ニュートン

最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.1]:科学革命の旗手

【最後のバビロニア人『ニュートン』のお話】は全4記事からなるWeb連載です

17世紀は“科学革命の時代”とも呼ばれ、西欧の人々にとって、世界史における近世の起源と位置付けるものとなっています。産業をはじめとする文明の基盤は科学の発達に支えられ、中国、インド、中東などの文明圏をはるかに凌駕していきます。現在の科学技術の時代、コンピュータ万能の時代にまでつながる「西欧の優位」を確立した時代でもあったのです。ニュートンは科学革命の立役者で、間違いなく三大数学者の一人といえるでしょう。ニュートンの出現によって、数学も大きく変わります。それまでの幾何学的思考様式代数的思考様式へと変わるのです。

歴史をみる見方は、時代によって大きく変化します。20世紀と21世紀でもすでに違っているのです。数学は普遍的事実を述べるのだから、時代には関係ないだろう、と思われがちですが、そうではないのです。本サイトではこれまで“古代の数学”について述べてきました。ここで、数学が大きな転換期を迎える科学革命の代表者としてニュートンについて述べるのは、数学史の見方が時代によってどのように変化するかを知ってもらいたいためです。副題に“最後のバビロニア人”とあるのを奇妙に思われた読者もいることと思います。これについては後半に解説します。

ニュートンについては多くの伝記が書かれています。少し前の伝記は偉人伝で、なんの欠点もない完璧な天才として描かれています。まずは一般的なニュートンの伝記に書かれている内容を簡単に紹介しましょう。

ニュートンの”伝記”

少年時代

ニュートンは1642年のクリスマスの日に東イングランドにあるウールスソープという小さな農村に生まれました。ニュートン家は代々農場主であり、経済力はありましたが父親は(当時では普通ですが)無学でした。母親は良家の出身で、母の弟はケンブリッジ大学を出て牧師になっています。

ニュートンは12歳のときウールスソープから12キロほど離れた清教徒学校に入学します。当時の典型的な学校で、教科はラテン語がおもで数学などは教わりません。しかしそこには、ヘンリー•ストークスという風変わりは教師がいて、当時としては高度な三角法とか幾何学を教わったとされています。まわりの生徒にくらべ抜きんでてよくできたニュートンは、同級生にはなじまず孤独な生活を送ります。一時ウールスソープに戻ったある夜、ランタンに火をつけ、凧にそのランタンを吊るし、村の上空に空高く上げ村人たちを怖がらせたことがあります。

驚異の年

1661年6月、叔父の援助でケンブリッジ大学のトリニティ•カレッジに入学します。ニュートンは猛烈に勉強し、1665年に学位を修得しますが、ちょうどそのころイギリスの広範囲な範囲で恐ろしい疫病ペストが襲います。人びとはパニックに陥り、ロンドンだけでも1週間で2万人もの人が亡くなったといいます。大学は閉鎖され、ニュートンはウールスソープに帰省しますが、このとき多くの蔵書を持ち帰ります。ユークリッドの『原論』デカルトの『幾何学』ウォリスの『無限算術』などがあったといいます。伝記作家はこの年を「驚異の年(アンニ・ミラビレス)」と呼んでいます。この1年半の間、彼はほとんど人に会うこともせず、勉学に熱中し、思索にふけり、彼の一生のなかでもっとも創造的な時期を過ごしました。彼の業績の根幹となる部分、微積分学の基礎(彼はこれを流率と呼んでいます)、光と色の理論(光学)、そして万有引力の発見などは、この時期に考察されていたといいます。彼は、ガリレオの著作から「砲弾の軌跡」や「落下」について学び、ケプラーの『宇宙の調和』を読み、惑星の運行について思いを巡らせていました。あるとき庭先でお茶を飲んでいるとき、リンゴが木から落ちるのを見かけました。「あっ、そうか。月も地球に落ちているのだ。月が地球に落ちる力と、地球から飛び出そうとする力が釣り合って、月は地球の周りを回っているのだ! 太陽や惑星など宇宙の出来事も、地球上のリンゴも、同じ単純な規則に従っているのだ。現実世界の複雑な多くの現象も、雑多な要素を削ぎ落し考察すれば、神などという不可知な存在を仮定しなくとも説明がつくのだ。」“科学の時代”が到来を告げる象徴的な“お話です。

