2-3.古代エジプト文明の長い歴史

『ピラミッドの謎』は全27記事からなるWeb連載です。

エジプト文明はいまから5千年も前に始まり3千年もの間続きます。いかにエジプト文明が安定した変化の少ない文明だといっても、これだけの長い期間の歴史の概要を述べることは、専門家でもないかぎりとても無理です。この節ではピラミッドの謎数学に関連した事項だけを取り出して述べることにします。

古代エジプト文明の王朝区分

『2-1.ナイル川とエジプト文明』の最後で、エジプト史の時代区分を簡単に述べましたが、これをもう少し詳しく見てみましょう。細部は研究者ごとに少しずつ違っていますが、ここでは簡略化して次のようにします。

エジプトの王朝区分

この王朝表は、紀元前3世紀の初め、エジプト人の神官マネトが当時エジプトを支配していたプトレマイオス2世のためにエジプトの歴史をギリシア語で書いて献上した『エジプト史』がもとになっています。当時のエジプトはギリシア人の支配する王朝で、ファラオはギリシア人でした。この『エジプト史』の原本は残っていませんが、その後のいくつかの著作のなかで「抜粋」が引用されて残っているので、概要がわかったようです。また神殿などの回廊の碑文や、各地の神殿に保管されていた史料などとも比較され、歴史家の間で補正されてきています。各王朝には綿々めんめんとファラオの名前が記されていて、なかには在位期間が数百年を越える王や、実在が危ぶまれる王もいますが、3千年もの長きにわたりよくもまあこれだけの記録が残されているものだと感心します。

本連載で議論している大ピラミッドが造られたのは古王国時代で、この時代をピラミッド時代と呼ぶことがあります。この節では古王国時代については簡単に述べ、詳しくはChapter5で述べます。

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初期王朝時代:文字の少ない時代の歴史伝承

エジプト文明は、エジプトに統一国家ができた初期王朝時代から始まります。『2-1.ナイル川とエジプト文明』 で述べた統一王朝ができる前までを復習しておきましょう。ナイルの谷にはいくつものノモス(州)ができ、各ノモスには宗教的な指導者が現れます。ノモスの長は神的存在、絶対的権力者に祭り上げられていきます。各ノモスはしだいに大きくなり、ノモス間の争いも起きるようになりますが、オリエントの他の地域のようにノモスは城壁に囲まれた国としての機能を持つ都市国家には発展しませんでした。各ノモスは都市国家としてまとまるのではなく、さらに大きな国としてまとまっていきました。前3500年ごろ、下エジプトと上エジプトのそれぞれに統一国家ができます。

統一国家ができるまでにはたびたび戦闘があったことでしょうが、後の時代のように小国が大国に隷属れいぞくされるようなことはなく、差別なく統合が行われたようです。これは前節で述べた神話からも分かります。部族と部族の戦いはその守護神どうしの戦いとなりますが、勝った神は負けた神を隷属させるのではなく、合体したり同じ神と見なされたりしています。エジプト人は農耕民だったので皆太陽を崇拝していました。そのため太陽はとても多くの名前を持つことになったのです。

前3300年頃には、デルタ地帯の下エジプトと、それより上流で第一急淵付近までの上エジプトの2つの王国ができていました。やがてこの2つを統合した王朝が現れます。これが第1王朝です。第1、第2王朝を初期王朝といいます。この時期はそれまでの先史時代と次の古王国時代との端境期にあり、徐々に国家としてのまとまりをみせていきます。

下エジプトは肥沃な三角州で富んだ国です。オリエントの歴史はたいていが、貧しい国が豊かな国を侵略します。エジプトの歴史でも、多くの場合上エジプトが下エジプトを制圧しているようです。近代史の場合、「文明の進んだヨーロッパの列強が発展途上のアジアを侵略する」のですが、古代史の場合これとは逆の現象が起きています。

ナルメル王の化粧板

初期王朝時代はまだ文字による記録が少なく伝承の時代です。前3100年ごろ上エジプトの王が上下エジプトを統一し、第1王朝の初代の王となります。この時代の出土品として図2.3.1ナルメル王の化粧板が有名です。この化粧板から、初代の王はナルメルである、という意見が有力です。

