ニュートン

最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.2]:落ちるりんご

【最後のバビロニア人『ニュートン』のお話】は全4記事からなるWeb連載です

前回の記事はこちら 最後のバビロニア人『ニュートン』のお話[Vol.1]:科学革命の旗手

万有引力の発見者ニュートンのエピソードとして 「ニュートン はりんごが木から落ちるのを見て、万有引力を発見した」というお話は有名です。また、ニュートン は万有引力の発見、微積分の発明、光学理論などの偉業を成し遂げていますが、これらの発明や発見は疫病が流行した約2年の間に得られていたとされ、この期間は「驚異の年」と呼ばれています。広く知られているこれらの伝説について深掘りしてみましょう。

ニュートン の生い立ち

ニュートン誕生

ニュートンが生まれたころに戻りましょう。この時代、ヨーロッパの国々はどこでも、戦乱に次ぐ戦乱で死は日常でした。現在の皆さんは平和な社会で生活していますから、当時の恐ろしい恐怖に満ちた日常は想像できないと思います。魔女裁判があり何の罪もない人が拷問の上公開処刑されます。斬首、首つり、火炙りなど頻繁に行われていました。ニュートンの父はこの混乱の中、ニュートンが生まれる3ヵ月前に死んでいます。この心労もあったのでしょう、ニュートンは死も危ぶまれるほどの早産で生まれました。1リットルのビンにすっぽり入ってしまうほどだったということです。当時のシングルマザーにはよくあることのようですが、子供を疎ましく思ったかもしれません。女性は再婚しないと生きていけなかったからです。母は、ニュートンはすぐに死ぬと思っていたようです。しかし彼はしぶとく生き抜きます。彼がまだ3歳のとき、母は再婚します。再婚相手は2倍以上も年上の、63歳の資産家の教区牧師でした。ニュートンはすぐに母方の祖母に預けられてしまいます。幼い子供にとって、母親がすぐ近くに住んでいるにもかかわらず会えないというのはとても残酷なことです。これは彼の性格に多大な影響を与えたと思われます。ニュートンは猜疑心が強く、神経症で、心を許す友もなく、暖かい家庭を一生涯経験することはありませんでした。彼は後に子供の時のことを思い出して書いた文章の中で、「家に火をつけて焼くぞ」と母と義父を脅したと書いています。彼は祖母ともうまくいかなかったようです。

少年時代のニュートン

ニュートンが10歳のとき、義父がなくなり、ウールスソープに戻って母と母が再婚でもうけた3人の幼い子供といっしょに暮らすことになります。しかし、もはや10歳にもなっていたので、母親や新しい家族に馴染むことができません。12歳のとき、ニュートンは12キロ先の清教徒学校へ追いやられます。学校では優秀な成績をおさめましたが、そのためか同級生たちからは嫌われ、孤独な生活を送ります。ほどなくして、母親は農場の仕事を手伝わせるために退学させてしまいます。当時は階層社会で、農場主と使用人の身分の差ははっきりとしていました。ニュートンは農作業を一切しませんでした。ちなみに、当時の一般家庭では女性の地位は低くメイド扱いでしたから、男の子は母親を軽く見て尊敬していません。ですから、ニュートンが母親や祖母とうまくいかなかったのは当時としてはよくあることでした。結局、校長先生の尽力もあって復学できます。

大学時代

18歳のとき、ニュートンはケンブリッジ大学に入学します。母親は年に700ポンド(約1400万円)の収入があったのに、ニュートンには10ポンドしか渡しませんでした。現在の日本円で約20万円ですから、月に1万7千円となります。ケンブリッジでも厳しい階級制度でしたから、ニュートンは最底辺に置かれたわけです。大学もまた階級制度で、貧しい学生は給費生(サイザー)と呼ばれ、学費や食費が免除される代わりに裕福な学生に仕えなければなりません。靴を磨いたり、髪を整えたり、使い走りをするだけでなく、便の後始末までさせられました。ニュートンはサブサイザーという身分で、雑用はサイザーと代わりませんが、学費や食費は自分で払わなければなりませんでした。自尊心の強いニュートンにとっては、耐え難い屈辱の毎日だったと思います。しかし勉学のかいがあって、24歳で特別研究員(フェロー)、26歳でルーカス教授に選ばれます。大学から支給される給料は当時の基準としては破格で、母親から渡されていた10ポンドの10倍、100ポンドでした。

