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Chapter 5:ピラミッドの謎を解く

5-5.ピラミッドの『地球尺度の謎』を解明する

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ピラミッドの『地球尺度の謎』のおさらい

今回は『1-1.ピラミッドの謎とは』で述べた地球尺度の謎について考えましょう。この説はいろいろなものがありますが、要約すると「大ピラミッドの底面の1辺は地球の周長を表していて、長さの標準となっている」となります。なんだかメートル原器を思わせる説で、『1-4』で述べたように、おもに19世紀か20世紀に作られた説のようです。古代の長さは身体尺で、時代や場所によって単位の長さが変わり、人々はそれを当然のことと思っていました。「大ピラミッドを長さの標準にする」というのは現代人の発想です。現在の私たちは長さを普遍的で絶対的なものだと思い込んでいますが、このように考えるようになったのはつい最近のことです。

メートル法が大ピラミッドとは無関係であるとしても、なぜこのような説が受け入れられたのでしょうか。前にも述べたように、ニュートンもエジプトの単位に興味を持っていたようですし、天文学や測地学に関連した断片的な伝承がいくつか残っています。「測量士が用いる 3-4-5の直角三角形がエジプト由来だというのは俗説にすぎない」という意見も、裏を返せばそのような伝承があったことを示しています。「歴史の父」ヘロドトスも、「ギリシア人は幾何学をエジプトから学んだ」と述べています。歴史小説に興味のある人は、フリーメーソンという秘密結社のことをご存知かもしれません。フリーメーソンは中世イギリスの石工のギルドから生まれたとされています。古代ローマの誇る巨石建造物は、エジプトから連れてこられた技術者によるもので、フリーメーソンはその秘術を受けつぐものである、という説もあります。それにしてもアメリカの1ドル札の裏に描かれているピラミッドは何を意味するものでしょうか?

1ドル紙幣のピラミッド

もちろんこういった説のほとんどは明確な証拠もありませんし、後の創作も多いと思います。しかしその背景には、古代エジプトの天文学や測地学や地理学における測量の正確さに関する何らかの伝承があったのではないかと思います。ここでは地球尺度の謎が生まれた時代背景を見てみましょう。まずは科学革命が始まる前のヨーロッパから始めましょう。

近世ヨーロッパの発展と数の普遍性

近世に入るとヨーロッパの科学技術は急速に発展します。その発展を支えたのは数学です。数学もそれにともない変化します。ヨーロッパでは、近世になるまで大学で教えられていた数学は、ユークリッドの『原論』をお手本とした論理数学でした。『原論』で扱うは抽象的な自然数であって、実際に文字で書かれた数を足したり引いたりするといった計算などは低級な商人の技芸だとして扱いませんでした。ルネサンス期になると、現在私たちが使っている算用数字(インド・アラビア数字と呼ばれる 1, 2, …, 9, 0 を使った記数法)がオリエントから伝わり、しだいに使われるようになります。それまでヨーロッパの人々は、現在では時計の文字盤ぐらいにしか使われていない、ローマ数字 I, II, III, IV, V, VI, … を使っていました。ヨーロッパの人々の数に関する考え方は、この記数法によって大きく変わることになります。考え方を変えたのは、この記数法だけではありません。科学技術の発達により、人々は数の持つ絶対性と普遍性を信じるようになったのです。

現在の私たちは数に囲まれて生きています。学校の成績も、人間の寿命も数に置き換えて判断されます。骨とう品や美術品でさえ、個々の人の好みを越えて絶対的な値段が決まっているような感じさえします。昔の人は数にそれほど信用を置いていませんでした。その代表的な例が時間です。人それぞれによって時間の長さの感じ方が違うと思っていたようです。その証拠の一つが夏と冬では時間の長さが違っていました。ヨーロッパだけでなく、古代エジプトでも、日本でも夏時間と冬時間がありました。「振り子の等時性」を発見して、時間が私たちの五感によらなく客観的に測ることができるものであることを明確に示したのはガリレオです。