ナルメル王の化粧板

エジプトの彫像や壁画を見たことがある人はご存知だと思いますが、エジプト人の化粧は目が特徴的で、くっきりとアイシャドーが付けられています。化粧板は、このアイシャドーの粉を孔雀石などの美しい宝石を磨り潰して作るための石製の板で、いろいろな図柄が彫られています。ナルメルの化粧板には、ナルメルが下エジプトの王を捕らえて押さえつけているところが描かれており、すでに神格化された威厳を表しています。また、ノモスの長たちがトーテムを先につけた棒を掲げて従っているのが描かれています。この人物たちは服装からリビア人ではないかとされています。

白冠・赤冠・2重冠

上エジプトが下エジプトを制圧しましたが、エジプトが上エジプトのものとなったわけではありません。以後エジプトの歴史文明を通して、ファラオは常に上エジプトと下エジプトの統合の王として、上エジプトのトーテムのハヤブサ、下エジプトのトーテムのコブラをかたどった2重冠を着けていました。図2.3.2

エジプトの冠

神として崇められるファラオの存在

エジプトは長い間に民族的に均一化されていました。移住してきた人も100年もたてば同化します。つまり国民のほとんどが同じ境遇の農民でした。農耕民の場合、一方が他方を支配するより互いに協力した方がより大きな力となります。部族やノモスに発展しても、多くの人口を持ち労働力が大きい方がより大きな力を持ちます。戦闘は労働力(人口)を増やすためのものであり、ファラオには民衆を引き付けるための魅力やカリスマ性が必要でした。つまり、ファラオは民衆を力で支配したのではなく、民衆から神と崇められる存在だったのです。

関連記事以下の記事で詳しく解説しています。

2-1.ナイル川とエジプト文明

古王国時代:エジプト文明の青年期と文字の発明

古王国時代はエジプト文明の青年期で、若くはつらつとしており、多くの発明がなされました。特に重要なのが文字の発明です。数学が生まれたのもこの時代と考えられています。上で述べたように、エジプト文明を代表する大ピラミッドがつくられたのもこの時代で、ピラミッド時代とも呼ばれています。

第3王朝になると経済は発展し国はますます富んできます。ファラオは最初ハヤブサ神にすぎなかったのですが、ついには神そのものである太陽神となります。第4王朝がピラミッド建設のピークです。中でも最大級なのがクフ王の大ピラミッドで、ブロックの数230万個、平均重量 2.5トン、移動させた石の総重量は600万トンにもなります。ナポレオンは、これだけの石を使えばフランス全土を取り囲む壁を作ることができるだろう、と驚いたといいます。これだけの大事業をおこなうには、大量の人員、食料、機材の調達や、費用の計算など、膨大な富と強力な官僚組織が必要です。さらに、方位の測定や測量や精確な四角錐の設計などをみると、この時期に数学を含む科学技術が飛躍的に発達したことがうかがえます。ピラミッド以外にも、葬祭殿や神殿における彫刻や壁面の浮彫や絵画の中に、家具や美術工芸品などに、古王国時代の芸術性の高さや独自性を見ることができます。

第5王朝でも引き続きピラミッドは建設されますが、規模は前王朝より格段に小さくなります。ただしこのことから王権が弱体化したとか、建築技術が低下したとただちに判断することはできないようです。興味がピラミッド複合体のピラミッド本体から神殿建築の方に移っただけなのかもしれませんし、あるいは人びとの宗教観の変化があったのかもしれません。

第6王朝になると官僚制度は肥大化し、複雑化していきます。官僚の数は増え、神官団は力を持ち始め、王朝を維持していくことができなくなります。ピラミッドも造られますが、石積の技術は明らかに低下していますし、ピラミッドの崩落の度合いはますます大きくなり、現存しているものはほとんどが瓦礫がれきの山と化しています。

エジプト文明の歴史はとても長いのです。一つの王朝だけでも100年以上も続きます。古王国時代だけでも500年も続きました。しかし繁栄はいつまでも続くわけではありません。長い飢饉が続き経済が落ち込むこともあります。ファラオは神の代理ではなく神そのものだったのですから、自然災害が起きると王の神性が疑われファラオはもはや神でいられなくなってしまいます。古代では神聖王は自然の秩序を維持する能力がないと判断されると民衆によって殺されることさえありました。古王国時代の終わりにはピラミッドの規模もだんだん小さくなり、やがて作られなくなります。実権は宰相が握ることが多くなり、やがて中央政府の力は衰え、中央集権が崩れ、第1中間期へと移っていきます。

