目次

目次へ戻る

Chapter 2:エジプトの歴史と神話

2-1.ナイル川の文明

Advertising

文明の発展と共にあった数学の発展

ピラミッドの謎を解くには、エジプトの歴史を知る必要があります。古代エジプトの人たちは円周率や黄金率を理解できるほどの高度な文明を持っていたのでしょうか。それともこれまで考えられていたように、エジプト数学はごく初歩的なもので円周率は単なる偶然だったのでしょうか。

本連載の目的は「ピラミッドの謎とき」だけではありません。数学がなぜ生まれたのか、どのようにして生まれたのかを知ること、つまり数学は社会とは無縁のものではなく、社会の発展と一緒に進歩し、文明の発展とどのようにかかわってきたかを見ることです。そのためにも、エジプトの歴史を知ることが必要です。またこのかかわりがピラミッドの謎に大きなヒントを与えてくれると思います。

エジプト文明とメソポタミア文明

エジプト文明は、メソポタミア文明から少し遅れて、今から約5千年ほど前に国ができはじめ文明が始まったようです。両文明は共に大河のほとりに発達しました。しかしこれらの大河はエジプトとメソポタミアではずいぶんと性格が異なっていました。この性格の違いによって2つの文化は違った発展を遂げるのです。特にその違いは宇宙観(天文学)の中に現れています。文明の発達とともに各々の性格の違いが色濃く現れていきますが、ここではまず文明がどのようにして起きたかを見てみましょう。

人類の長い進化の歴史の中で、人類が原始的な文化を持つようになったのはほんの1万年前のことです。最後の氷河期が終わり、しばらくのあいだ温暖で湿潤な気候が続きます。アフリカ大陸も豊かな森林におおわれていたようです。このことはサバンナの砂漠にある岩絵や線刻画にゾウ、サイ、キリンなどの大型哺乳動物が描かれていることからも分かります。やがて紀元前7000年ごろから世界規模の乾燥期が始まります。森林は後退し、草原はステップ化していきます。人が住めなくなったアフリカ奥地、おそらくサハラ砂漠地方から、人びとは水を求めナイル川流域に集まってきます。エジプトの新石器時代についてはこれまで空白だったのですが、最近遺跡が発見され、狩猟・採集から農耕・牧畜への移行がだんだん明らかになってきているようです。

紀元前4500年ごろになるとこれらの先住民にアジアからの移住者が加わります。おそらく地中海東海岸方面からナイル川にそって、あるいは紅海から海を越えてやってきたのでしょう。エジプトに農耕文化が芽生えます。

農耕は、ある特定の場所で発生し、それが各地に伝播でんぱしたのでしょうか。現在のところアジアの各地で同時多発的に発生したという説が有力ですが、まだはっきりしたことはわかっていません。遺跡から発掘された山羊や羊の品種、麦の品種などは西アジア原産のものでした。

数学の進歩、科学技術の進歩、あるいはもっと一般に文明の進歩は、滑らかな直線状には進みません。あるとき急激に発展したと思うとそれ以後長い間停滞します。これはなぜでしょうか。突然急激に発展することを、よく「○○革命」といいます。たとえば農耕文化の始まりは「農業革命」といいます。突然の発展とその後の停滞。この原因のひとつは、「発明・発見は非常にまれにしか起きない」が、「知識・技術の伝播は広範囲に時代を越えて伝わる」ということではないでしょうか。特にエジプト数学は、初期に高度な数学が生まれたのですが、その後廃れることはなかったものの大した発展もなくそのままの形で伝えられてきたようなのです。

おなじころメソポタミアでは、チグリス・ユーフラテス川の河口付近にシュメール人が住みつき、メソポタミア文明を築き始めています。おそらくエジプトへも、同じシュメール人(の祖先)が紅海を通ってやってきたと考えられています。メソポタミア特有の円筒印章や美術工芸品や日干し煉瓦を積み重ねて作る建築様式に強い共通性が見られるからです。しかしアジアからの影響があったとしてもそれは文明のはじまりの頃までです。その後はエジプトの閉鎖的な地形に守られて、独自の固有の文明を発展させ、そのスタイルを頑固に守り通し、決して変えようとはしませんでした。

人類は狩猟・採集の時代は他の動物と同様、母親を中心としたグループを作りあちこち移動していました。獲物の数が限られているためグループ間の距離は遠く離れていなければなりません。やがて、ナイル川のほとりで漁撈ぎょろうと麦の栽培で生計を立てるようになります。人びとは定住するようになり、グループはしだいに大きくなりますが、やはり血族を中心とした母系制社会でした。このような血縁関係で結ばれたグループを氏族しぞくといいます。しばらくすると水路を作り灌漑かんがいをおこなえばもっと効率よく麦の栽培ができることを学びます。灌漑かんがい工事や農作業はグループの人数が多いほど効率的です。いくつかの関連のある氏族しぞくはまとまって部族を作り、部族は連合して大きな集団を作ります。このような集団が住む地区をノモスといいます。つまり、ノモスとは今でいう県とか州のような地域の社会単位です。それぞれの氏族はその先祖を象徴する神的な動物、つまり氏族の守り神を持っていました。これをトーテムといいます。氏族の集団であるノモスもトーテムを持っていました。これはそのノモスの中で最も強力な氏族のトーテムだったようです。