近世ヨーロッパの地図とメートル法

当時は大航海時代といって、大海原をわたって航海するようになっていました。当時使われていた地図はなんと、ローマ帝国期にエジプトのアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスが作成した(といわれていた)ものでした。その地図は緯度と経度が書かれていました。緯度はよかったのですが、経度が大幅に違っていたため(つまり地球の大きさを小さく見積もりすぎていたため)、コロンブスはアメリカ大陸をインドと間違えたといいます。コロンブスは死ぬまでアメリカ大陸をインドと思い込んでいたようです。

緯度は夜星を観測すれば分かります。しかし、経度を測る方法が分かりませんでした。そのため多くの海難事故が起きます。イギリス政府は「正確な時計」の製作にばく大な賞金を掛け、その後まもなく正確な時計が完成します。この正確な時計の出現によって当時の人々の時間に関する考え方が大きく変わったのです。

時間だけでなく、長さ、重さなどの度量衡も、当時のヨーロッパでは統一が取れておらず、少し離れた町では違った単位系が使われていました。長さや重さについても、標準となる長さや重さを決めさえすれば、世界中どこでも共通の長さや重さが使えるようになります。では「標準の長さ」はどのようにして定めればよいのでしょうか。皆さんもご存知だと思いますが、少し前までは標準の長さは「地球の周長」でした(現在は、メートルは光の速度を基準にして決められています)。

メートル法が制定されたのは、19世紀になってからですが、『1-3.古代の伝承』で述べたように、イギリスとフランスはこのメートル法の設定に対し張り合っていました。フランスの議員たちは、メートルを地球の周長を基準として定める正統性として「アリストテレスが地球の周長は40万スタディアである」と言っている、など主張していますし。イギリス人は、フランスのメートル法に反対する理由として、イギリスの単位インチは、ピラミッド・インチに準拠する由緒正しいものだ、などと主張しています。こういった議論には、よくピタゴラスも登場します。しかし最近ではさすがにピタゴラスやアリストテレスは出てこなくなりましたが、その代わりに、「地球の周長をはかったのはエラトステネスだ」とされています。次回でこの説を検証することにします。エラトステネスについて見る前に、もう一度クフ王の大ピラミッドを見てみましょう。

北緯30度に建設されているクフ王の大ピラミッド

Chapter2『2-5』で述べたように、ギザの3つのピラミッドの方位は信じられないほどの正確さで造られています。それでは位置はどうでしょうか。クフの大ピラミッドの位置を見てみましょう。ピラミッドの測地学的位置は、グリニッジ子午線に関して

北緯: 29度58分45秒、 東経: 31度08分03秒

です。北緯は30度に非常に近く、その差は1分15秒、10進数に直すと 1/60+15/3600= 1/48=0.02083 度となります。つまり1度のわずか 1 50 の差しかありません。Chapter5『5-1』で示したように、1度がいかに小さいかを思い出してください。

1度
×

経度の方は1度の差があります。経度がいかに30に近かったとしても、グリニッジという起点があとで決められた以上偶然でしかありえません。では、北緯がほぼ 30度というのも偶然でしょうか。なぜギザの地が選ばれたのでしょうか。これも昔からいろいろ議論されています。ピラミッドを造るには、石材の採掘場所、運搬するためのナイル川の位置など建築のための条件が優先されたことと思われます。したがって、30度に非常に近いからといって、それだけで北緯30度を意図して造られたとは断言できません。

図5.4.1 では、観測者 A が真北 N に向かって北極星 H を見ています。これは現在の天体です(古代エジプト時代は、天の北極に北極星はありませんでした)。A’N’ は地表に書かれた線で、AN はこれに平行な線です。N’ は無限遠点にありますから、AN を延長すると N と N’ は一致します。目の位置 A と足の位置 A’ も区別しましたが、地球規模で考えると1点と見なされます。

古代の天文学

一般に、水平線 AN と星の方向 AH のなす角θを迎角といいます。観測値 A の北緯とは点の北極の迎角のことです。図5.4.2 は地球です。N は北極、E は赤道上の点です。北極星と水平面 AN’ とのなす角 θ が北緯です。黒点 ・ で示された角度と θ との和は90度です。したがって、北緯とは、赤道Eから地点Aまでの角度、∠EOA のことになります。

