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Chapter 4:ギリシアの数

4-4.古典期の数学とヘレニズム期の数学

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古典期のギリシア人と数学

本連載で「ギリシアの数学」と呼んでいるのは、ギリシアにおいて古典期に発達した数学のことです。『4-1』で述べたように、ペルシア戦争ののちギリシアのポリスの一つであるアテナイは未曾有みぞうの発展を遂げ各地から人が集まり文明が華開きます。ギリシア数学もこの時期に生まれたと考えられています。その後、数学研究の中心はアテナイからエジプトのアレクサンドリアに移ります。この時代をヘレニズム期と呼びます。古典期にアテナイで生まれた論証数学は、エジプトでオリエントの実用数学と出会いいちじるしい変貌を遂げます。どのような変化を遂げたかを述べる前に、古典期のギリシア人たちが数学をどのように見ていたのか見てみましょう。

前にも言いましたが、ギリシアの数学は書斎派の学者の理論で、オリエントの数学は現場の技術者の道具と見なされていたようです。ギリシアの大哲学者アリストテレスやプラトンにとって、数学とは役に立つものであるよりは美しいものでなければならないと思っていたようです。これに関するお話はいろいろ残っています。あるとき一人の学生がユークリッドに「その命題は何の役に立つのですか」と質問したそうです。ユークリッドはこの質問には答えず、後で奴隷に「あの学生はお金をほしがっているようだからお金を渡しておきなさい」と告げたそうです。

こういった「学問を高尚なもの」とするお話や「労働の蔑視べっし」に関するお話は、プラトンやアリストテレスに関しても数多くあります。しかし偉人が語ったとするお話は後の創作が多いのようで、いつの時代に、どうゆう目的で作られたのかを考える必要があるかもしれません。

ペルシア戦争の前までは、アテナイの軍隊は兵器を自分で用意できる自作農が主体でした。農民の一日の労働を詠った詩作も作られていますし、労働はかならずしも卑しむべきものではなかったようです。しかし、ペルシア戦争以降大量の奴隷が入ってきます。軍隊も次第に傭兵が主体となり、アテナイの社会は奴隷に依存した社会となります。アテナイは完全な民主政になり、ほとんどの公務員(市民公職者)は選挙で選ばれ、毎年、あるいは年に数回も交代します。国(ポリス)の財政や行政を掌るのは公共奴隷でした。このような状況から「人に雇われて働くことは奴隷のすることで、恥ずかしいことだ」という「労働の蔑視べっし」が生まれてきたようです。

他民族に関する差別意識は世界中どの地方にも、またいつの時代にもありました。ペルシア戦争が終わった当時は、ギリシア人にはまだ異民族に対する蔑視べっし感情はありませんでした。ギリシア人の用いるバルバロイという言葉は、この当時は「意味の分からない言葉を話す人」という文字通りの意味で、のちの「野蛮人」を表わす侮蔑的ぶべつてきな意味は含んでいませんでした。ペルシア戦争直後に作られた悲劇『ペルシアの人々』にはペルシア人への侮蔑の感情は見いだせないと言います。当時のオリエントは豊かな穀倉地帯でした。このころのギリシア人意識には、オリエント文化の圧倒的な豊饒ほうじょうさと洗練された美しさに対し、侮蔑的ぶべつてきな感情よりはむしろ憧憬しょうけいとか畏敬いけいの念に近いものがあったようです。実際、ペルシア戦争後になっても政争に敗れた政治家がペルシアによく亡命していますし、ペルシアで兄と弟が王位を争う内戦が勃発したときも、1万人ものギリシア兵が傭兵として弟側に雇われています。結局弟側は敗れてギリシア兵は敗走することになるのですが、その敗走の物語が有名なギリシア文学として残されています。ペルシアを経済力の豊かな大国と認めなければ、傭兵になるようなことはしません。

当時のアテナイの市民は暇を持て余していました。市民は男だけで、在留外国人や奴隷は含みません。男(市民)は家庭には寄り付かず、広場(アゴラ)や同業者の集まるサロンで政治や哲学の議論をして過ごします。家は夜に帰って寝るだけです。女性は家に閉じ込められて、お祭り以外は外に出ることを許されませんでした。少し裕福な家にはアンドロンという男専用の部屋があり、そこではよく宴会が開かれました。その宴会はシュンポシオンといい、現在のシンポジウム(学会、討論会)の語源になっています。シュンポシオンは、オリエントの王侯貴族の優雅で洗練された会食をまねたものでした。男たちは花冠をかぶり長椅子に寝そべって、酒を飲み食事をしながら会話を楽しみました。このような場で喜ばれるのは突飛とっぴな意見です。とんでもない考えや独創的な意見のほうが受けます。哲学や数学がこのような土壌で生まれたのかもしれません。

