔の人は太古のエジプト文明をどのように伝えていたのでしょうか。

クフ王の大ピラミッドは、古くから多くの人の好奇心を掻き立ててきました。昔は現代のような大きな建物などありませんから、大ピラミッドを訪れた人々は巨大の建造物を前にして、どうして人にこんなものが造れるのだろう、これこそ神々の偉業に違いないという思いにとらわれたことでしょう。あの中にはすばらしい財宝が隠されているに違いない、神々から授かった不思議な力を持つ武器、魔法の力をもった秘薬、あるいは神の啓示の書かれた古文書、… などがあると考えた人がいたに違いありません。古代の神殿や遺跡には、謎の地図不思議な呪文とか神の啓示が書かれた古文書が眠っているという話をよく耳にします。

1-1.ピラミッドの謎とは でピラミッドの謎の解答のひとつに「超古代文明説」というのがあると述べました。これは古代ギリシアの時代よりはるか昔に進んだ文明が存在したという伝承で、この話のおおもとは、ギリシアの哲学者プラトンの著作『クリティアス』に出てくる「アトランティス伝説」のようです。

クリティアスはプラトンの曽祖父の名で、プラトンは曽祖父に建国時代の古き良き時代のアテナイについて語らせています。曽祖父は、この話を親類のソロンから聞いたと語っています。ソロンはギリシアの有名な政治家で、エジプトに遊学中に神官からこの話を聞いたということです。ここまでがお話の導入部で、結局プラトンは「以下で述べる話はエジプトの神官から聞いた話なのだから信用できるよ」と述べているわけです。ちなみにソロンはギリシア人なら誰でも知っている「伝説の政治家」です。当時のエジプトは古い歴史をもつ文明国、一方ギリシアはまだ発展途上にあり、多くの政治や経済や科学を学ぶためにエジプトを訪れていました。神官がソロンに語ったのは次のようなお話です。

エジプトは8000年もの長い歴史を持っているが、それよりも前の9000年も前に、すでにギリシアのアテナイには理想的な国家があった。アテナイは哲人の王と、高潔な理念を持つ軍人階級が支配する理想的な国家だった。支配者たちは質素で富を求めず、王は哲学を愛し公平な政治を行っていた。しかし当時のギリシア世界は、専制的な暴君の支配するアトランティス帝国の侵略の危機にさらされようとしていたのだった。アテナイはギリシア世界をまとめ上げ、連合国軍を結成し、アトランティス帝国と戦った。アトランティスは地中海の西の果てヘラクレスの柱のさらにむこうの大海中にある大陸で、海の神ポセイドンの子アトラスの子孫が支配する帝国であった。大西洋という名前はこのアトラスに由来している。悪の栄えた例はない。アトランティスは大津波に襲われ一夜にして海に没してしまった。

これが「アトランティス伝説」のごく大まかな一部始終です。アトランティス伝説は、現代のスターウォーズ並みの自由奔放な発想で書かれています。しかし、プラトンが本当に書きたかったのは「理想的な国家とは何か」ということで、アトランティスの伝説は読者の興味を引き付けるためのものだった、とも言われます。しかしプラトンも夢想家で、あんがいこういったお話が好きだったのではないかとも思います。

プラトンが活躍した時代はギリシア古典期の終わりごろで、多くのギリシア人がエジプトの進んだ文化を学びに訪れています。これを「エジプト詣で」と呼んでいる歴史家もいます。1-1.ピラミッドの謎とは で述べた歴史家ヘロドトスもこの時期に活躍しました。ヘロドトスもエジプトを訪れ、当時のエジプトの風習や文化を生き生きと伝えています。「ピラミッドの謎」に関する著作の中にはヘロドトス文書なるものがよく出てきていますが、実際にはヘロドトスは「ピラミッドの謎」に関してはなにも述べていません。ヘロドトスの文章を読み違えたのか、あるいは改竄かいざんしたかのどちらかのようです。