エジプトの歴史は、王国期と中間期を交互に繰り返します。王国期は繁栄している期間で、中間期は停滞期ですが、この区分はメソポタミア文明ととてもよく対応しているようです。これはなぜなのでしょうか。一つの理由は世界規模で起きる気象条件によるものと考えられています。古王国時代のナイル川の水位は、第1中間期の水位と比べだいぶ高かったようです。つまり、古王国時代は気候が湿潤で農作物がよく取れたのですが、第1中間期は乾燥化期に入りたびたび飢饉に襲われたと考えられます。中王国時代と第2中間期についても同様の観測がなされています。また、ある地域で災害が起きると、難民が生まれ難民は波となって豊かな町を襲います。この波は長い年月をかけて広い範囲に広がっていきます。民族の移動が生じるのです。メソポタミア地方ではこのような民族の移動がよく起きるようになります。

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第1中間期:地方豪族(ノモスの長)の台頭

第1中間期に入ると砂漠から遊牧民がたびたび侵入するようになり、デルタ地帯ではアジア系の侵入民に一時的に占拠されたようです。しかし、第1中間期の混乱の主な原因は国内問題であって、外国勢力の侵略のためではないようです。まだこの時期はエジプトの外の勢力(メソポタミアや地中海東岸の国々)はエジプトを組織的に脅かすほどに強力な勢力にはなってはいません。

第1中間期になると、中央のファラオのさまざまな特権は地方豪族(ノモスの長)に流れていき、やがてノモスの長は王を名のることになります。第7王朝から第10王朝までが第1中間期です。エジプトは分断され、各地で王朝が乱立します。マネトによると、第7王朝は70日に70人の王が現れたといいます。やがて、古王国時代には小さな村落だったテーベに生まれた第11王朝が次第に勢力を伸ばし始め、その4代目の王がエジプトを再統一します。

【王朝区分について】王朝表は研究者によって少しずつ違います。例えば、第11王朝5代目のファラオが国内を再統一してから後を中王国時代として、第11王朝を第1中間期と中王国時代の両方に入れるものもありますが、ここでは単純に中王国時代に入れてあります。特に中間期は複数の王朝が並立していることが多く、はっきりとした区分を決めるのが難しいようです。

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中王国時代:文学と数学の黄金期

第11王朝の4代目の王が「中王国時代の創始者」とされています。エジプト史では、南の上エジプトによって北の下エジプトが征服されるのが通例ですが、今回も同じです。下エジプトのテーベの町はその後王都として発展します。ナイル川西岸からテーベの町を見渡す高台に、列柱で飾られた荘厳な葬儀殿や巨石建築を含む建築複合体が作られ、古代エジプトの「王は神なり」という概念が復活したことを示しています。

初期王朝時代にはもうすでに文字による記録を持ち始めています。この文字は神聖文字(ヒエログリフ)といい、芸術的には優れたものでしたが、日常生活の記録にはとても面倒で使い物になりません。これに代わって、神官文字(ヒエラティック)と呼ばれる文字体がこの時期に発明されました。

関連記事以下の記事で詳しく解説しています。

ヒエログリフ(聖刻文字)

中王国時代は、エジプト文明の中間点にあたり、成熟期です。中央集権化が進み、官僚機構が整ってきます。エジプトの社会を取り仕切っていたのは官僚である書記たちです。この時代は文学も黄金期で、エジプト文学の最高傑作といわれるいくつかの作品が書かれています。書記の学校では文学や数学が教えられるようになります。よく「数学は言語だ」といわれます。メソポタミアでも文字が発明されてからだいぶたって、叙事詩や物語が書かれるようになってから、数学文書が書かれるようになりました。エジプト数学として現在に伝えられる「リンド・パピルス」の原本や「モスクワ・パピルス」の原本が書かれたのもこの時代のようです。これをみても「言語と数学」には何か関係があるように思います。

史料として残っていた書簡や会計文書などから、農産物の収穫も多く富が末端まで行き届いていたことや、生活や文化がとても高度で豊かであったことが分かります。書庫から出土した史料のなかには「地図」や「旅行の手引書」のようなものがあり、多くのエジプト人が海外に出かけていたことが分かります。この時代はもはや閉ざされた国ではなく、外交や交易がさかんに行なわれるようになってきており、国際化が始まろうとしています。