古代の天文学

Chapter1『1-3』で、レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉として「古代エジプト人は緯度と経度の入った地図を作成している」というのを紹介しました。ヨーロッパではヘレニズム時代に作られた古い地図が長い間使われ残っていたようです。海洋を旅する船員は星々を観測して自分の位置を知りました。しかしこれは南北の位置、つまり緯度だけで、東西の位置である経度を知るには目印となる山々や島にたよるほかありませんでした。したがって船は沿岸から遠く離れて運航することができませんでした。ではいつ頃から星々から北緯を知るようになったのでしょう。

仮説4:大ピラミッドは緯度の基準点だった

古代ギリシア人は星々を観測し地中海を行き来していたようです。実際はそれよりもはるか昔、ピラミッド時代のエジプトからだったかもしれないのです。そこでつぎの仮説を立てます。

仮説4大ピラミッドは緯度の基準点だった

この仮説の根拠の一つは、ナイル川の形状にあります。ナイル川の地図を見てください。

古代エジプト文明の地図

ナイル川は南北に長い一本の帯です。ナイル川はエジプトを貫く一本の大動脈です。エジプトの位置を示すには経度は必要なく、緯度だけで充分です。ナイル川を行きかう人々は星空を眺めて自分の位置を知ったと思います。エジプト人は夜の時刻や、季節などを夜空の星々から判断しました。星々の仰角から自分たちの現在の位置を判断したということは無理のない考えだと思います。また、ナイル川は氾濫を起こすと風景が一変してしまいます。川の流れさえ変わることがあります。縄師たちは氾濫後泥で覆われた平原を測量して農民に土地を分配しなければなりません。星々を観測し、北緯を決定し、地図を作り直したのではないかと思います。

ではエジプト人はどのようにして北緯を計測したのでしょうか。現在のように、天の北極に北極星があれば図5.4.1 のように北極星の仰角を測れば北緯が分かります。しかし残念なことに、当時は北極星は天の北極にはありませんでした。『3-5』で述べたように、エジプト人は方位を驚くほど正確に計測しました。この方法を復習しましょう。

古代エジプトの天文学

図5.4.3 のように、天の北極 O のまわりを回る2つの星、A星と B星に注目します。ただし、A星と B星を結ぶ線上に天の北極 O がくるものとします。実際に当時この性質を満たす2つの星が存在していました。図5.4.3(a) のように、A星と B星が垂直になったときの直線AB方角が真北です。図5.4.3(b) のようにAB が水平になったときのA または B の仰角が北緯です。

エジプト人が角度を数値で表していたかどうかは分かっていません。しかし、30度が全円の1 12 であることと、エジプト人が現在の傾きにあたるセケドという概念を持っていたことから、30度という角度を認識していたことは確かだと思います。図 5.5.4 では、仰角 θ は傾き h a で表すことができますし、30度という角度は正三角形の半分で、簡単に作れる角度です。

古代エジプトの天文学

大ピラミッドの北緯がちょうど30度であったことは偶然であったかもしれません。しかしエジプト人はあれだけ正確に1年の長さを計測し正確な暦を作っていますし、ピラミッドの方位も正確に計測しています。さらにギザという土地は、デルタ地帯の三角形のちょうど頂点にあたり、ナイル川の出発点でもあります。大ピラミッドを建設した後、この地の北緯がちょうど 30度であることに気がついたのでしょうか? 北緯30度であることを知っていたからこそ、この地に大ピラミッドを建設したのかもしれません。またたとえ偶然であったとしても、長い年月の間にこの事実に気づかなかったはずはないと思います。ナイル川の川上から長い旅をした人々はギザのピラミッド群を見て、やっと帰ってきたと感じたことでしょう。

エジプトの歴史はピラミッド時代(古王国時代)のあと、しだいに国際化していきます。第2中間期には、西アジアから侵入してきたヒクソス(異国の王)たちにエジプトが支配されます。ヒクソスを追い出した新王国時代のファラオたちは、シリア・パレスティナ地方に進出し、アナトリア(現在のトルコ)やメソポタミアなど広大な地域の強国たちとの国際紛争の波に呑みこまれます。もはやナイルの谷で安穏とした閉じた社会を続けることができなくなりますが、その反面、多くの外国の文化が入ってきます。何しろエジプトの歴史は長いのですから、ヘレニズム期までの間には、バビロニアの円1周360度とする角度が入ってきています。ただし、上で述べた仮説4における緯度という概念は、円一周を360度とした角度でなくそれと同等なセケドである場合も含めます。つまり上の仮説は「エジプト人は星の位置で場所を認識していた」ということをいいたいのです。