ヘレニズム時代:文化の中心はアレクサンドリアへ

ギリシアの古典期も終わりごろになると、いたるところで都市と都市が争っていました。この時代を歴史家は内戦時代と呼んでいます。やがてギリシア本土の北部にあった小王国マケドニアがギリシアの都市連合を破り、時代はヘレニズム時代へと移ります。文化の中心は、ギリシア本土のアテナイから、エジプトのプトレマイオス王朝の首都アレクサンドリアに移ります。エジプトはギリシア人(正確にはマケドニア人)のファラオが治める国となります。アレクサンドリアには当然ギリシア人や現地のエジプト人が多く住んでいましたが、地中海の島々や西アジアの人々はもちろんのこと、遠くインドや黒海北岸からも人々が集まり、圧倒的なコスモポリス(世界都市)となります。アレクサンドリアにムセイオンと呼ばれる王立科学研究所とその付属の大図書館が設立します。文芸・芸術はこの時代にはいって衰退したように言われることが多いのですが、科学(特に天文学や数学)はこの時代に入って大きく進展したようです。天文学、自然科学、数学の研究には国家が支援する研究所(大学)のような施設が必要です。大科学者のアルキメデスや『原論』を書いたユークリッドはこの時代の人です。

ローマの台頭

その後エジプトはローマに敗れ、オリエントはローマの支配下にはいります。ギリシアのアテナイは、政治力や経済力は失いましたが哲学などの学園都市として、ローマ貴族の子弟の留学先となり存続していました。エジプトはローマの穀倉こくそうとして重要な属州となり、アレクサンドリアの科学研究所ムセイオンも、ローマ帝国の援助のもとで存続していました。都市ローマには巨大な富が集中し、競技場や水道橋や神殿などの巨大な建造物が作られていきましたが、文化的には東方より遅れていて、文化の中心は依然としてオリエントにあったのです。

東地中海沿岸の一角でキリスト教が生まれしだいに勢力を伸ばしていきます。もともとギリシア哲学は宗教色が強かったのかもしれません、キリスト教との確執が生まれます。数学は哲学の一部でしたから、ギリシア哲学の評判が落ちると数学の評判が落ちます。研究を続けるにはローマ帝国の援助が必要です。ギリシア数学のすばらしさを宣伝する逸話のいくつかはこの時期に作られたようです。ギリシアを称賛するにはエジプトを野蛮でレベルが低いと非難するのが効果的です。この時代の多くの著者(たとえば、ストラボン、プルタルコス、ディオドロス、プリニウスなど)はみな、エジプトのことを相当批判的に書いています。そこでやり玉に挙がったのが、エジプトを悪く書かなかったヘロドトスです。ヘロドトスは「バルバロイ(野蛮人)好き」だと決めつけます。特にプルタルコスは、「ヘロドトスの悪意について」という長い評論文でヘロドトスの罪状を並べ立てました。このようにヘロドトスの評価や評判は、以後現在にいたるまで歴史を通して乱高下します。エジプトの人気が高いときはヘロドトスも認められ、エジプトの人気が落ちるとヘロドトスの評判も悪くなります。

その後ローマ帝国は東と西に分裂し、イタリア本土を中心とした西ローマ帝国はオリエント世界から切り離され、西ヨーロッパは中世の暗黒時代へと入っていきます。東ローマ帝国は、アナトリア(現在のトルコ)を中心として、その後15世紀の中ごろまで、なんと千年も継続します。

やがてアラビア半島でムハンマドによって始められたイスラーム教がオリエント世界を席巻し、エジプトはイスラームの世界に取り込まれます。こうしたなかで登場したのがアル=マムーンです。アル=マムーンは科学や文芸の振興に力を入れ、学術の中心であったアレクサンドリア市に蓄積されていた知識を貪欲に吸収しました。当時オリエントで発展した学問はギリシア語で記録されていましたが、これがアラビア語に翻訳されたのです。ここで発達した数学をアラビア数学(あるいはイスラーム数学)といいます。ギリシア数学はアラビア数学に引き継がれたのです。

アル=マムーンはオリエントに古くから伝わる古文書の収集にも熱心でした。バビロニアには占星術(天文学)が発達していて、多くの星々の観察結果とそのときおきた事件や事例の記録が占いの資料として残されていました。つまり、古文書のなかには「この世界の理」が書かれたものがあると思っていたのです。