指導教官バローとの出会い

1667年の春、大学が再開されるとニュートンは大学に戻ってきました。当時のケンブリッジ大学は、古典以外はたいした授業は行われていませんでしたが、ニュートンの指導教官だけは違っていました。天才の出現には指導教官との出会いがきっかけとなることがよくあります。ニュートンの指導教官はアイザック•バローといい、ルーカス記念講座の初代の教授でした。ルーカス記念講座とは現在の研究室のようなもので、ルーカスは資金を寄付した人の名前です。バローはニュートンの才能を見抜き、ユークリッドの『原論』をもっと注意深く読むように注意しました。ニュートンは『原論』の最初の方を読んだだけで、「これはたいしたことのない本だ」と思い、そのまま放っておいたのです。『原論』の著作の構成法は、ニュートンの著作に大きな影響を与えます。

バローに認められた後のニュートンの大学生活は順調に進みます。24歳で「特別研究員(フェロー)」となり、25歳のとき評議員に選出されます。評議員は、宗教上の誓いをたてて、一生結婚しないという条件で、無期限で大学にとどまることができる資格でした。次の年、ニュートンが26歳のとき、指導教官のバローが、神学に専念するため教授職を辞し、自分の後任としてニュートンを推薦します。バローはその後、国王付の司祭になっています。ニュートンはルーカス記念講座の教授として気ままな研究生活に入ります。

『プリンキピア』の執筆

ニュートンが41歳のある日、天文学者のエドモンド・ハレーが大学を訪れてきました。ニュートンが天文学にくわしいということは、現在の学会にあたる王立協会で知れ渡っていたのです。王立協会では、少し前に発表されたケプラーの法則のことが話題となっていたのです。ケプラーは、惑星の軌道は円ではなく楕円だと発表していましたが、観測結果からの結論だけで、なぜ楕円なのか説明していませんでした。ケプラーはそのことをニュートンに質問にきたのです。「そのことは以前に考えたことがある。たしかに楕円だ」と答え、資料を探したのですが見つかりません。「見つけたらあとで送るよ」と約束したのですが、何ヵ月もなんの音沙汰もありませんでした。数か月後、ハレーのもとへ『軌道上の天体の運動について』という9ページの短い論文が送られてきます。ハレーは感激して、ぜひ王立協会で講演するようにすすめますが、ニュートンは乗り気ではなく、その代わりにこの論文の根本的なところを補完して一冊の著書にまとめると約束します。そうして約2年かけて書き上げたのが、科学史上もっとも有名な書籍『自然哲学の数学的諸原理』(通称『プリンキピア』)です。どの伝記でも強調しているのが、ニュートンの凄まじい集中力です。まさに寝食を忘れて没頭したようです。ニュートンが食事に手をつけないので、飼い猫が丸々と太ったと書いてある本もあります。もし、ハレーがニュートンを訪ねてこなかったら、ニュートンはこれほど有名にならなかったかもしれません。

議員としてのニュートン

ニュートンの人生は一変しました。学者として認められたからではなく、衆目も認める名声を獲得したからです。あれほど人づきあいを避けてきたニュートンですが、大学において急に政治的人間に変身し、46歳のとき大学評議会で大学選出の国会議員にされたのです。とはいうものの国会に出席しても議題には関心がなく、国会出席中に発した言葉はただ一つ「議長。隙間風が寒いから閉めてもらえませんか」の一言だけ。53歳のとき、ケンブリッジ大学を辞め、造幣局理事という比較的下位の官僚職へ移っています。この転身をいぶかる人もいますが、造幣局理事の年収は400ポンドで大学教授の年収よりよかったためのようです。それからわずか3年で、ニュートンは造幣局長官に就任します。当時の造幣局長官は、政治的権威や世俗的評価がもっとも高い地位で、年収も1650ポンドです。ニュートンはこれを見越していたのかもしれません。以後ニュートンは優雅な生活を送ります。その後60歳で王立協会の会長に就任し、84歳で亡くなるまで、科学界にも君臨します。