この時期ギリシアは大国ペルシアに勝って少し自信過剰になっていたのかもしれません。他民族に対し優越意識をもっていたことも確かです。アリストテレスは次のように言っています。

ヨーロッパは寒く人々は勇敢であるが知性に欠ける。一方アジアは暑く人々は不活発だが知性はある。ギリシアはその中間に位置するゆえに、程よく温暖で知性と勇気の双方を適度な度合いで持っている

ここでいう「ヨーロッパ」と「アジア」という言葉は、アリストテレスの知っている地域に限定されています。この言葉の意味する範囲は時代によってずいぶん違いますが、ヨーロッパ人は知性に欠け、アジア人は知性がある、と言っているのは注目に値します。このような理由から、アリストテレスはギリシア人が本質的に「自由人」であるためには、異民族は奴隷となったり支配されてもよいと考えます。むしろ、異民族や女性は、ギリシア人の男性に支配される方が幸せであると、本気で考えていたようです。

しかしまだこの時期には、ギリシア人の他民族に対する蔑視べっし感情はあまりなかったようです。ヘロドトスもエジプトを高く評価しており、決してエジプトを文化の遅れた国とみなしてはいません。このことがのちにヘロドトスの評価をひどく貶めることになりますが、これについては次節で述べます。アリストテレスは形而上学という著書で、「エジプトで数学が生まれたのは神官に余暇があったからだ」と、数学がエジプトから伝わったことを認めています。また政治学では、「人間らしくあるためには、労働ではなくスコレー(schole 暇)こそが重要だ」とも言っています。古代ギリシア語のスコレーは英語の school (学校)の語源となります。ですからアリストテレスは、「理想的な国家では市民は労働から解放され、政治や哲学的な思索に耽る余暇が必要である」といい、労働を担う奴隷の必要性をとなえているのです。

ギリシア数学の特徴は、よく思弁しべん的であるとか、演繹えんえき的であるとか、観照的であると言われます。プラトンやアリストテレスは、実際に自然を観察したり、実験をしたりする必要をまったく認めませんでした。人間の五感は間違いやすいものであり、実際に観察されるものは真実の姿ではなくその影にすぎないからだ、というのがその理由です。たとえば、人間が定規とコンパスで描いた円とか三角形は真の円とか三角形ではなく、その近似でしかない、というのです。プラトンは、太陽を観察して目をつぶした人の話をしています。

プラトンは「地球は球である」と言ったとか、アリストテレスは「月食は地球の影が映ったのだから、地球は球に違いない」と言ったとなどという伝承があります。これらはおそらく後世の創作だと思われますが、もし言ったとしても、観測にもとづく科学的な根拠からではなく宗教的な観点から、あるいは彼らの理想とする神的な宇宙観から述べられたものと思われます。

理論数学実用数学の対比は後世の数学史の学者の意見というだけでなく、当時のギリシアの人々の考えでもあったのです。おそらくこれは、オリエントの実用数学を意識したもので、ギリシア数学の優位性を示したかったためではないかと思われます。

ヘレニズム時代に入ると数学研究の中心は、エジプトのアレクサンドリアに移り、ギリシアの理論数学はオリエントの実用数学と出会います。古典期の数学とどこが違うかをみるために、ヘレニズム時代を代表する数学者アルキメデスの研究を少し見てみましょう。アルキメデスは、数学以外にも兵器の開発とか浮力の研究など、思弁的な純粋理論にとらわれることなく、広く科学一般の研究をしています。ここでは、本連載のテーマの一つである円周率についてアルキメデスの行ったことを見てみましょう。アルキメデスは、ギリシアの理論数学の伝統を忠実に引き継いでいて、「厳密な証明」を常に心がけていましたが、この円周率 π の計算においては、むしろオリエント数学の伝統を引き継いでいるように思われます。この内容は少し込み入っていて長いので次節にまわすことにして、ギリシアの数学とどこが違ってきたかを前もって述べておきます。

ユークリッドの『原論』では、自然数の理論「数論」が扱われています。この数論では、素数や、最小公倍数を求めるユークリッドの互除法など多くの定理が述べられていて、現在の数論の基礎となっています。しかし、奇妙なことに、『原論』の数論には具体的な数値は現れていないのです。図などの例として現れたとしても、2 とか 3 といった小さな数に限られます。言い換えると、古典期の数学では計算というものをしていないのです。これに対しアルキメデスは、大きな数値の計算をふんだんに行っています。オリエント人と同様に「計算好き」だったようです。

次回は『4-5.アルキメデスの円周率』

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