アラブに残された記録によると、アル=マムーンは西暦820年、石工や建築技師からなる一団を引き連れ、ギザにやってきました。大ピラミッドの真ん中には穴があり、今日ではその穴は「盗掘坑」と呼ばれていますが、この穴はアル=マムーンが開けた穴だそうです。もちろん、金銀財宝が目的だったのでしょうが、一説には「錆びない武器、曲げても割れないガラス、地球や天体の地図などが隠された秘密の部屋がある」という言い伝えを耳にしたのがきっかけだといいます。天文学や数学に造詣が深かったアル=マムーンのことですから、宝石よりも不思議な謎や未知の科学のほうに興味があったのかもしれません。

ルネサンス期

西ヨーロッパは、文化の停滞した暗黒時代を通り抜け、ルネサンス期に入ります。この時代は古代の「ギリシア・ローマ時代への復帰」を呼び起こした時代ですが、同時にエジプト文明への関心も高まっていました。むしろプラトンとかアリストテレスといった正統派の哲学よりも、オリエントの占星術、魔術、錬金術などの摩訶不思議なもの神秘的なもののほうに興味があったようです。現在の私たちは、こういったものを「非科学的だ」、とか「迷信だ」と一笑いっしょうすかもしれませんが、古代の人たちもルネサンス期の人たちも、決して合理的な説明や因果関係の究明をあきらめていたわけではありません。やがて知識が増えるにつれ合理的な原因が解明されてくると、占星術は天文学に、錬金術は化学に、魔術は医学に、数神秘論は数学へと脱皮していくのです。

15世紀の哲学者に 新プラトン主義 を復興させたフィチーノという人がいます。彼はヘルメス文書と呼ばれる古代の神秘文書を翻訳しています。ヘルメスというのは、エジプトのアレクサンドリアにいた魔術師で、死後の世界とこの世界を行ったり来たりでき、魔術や古代の叡智を持った賢人で、3世紀ごろにはトト神の生まれ変わりとして崇拝されていました。時の権力者で芸術の庇護者でもあったコジモ・デ・メディチは、プラトンの『国家』などよりも先にこのヘルメス文書を翻訳するように命令したとのことです。

この時代の著作の中にはピタゴラスの名前がよくでてきます。「地球は球であり、太陽は燃える火である」とか、『1-1.ピラミッドの謎とはで述べた「地球尺度の謎:大ピラミッドは地球の周長を記録するため造られたものである」などを述べたのもピタゴラスということになっています。ピタゴラスにはこのような言説が数多くあり、ほとんどが後世の人の創作だと思われます。

ルネサンス期の有名人レオナルド・ダ・ヴィンチも次のように言っています。

ダビンチ吹き出し

古代エジプトの人々は、緯度や経度を使った正確な世界地図を作っているし、天体を子午線と角度を使って分解し正確な天体観測をしている。古代エジプトの天文学を学ぶべきだ

ダ・ヴィンチは、一般的な教育は受けませんでしたが独学で数学や幾何学を勉強しています。特に、キリスト教の修道士で数学者のルカ・パチョーリと知り合ってからは、ギリシアの幾何学アラビア数学なども熱心に学んでいます。ダ・ヴィンチの黄金比にまつわる話はChapter3、Chapter4で述べます。当時のヨーロッパの人々は、古代エジプトの占星術、魔術にとても興味を持っていました。これらのなかで、特に神秘的なものはプラトンの哲学と結びつき、 新プラトン主義 として蔓延していたようです。

ときは大航海時代で、世界の各地から珍しいものがどんどん入ってきます。天文学や地理学など諸科学は急速に発展しつつありましたが、人々はまだまだ不十分で不完全だと感じていたようです。ミラノの科学者で数学者でもあったジローラモ・カルダーノは以下のように不平をこぼしています。

カルダーノ吹き出し

ギリシア人はエジプトの計算方式を不完全にしか伝えてこなかった

「失われた過去の叡智」を求める要求は、神秘主義的な好奇心もあったでしょうが、それ以上に現実的な役に立つ知識の習得にもあったのです。 ルネサンス期には、「ピラミッドの謎」に直接言及しているような記述はなさそうです。しかし、上で述べたように、地球の大きさについての伝承は、古代の地図とともにピラミッドと結びついて伝わっていたようです。