文明が興隆したのはエジプトだけではありません。このころになると、メソポタミア、アナトリア(現在のトルコ)、東地中海地方にも大小の都市国家や王国が生まれ、紛争が頻発するようになります。これまでのところ、エジプトは恵まれた地形のためこれらの外国からの侵略を受けることなく平和な生活を続けてこられました。しかしオリエントには大きな変化が起きていました。北方からは印欧語族と呼ばれる集団がじわじわと侵入してきます。それにともない、オリエント内部でも大きな民族の移動が起きてきます。エジプトも安穏としているわけにはいかなくなったのです。

メソポタミア地方では多くの王国が興亡を繰り返し、驚くほど多くの都市国家が存在していたようですが、まだエジプト文明の閉鎖性をうち破るだけの大国にはなっていません。エジプト文明は相変わらず古来からの伝統を重んじ、固有の文化に固執こしつしていました。

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第2中間期:異民族支配とエジプトの変化

中王国時代もしだいに陰りを見せ、国内は乱れ地方の豪族は権力を握り始めます。中王国時代のはじめの頃から、じわじわとアジア系の人たちがエジプト国内に入り込んできていました。この人たちはアモリ人といわれる人たちで、最初は平和裏にエジプト社会に溶け込んできましたが、第2中間期に入ると、デルタ地帯の東部を支配するようになります。

このころ西アジア全体を巻き込む大騒乱があり、その影響で移住民がさらに増えます。エジプトはこれ以降、閉鎖的な世界の中に閉じこもっているわけにはいかなくなるのです。神聖文字(ヒエログリフ)の文書では侵入者を「ヒクソス」と記しています。ヒクソスとは「異国の支配者」あるいは「牧畜の王」という意味です。ヒクソスはアジア系のアモリ人が多かったようですが、後にギリシア人となる印欧語族の人たちも混じっていたようです。そのことはエジプト王となる王名の中に印欧語族のものがあることや、土器の文様などから判断されるのですが、おそらくヒクソスは多くの民族が混血した集団であったと考えられています。この第2中間期は、エジプトがはじめて異民族による支配を受けた時期で、約200年間続きます。

エジプトの人々はヒクソスから馬と戦車、それに戦争のやり方を学びます。エジプトはそれまで地形に守られ大国との戦争をあまり経験してきませんでした。有能な文官が取り仕切る官僚国家ではありましたが、領土的な野心もなく、巨大な軍隊をもつ軍国主義国家ではありませんでした。平和な生活になれ、惰眠をむさぼっている間に、オリエントの世界は大国が覇権を争う戦国時代と化していたのです。実際そのあおりを受け難民(ヒクソス)がデルタ地方に侵入し、異民族による支配という屈辱を長い間味わうことになるのです。

エジプトはそれまで平和裏に暮らしてきたため軍事力は軟弱でした。ヒクソスはエジプトに、馬や戦車、複合弓などといった最新の殺傷力と機動力を持った武器や軍事技術、それとなにより残忍な“本当の戦争”というものを教えました。しかし、ヒクソスがもたらしたのは武器と軍事技術くらいだけです。ヒクソスの王たちは、自分たちより圧倒的に進んでいるエジプト文化に同化しようと努め、ファラオを名乗り歴代の王朝を継承します。

ヒクソスの支配によって、エジプトは大きく方向転換を強いられます。ヒクソスはもともと西アジアと強いつながりを持っていました。エジプトはこれまでのナイル川流域に閉じこめられた閉鎖的な孤立状態から引きずり出されたのです。これ以降は、西アジアを含むオリエント世界という舞台の上で振る舞うことになるのです。

まとめ

本連載で扱う「古代エジプトの数学」は、古王国時代に発達し、第2中間期に筆写されたものです。また、ピラミッドが作られたのも古王国時代です。したがって、本連載に関しては歴史はここまでとします。もちろんエジプトの歴史はここで終わったわけではありません。新王国時代になると、巻き返しが始まります。ふたたび地元(テーベ)の豪族がエジプト全土を統一し、王朝を開きます。ファラオたちは国境を越えアジアへと進撃し「世界帝国」へと変貌を遂げるのです。しかし、もはや歴史はエジプト一国だけではなく、地中海沿岸地方やアナトリア(現在のトルコ)やメソポタミアを含む複雑な国際関係のなかで見ていかなければなりません。

『ピラミッドの謎』は全27記事からなるWeb連載です。

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