ニュートンの逸話のなかでも上で述べた「リンゴの話」はニュートンの古くからの友人ウィリアム・ステュークリーによるものです。ニュートンが亡くなる少し前83歳のとき、2人はある宿舎で共に1日を過ごし、次の日夕食後庭に出てリンゴの木の下でお茶を飲んでいました。ニュートンは若かったころのことを思い出して語っていました。「私が重力についての考えが浮かんだのはちょうどこのようなリンゴの木の下だった…」。さらにニュートンは、これまでに得た自分の成果について次のように語ったといいます。  

「世間の人々の目に私がどのように映っているのか分かりませんが、私は自分のことを浜辺で遊んでいる子供だったように思われます。ときおり普通よりなめらかな小石やきれいな貝殻を見つけて喜んでいました。しかし目の前には広大な真理の大海が横たわっているのにはまったく気づかずに」

ニュートンの言葉には偉業を成し遂げた自負が感じ取られます。

次の年、84歳で人生の幕を閉じます。厳粛な葬儀(国葬)が行われ、ウェストミンスター寺院に葬られます。フランスから亡命していた著述家が葬儀のようすを「さながら敬愛する国王が臣民たちに葬られているようだった」と故郷に書き送っています。前イギリス国王エリザベス女王の葬儀を彷彿させるものでした。

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歴史の視点

私たちのものの見方は時代によってずいぶん変わってきています。江戸時代とか明治時代とはずいぶん違っていますし、昭和とでさえ違っています。現在はグローバル化で、世界中どこでも同じようになってきました。ハリウッド映画は世界中で感動を呼び、日本のアニメも世界中で上映されています。しかし、たった100年前までは世界中に違った考え方をしている人がいて、お互いを理解し合うことが大変だったようです。これからニュートンが生まれたころの歴史の話をします。宗教に対する考えとか身分や職業や男女間の“差別”など、現在とはだいぶ違っています。以下の記述にも差別的な表現が含まれるかもしれません。しかしこれは、どちらが正しいか間違っているとか、どちらが優れていて他方が劣っている、などということを主張するものではありません。私たち現代人は過去の人の考え方を完全に理解することはできませんから、現代人の視点で過去の歴史を見てはいけないように思います。

17世紀の英国

17世紀の初頭、英国公認の宗教はプロテスタントでした。英国の(こっ)教会(きょうかい)は国王を首長としていて、国王のエリザベス1世はプロテスタントの教育を受けていながら、カトリックのミサも拒否してはいませんでした。1603年、エリザベス1世が死去すると、議会と王が対立し、英国は大混乱に陥ります。ニュートンが生まれた1642年には、清教徒を率いるクロムウェルが、国王を斬首し権力を握ります。ニュートンが身を置いたケンブリッジは、オックスフォードと並んで長い歴史を持つ教育都市でしたが、オックスフォードは王党派の人々が、ケンブリッジは清教徒の人々でした。クロムウェルが権力を掌握していることは、ケンブリッジの人々が栄光の日々を送る中、オックスフォードの人々は沈鬱な毎日を送っていました。しかしそのような日々も長くは続きません。ニュートンが清教徒学校に通っている15歳の頃、クロムウェルが死去すると、ふたたび王党派が力を盛り返してきて、2年後の1660年、斬首された王の息子であるチャールス二世が即位し、王政復古が起きます。立場は逆転します。ニュートンがケンブリッジ大学に入学したころ、大学は政治的陰謀や権力争いと無気力が支配する場でした。教授たちの中には学問と縁のない人や、ケンブリッジの近くに住んでおらずめったに大学に来ない人もいたようです。必須科目というものは事実上なく、大学に居住(きょじゅう)し授業料さえ払えば学位が修得できたのです。学生たちは毎日パブで飲み歩き、勉学もせずとも学位だけは取得し卒業していったようです。何を研究しようと大学は気にかけないという風潮は、ニュートンにとって好都合でした。友達もおらず、政治にも関心のないニュートンはそんなことには目もくれず、貪欲に本を読み知識を身につけることができたのです。

ニュートンが『プリンキピア』を書き上げ人生の転換期を迎えるころ、英国も大きな転換期を迎えようとしていました。スチュワート王朝の最後の王のジェームス2世が王位を追われ、ウイリアム3世は妻メアリー2世とともに英国の王となります。これを名誉革命といいます。これにより王権は衰退し、議会の勢力は増大します。1689年、ケンブリッジ大学が国会議員として送り込んだのは、有名教授となったニュートンでした。英国は近代的立憲国家へと変わろうとしていました。


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