ピラミッドの謎に取りつかれた人たち

17世紀に入ると、ヨーロッパは大航海時代が終わり数学を含む科学が急速に発展する「科学革命の時代」と呼ばれる時代になります。当時のエジプトは、オスマン帝国が支配するイスラームの世界で、ヨーロッパの人々にとって非キリスト教的な神秘とエキゾチズムに満ちた空想の世界でした。歴史の本ではこの時代を、「暗黒の中世の暗い霧が晴れ、人びとは迷信や呪術的な自然観に捕らわれなくなり、ものごとを理性的で、合理的に判断するようになった」、つまり「すべてを不可知な神のせいにするのではなく、この世界(宇宙)を支配する原理や法則について考えるようになった」と述べています。しかしこれは当時の人々の考えというよりは、19世紀の歴史観が強く投影されているようです。

ニュートン、ケプラー、ガリレオたちの発見によって、人びとの考え方は少しずつ変化していったことは確かです。当時の世界観(宇宙観)では、神の住む天上界は私たち人間の住む世界とはまったく違った世界で、異なる規則に支配されていると考えられていたのです。ニュートンの発見した「万有引力の法則」は、この地上界で観測される規則が、天上界(宇宙)をも支配しているというものでした。

現代人はこの「万有引力の法則」を、この宇宙は神の不可知な力によって動いているのではなく、引力という力が表す方程式に従って動いていると理解していると思います。しかし、「万有引力の存在」は、ニュートンにとって神の存在の否定にはなっていませんでした。つまり、引力という力の存在こそ神の力と考えていました。また、ガリレオの言ったとされる「数学は神の母語である」という言葉も「神がこの世の中を数学という言語を使って設計された」という意味であり、ガリレオ自身も「神の御業でなければこんな美しい数式が成り立つはずがない」と考える敬虔なキリスト教徒でした。ケプラーは正真正銘の占星術師で、彼の母親はすんでのところで魔女裁判で死刑になるところでした。人々が神から完全に自立するのは19世紀まで待たなければなりません。

ニュートンはある時期数学や物理や天文学をそっちのけにして、聖書などの古代の宗教文書、歴史の父ヘロドトスの著作、古代の錬金術に関する文献を読みふけっていました。ニュートンの死後、遺稿を整理したケインズという学者が「彼は最初の近代科学者というよりは、最後の錬金術師だ」といった言葉は有名です。ニュートンが膨大な手間暇をかけて残した手稿のほとんどは、整理した歴史学者に言わせると、まったく価値がないおぞましいものばかりだったそうです。ニュートンとピラミッドとのかかわりは、このすぐ後で述べます。

17世紀になっても依然としてエジプトの人気は衰えず、ギリシアよりエジプトのほうが観光旅行先として人気があったようです。しかしピラミッドの本格的な調査がはじまったのは17世紀に入ってからのことです。調査をした一人に、イギリスの数学者ジョン・グリーブスという人がいます。グリーブスは数学や天文学だけでなく、ラテン語、アラビア語、ギリシア語、ペルシャ語など多数の言語を自由に操り、考古学にも興味を持っていました。グリーブスダ・ヴィンチピタゴラスなどの先人たちの言葉に影響を受け、大ピラミッドの謎を解いて、地球の大きさを正しく測るデータを得ようと考えました。彼は当時手に入る最新の測量機器を用意し、エジプトに出かけ、大ピラミッドの外部から内部までくまなく計測しました。大ピラミッドはすでに盗掘坑が開けられ、内部に入ることができました。グリーブスは、ピラミドの細部まで細かく測量し、のちに「すべてを測る人」という異名をもらいました。イギリスにもどったグリーブスは、オックスフォード大学の天文学教授に迎えられ、その後大ピラミッドで計測した結果をまとめて『ピラミドグラフィア』という著作にまとめて出版しました。この本は学会だけでなく一般の人々にも大人気となり、大ピラミッドブームが起きます。しかし、実際の計測は難しかったようです。特にピラミッドの下部の土台付近には石くずで埋もれていて、測定値は大きな誤差を含んでいました。