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ニュートン伝説の検証1

驚異の年

ここでニュートンにまつわる逸話について検証しましょう。まず「驚異の年」について。ニュートンが23歳の頃イギリスを恐ろしい疫病が襲います。23歳のニュートンは、故郷のウールスソープに引きこもり、誰にも会わず一人で勉学に打ち込みます。このことがのちのニュートンを生んだことに間違いはありません。しかし驚異の年」の伝説「ニュートンの主な業績、発明や発見はこの時期にすでに得られていた」という伝説はほんとうでしょうか

 資産家だった義父からニュートンは、遺産として大量の紙を受けとりました。科学革命にとって極めて重要な役割を果たしたのが紙の存在です。紙とは、paper の語源となったパピルスではなく、中国から伝わったもののことで、英国で商業用の製紙工場ができたのは 1588年です。ですから紙はまだまだ非常に高価だったのです。ニュートンはこの紙を使って大判のノートを作り、それに「無用な本」と名付け、おびただしい量の記録を残しています。高価な厖大な量の紙を手に入れ、何百万語の文章、数式、アイディア、日常の出来事が記録できたことは、彼にとって大きな利点でしたが、現在の私たちにとっても、天才ニュートンがどのような思考過程をたどったか、かなりの部分はっきりと知ることができます。しかし、ニュートンがウールスソープの実家にこもっていた時の記録には、万有引力の発見微積分の発明光学理論についての記述はありません

親交のあった科学者達

数学や物理を含む科学は決して一人でできるものではありません。ニュートンは孤高の人で一人で研究していましたが、何人かの科学者とかかわりを持っていました。まず、その人たちの紹介をしておきましょう。

ロバート・ボイル(1627~1691) 近代化学の父と呼ばれています。錬金術にはまり多くの実験を行っています。信仰心に(あつ)く、自分の行う実験(錬金術)は神への奉仕だと考え、矛盾を感じていませんでした。

ロバート・フック(1635~1703) ボイルの実権助手として研究を始めますが、空気ポンプ、気圧計、望遠鏡、顕微鏡など多くの装置を改良し、発明しています。バネを使った時計を作ったのもフックです。すでに一流の科学者としても認めらており、王立協会の実験主任を務めていました。

エドモンド・ハレー (1656~1742) 天文学者。ニュートンの結果を用いて彗星の出現を予測しました。これによってこの彗星にハレー彗星という名前が与えられました。

ニュートン式反射望遠鏡

ニュートンは30歳になったころ、いくつかの新しい結果を得ています。一つは後にニュートン式と呼ばれることになる反射望遠鏡の発明です。王立協会に望遠鏡の複製品を送ると、望遠鏡が展示されます。するとフックは「自分もすでに反射望遠鏡を作っている。もっと小型でさらに倍率の高いものをだ」というのです。また、「光はプリズムによって色が分離する」という光学に関する講演をしたときも、フックから反論が出ました。「自分が実験したところによると、プリズムによって生じる色はプリズム自体の性質によるもので、ニュートンの光学理論は間違っている」と批判しました。ニュートンは傷つき、すでに書き上げていた光学に関する著作の出版を取りやめてしまいました。望遠鏡に関しては、フックはニュートンの望遠鏡を見て、もっと良いものを作ろうとしたがうまくいかなかったという説と、ニュートンの方がフックが望遠鏡を作ろうとしているのを聞いてニュートンが先を越した、という説とがあります。

学会では常に自分の説が批判にさらされるものです。多くの人との討論や批判によって理論は改良され進歩するのです。ニュートンの光の理論も、「プリズムによって分光した赤色をさらにプリズムに入光してももはや分光しない」ことを示すことによって、自分の説が正しいことを示しています。また、フックは学会において講演を批判する係でもあったようです。  

これ以降ニュートンは自分に対する批判に腹を立て、科学会との交流を完全に絶ち切ります。まだ30代なのに白髪交じりの頭に櫛も通さず、誰とも会わずに研究室に閉じこもります。