バビロニアも天文学が発達しました。しかし、メソポタミアは東西南北と四方に広がっています。つまり、エジプトは1次元であるのにメソポタミアは2次元です。1次元と2次元では複雑さが格段に違います。皆さんが山の中で迷ったときと、町で迷った時のことを比較してみてください。道は1次元ですが道のない山は2次元です。さらに、星々や太陽や月は時間とともに動きます。バビロニア人にとって、緯度という概念を得るのはとても難しかったのではないかと思います。ナイルの谷という1次元の土地は“緯度の発見”にとってとても有利だったのだと思います。

地球球形説

もうひとつ関連した問題地球球形説について考えましょう。どうして古代人は地球が球形であることを知ったのでしょう。よく説明されるのは、海で地平線の向こうからやってくる船は、最初に船のマストの先端が見え、しだいに船の上部から姿を現す、という事実です。しかしこれは現代人がすでに地球は球形であることと、光は直進するという物理の常識を知っているからであって、古代の人は、「波などの障害物があって、遠くにあるものは上から順に見えるようになるものだ」などと考えていたのではないかと思います。事実ヨーロッパの中世の船乗りたちは、地球は巨大な円盤で、地球の果ては滔々と流れ落ちる滝だと考えていたようです。

エジプトの長い安定した国政はナイル川に沿った詳細な地図を作るのを可能にしました。エジプトの産業の基本は農業であり、エジプトの役人は優れていましたから地図は作ったはずです。ナイル川は何度も流れを変えますから、地図は何度も作り変えられたことでしょう。何百年もかけた星々や太陽や月の観測と、地図の作成、こういった知識の積み重ねが地球球形説を生み出したと思います。

エジプト人が地図を作ったとしても、エジプトだけの限られた地図でした。その後アレキサンダー大王のアジア遠征によって地理知識は拡大します。さらにローマ時代に入ると、ローマ帝国の領土は、ローマ人が「われらの海」と誇った地中海を挟み、北アフリカから西アジア一帯を含むものになりました。緯度経度を用いた世界地図も作られていましたが、ローマ人が用いた地図は、東西南北や緯度経度を無視した、都市と都市を結んだだけの細長い地図でした。この地図は「すべての道はローマに通ずる」という言葉を表すものでした。また、「ギリシア人は星で地を量り、ローマ人は里程標で地を量った」という言葉もあります。ここでいうギリシア人は、ヘレニズム期かローマ期のギリシア人のことです。古典期のギリシア人の世界観はまだ素朴なもので、世界はオケアノスと呼ばれる大洋に囲まれた平坦な大地だと考えてたのです。さらに、ここでいう「星で地を量る」というのは「緯度」のことだと思われます。

前に、西ヨーロッパには「ふるいギリシア」は伝わったが「新しいギリシア」は伝わらなかった、と述べました。ヨーロッパの人たちが緯度経度で書かれた世界地図を使うようになるのは中世の終わりごろからで、中世で用いられていた地図は位置を正しく示すという目的のものではなく聖書に書かれた物語や事物を地図の形であらわした絵図でした。中世のヨーロッパの人たちも、地球は平坦な大地だと考えていました。

まとめ

以上述べたように、エジプトの天体観測の技術や土地の測量技術はとても優れたものでした。このことを中世のヨーロッパの人々はよく知っていたのではないかと思います。ガリレオが最初に数学教授として大学に就職できたのも、当時大学の医学部では占星術が必須科目だったからです。また中世のイギリスの大学でも、占星術がカリキュラムに含まれています。当時オックスフォード大学の数学系の教授は全員占星術の研究をしていました。ですから、エジプトやバビロニアの天文学のことも熟知していたと思われます。イギリスとフランスの間で「メートル法の論争」が起きたとき、エジプトのピラミッドが論拠として浮上したのもこうした背景があったからではないかと思います。

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