古代の身体尺

ニュートンは、グリーブスの書いたピラミッドの著作に興味を惹かれました。古代の尺度を解明すれば、古代遺跡の謎が明らかになるのではないかと考えたのでしょう。彼はエジプト以外の古代の神殿の尺度も調べたようです。古代の尺度は体の部分を基準とした身体尺です。エジプトでは、1腕尺キュビットは指先から肘までの長さで、1掌尺パームはてのひらの長さで指4本分、1デジットは指の幅です。図1.3.1。少し前までは世界中たいていどこでも長さは身体尺でした。日本(中国)のしゃくは、もともとは手のひらを広げてはかるときの手幅の長さで、すんデジットと同じで指の幅でした。古代の中東、ギリシア、ローマでも腕尺キュビットという単位が用いられていました。1腕尺キュビットの長さは場所によっても、また時代によっても違います。標準となる定規を定めるのが王の役目でした。

エジプトの単位系キュビットとパーム

ニュートンは、ピラミッドはこの古い単位が使われており、内部の各部屋の寸法はこの単位で測った端数のない整数値である、と予測しました。彼はグリーブスの計測結果を使って、大ピラミッド内部の玄室である「王の間」などの縦の長さと横の長さの比を求めました。比は使われている単位系には依存しません。ニュートンはこの結果から、大ピラミッドは「王家の腕尺キュビット」と「標準腕尺キュビット」2つの単位系が使われていると推論しました。ニュートンの推論はみごとでしたが、グリーブスの測定値が違っていたため結果は間違ったものとなりました。ニュートンが得た結果は、(標準の) 1腕尺キュビット は約53センチ、王家の 1腕尺キュビット は約63センチでした。1腕尺キュビット は時代によって違いますが、古王国時代の王家の 1腕尺キュビットは 52.3~52.5センチとされていて、ニュートンが結果とだいぶ異なります。

ニュートンの出した「1腕尺キュビット=約63センチ=(現在のイギリスの)約25インチ」は、後の人に間違った影響を与えてしまいます。

ニュートンはこの値をもとに、グリーブスの実測した測量値を腕尺キュビットに換算していき、大ピラミッドが計画的に精密に立てられていることを確認しました。ニュートンが得た結果はオカルトではなく、ちゃんとした学術論文として刊行されています。

ニュートンの発見した「万有引力の法則」は地球の大きさとは直接には関係がありません。地球のような大きな物体の引力は、地球の中心にあると考えればよいからです。これを中心力といいます。つまり、地球や太陽は点とみなすことができるのです。しかし、当時のうわさの中には、彼の発見した万有引力の法則を実証するためには、地球の円周の正確な値を知る必要があり、そのため大ピラミッドの計測データが参考になると考えたというものがあります。これを疑う人もいますが、これはひょっとしたら本当かもしれないのです。ニュートンが若いころイギリスではペストが大流行しました。ニュートンはこの疫病を避けるために生まれ故郷の村に引きこもります。1665年から約1年間のことで、この期間は驚異の年と呼ばれ、ニュートンの3大発明と呼ばれるものの骨格はすべてこのときにできてしまっていたといわれています。そのとき彼は中心力かなにかの計算をしていたのですが、計算結果が予想と大きく違ってしまったのでその研究を一時放棄することにしました。彼が用いた地球の周長が不正確だったためです。その後、フランスの天文学者ジャン・ピカールがより正確な実測値を出したので、ニュートンは1679年ごろ、中断していた計算をこの値を使って計算しなおしました。すると、計算結果は予測値とほぼ一致したといいます。ピカールが正確な値を出すまで、ニュートンは地球の周長のより正しい値を欲しがっていたようなのです。あんがいニュートンも、大ピラミッドの数値のなかに「地球の周長」あるいは「神の啓示」が隠されていると考えていたのかもしれません。ニュートンは「πの小数点展開を続けるとそのうちに神の啓示が現れる」と思っていたというお話もありますから。

次回は 『1-4.メートル法とピラミッド』です!

Advertising