ニュートン 伝説の検証2

ニュートン のりんご

落ちるりんごの話」はニュートンの逸話のなかでももっとも有名です。この話を聞いて19世紀最大の数学者ガウスは、「ばかばかしい、ニュートンがこの話をしたのは、バカを相手に話していることに気づいたからだろう」と語っています。ニュートンが話した相手は伝記作家で科学者ではありません。伝記には、たとえば、アルキメデスが風呂の中で浮力を発見したとか、ジェームス・ワットがポットの蒸気をみて蒸気機関を発明したなど、ちょっとした思いつきが大発見につながったという話がよくあります。こういったお話はたいていが伝記作家の作り話です。ガウスは一流の研究者ですから、時代を変革するような発明は、そんな一瞬の思い付きでなされるようなものではなく、何週間も何ヵ月も、いや何年もの熟考の末生まれるのだと言いたかったのだと思います。では万有引力の法則はどうだったのでしょうか。

万有引力の法則

万有引力の法則」という言葉を前知識のない人が聞くと「リンゴの話」にでてくるように、「すべての物質には引力が存在するという法則」と理解します。あるいは次の法則を思い浮かべるかもしれません。

「2つの物体の間に働く引力は2つの物体の間の距離の2乗に反比例する」

この法則を逆自乗の法則と呼ぶことにしましょう。もし万有引力の法則が逆自乗の法則であったなら、「万有引力の法則」は、ニュートンではなくフックのものだったかもしれないのです。

 フックは1679年にニュートンに手紙を書いて、「太陽と惑星の間には距離の2乗に反比例した何らかの作用が働いて惑星は運動しているのではないだろうか」と問い合わせています。ニュートンはこれに対し誠意のない返事をしていますが、これに大きな刺激をうけた可能性があります。

1684年の1月、3人の学者が議論をしていました。ハレーとフックと、もう一人ロンドンのセントポール大聖堂を建てた建築家であり天文学者でもあったリストファー・レンでした。3人は最近発表され物議を読んでいる「ケプラーの法則」について議論していたのです。デカルトの「渦巻き論」も議論に登りました。この宇宙には目に見えない粒子の流れがあり、その(うず)によって引き起こされる規則正しい風が惑星を吹き流しているのだ、というのがデカルト説です。フックは自説を持ち出します。「太陽が地球を、なにか磁力のような力で引っ張っているのではないだろうか。磁石の引きあう力は、距離が倍になれば半分になり、距離が3倍になれば9分の1になる」。レンは「では、その“逆自乗の法則”とやらを仮定すれば、ケプラーが唱える“地球の軌道は楕円だ”という法則を数学的に証明できるのか」と聞きます。「おそらくできるだろう」とフック。「それはすばらしい、それができたら償金を出そう」とレンは答えます。しかしその後フックからは何の音さたもありません。7ヵ月後、ハレーはケンブリッジ大学にニュートンを訪ね、この問題について尋ねます。するとニュートンもフックと同様に、「ああ、その問題なら以前に考えたことがある。あとで証明を送るよ」と約束しました。しかし数ヵ月たってもなしのつぶてでした。その後の経過は前回のお話で述べたとおりです。

科学革命の金字塔『プリンキピア』

その後2年間をかけてニュートンは心血を注いだ労作『プリンキピア』を書き上げます。ニュートンはこの著作によって、単に「すべての物には引力がある」とか「引力が逆自乗の法則を満たす」といった事実を述べているのではなく、もっと根本的で普遍的な運動の基本法則を設定し、そこから多くの事実が導かれることを示しているのです。この書物こそ、近代物理学の出発点となったまさに科学革命の金字塔といってもよい書物なのです。

「万有引力の法則」の一部は「驚異の年」に考察されていたのでしょうか。これもまた無理なように思われます。どんな天才でも研究にはモチベーションが必要です。当時ニュートンは22歳で、当時の社会情勢から見て、まだ最先端の研究とか研究者との交流はなかったと思われます。「万有引力の法則」は、ハレーに絶賛され、激励され、何年もの時間をかけて構想を練り、『プリンキピア』の草稿を手直しする中でできあがっていったものだと思われます。

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