この頃、古代エジプト人とは着衣や風貌の違った人たちが存在していたようです。その人たちの一団はおそらくリビア人で、地中海の岸沿いにやってきたと思われています。またナイル川の上流からはヌビア人が黒人文化を携えてやってきたようです。

エジプトの農耕は紀元前4500年ごろから始まります。乾燥化が進み、また人口が増えると、それまでの原始的な農法では立ち行かなくなります。ナイルの水を引く水路を作り、灌漑用の掘割ほりわりも作らなければなりませんでした。近隣の氏族との間に水利に関する争いが起き、戦闘に発展することもあったでしょう。灌漑事業や戦闘などでは、大きな集団のほうが有利ですし、集団が大きくなるとそれを統率する指導者が必要です。たがいに関係のある氏族が結びつき、いくつかの氏族は同盟を結び、氏族の連合はノモスへと発展します。ノモスの中に王権がめばえます。エジプトの王ファラオが誕生します。

エジプト文明はナイル川によって発展し、メソポタミア文明はチグリス・ユーフラテス川によって発展しました。この2つの文明の違いは、これらの川の違いによるところが大きいようです。ナイル川は、とても律儀で穏やかな川で、まるで機械仕掛けのように毎年決まった時期に洪水を起こし、上流から農作物の生育に必要な肥沃な土壌を運び、ゆっくりと水位を下げていきます。洪水といっても増水程度で、人びとは増水が起きる前に高台に避難することができます。一方、チグリス川とユーフラテス川はともに荒ぶる川で、大災害をともなう洪水をたびたび引き起こします。その記憶はノアの箱舟伝説として伝えられています。これは水源地に原因があります。ナイル川の源流は熱帯雨林で、雨量は多いのですが一定していて規則的です。一方チグリス・ユーフラテス川の源流はトルコの高山の雪解け水で、年によって降雨量が大きく変化します。雨量が少なく旱魃かんばつを引き起こすこともあれば、大洪水を引き起こすような雨量のときもあります。

エジプトの王ファラオは常時天体を観測し、いつ洪水が起きるかを予測していました。また、ナイル川にはナイロメータとよばれる装置を設置し、川の深度を測っていました。氾濫が起きる前に、運河の土をさらい堤防を補修し、農作業の道具など大切なものをすべて高台に移動しなければならなかったからです。やがて増水が始まると、運河の水門を開き耕作地に水を引き入れるのです。洪水で運ばれた肥えた土は沈殿し、ただ種をまくだけで豊かな恵みを約束してくれました。ナイル川の水位が下がると、水門が開けられ余った水がナイル川に放出されます。これは耕作地に塩分が溜まるのを防ぎました。この点もメソポタミアとは異なる点です。メソポタミアでは、耕作地に引き入れた水は蒸発するのにまかせていたため、しだいに塩分が蓄積し収穫量が激減するという塩害に苦しみました。余った水を川に戻すほどの水量がなかったのです。簡単にまとめると、エジプトの神は恵みの神であるのに対しメソポタミアの神は荒ぶる神だったのです。

エジプト文明とメソポタミア文明

メソポタミアでは、チグリス・ユーフラテス川はいつ氾濫を起こすか予測不可能な川でした。洪水の後は大きな被害と過酷な労働が残されていました。また土地もナイル川沿岸のように条件が一様ではなく、肥えた土地とやせた土地、洪水にさらされる低地と安全な高地などの差があり、水争いも頻繁に起きました。よい土地を求めて紛争が頻繁に起きます。村落は周囲を城壁で囲い、城壁で囲まれた都市は、ひとつひとつが政治や経済のシステムを持つ“都市国家”として成長していきました。メソポタミアでは、多くの都市国家が乱立して、つねにどこかで戦争が起きていたのです。一方エジプトでは、神殿や王宮のある宗教都市は発達しましたが、城壁で囲まれた都市国家はできませんでした。

これらの河川の性格の違いは、エジプト人とメソポタミア人のものの考え方に大きな違いを生み出します。エジプト人は変化しないものに、普遍性に興味を示しました。自然(神)は、規則正しく行動し、決して裏切ることはない秩序に従っていると考えました。したがって天文に関しても、日食とか月食や惑星などといった不規則な変化をするものに関してはまったく興味を示しませんでした。人間も自然の一部であり、特別な存在ではありません。トーテムが示すように、自分たちの先祖は、イヌとかトキとかハヤブサの姿をしていました。牛や猫や犬などの動物をとても大切にしていて、トキなどの聖獣を殺すと死刑になることもありました。しかも自分たちの首長(王)は、ナイル川の洪水の時期を当てたり、洪水が引いた後に運河を掘削したりして、自然(神)を手なずけ制御することができます。しだいに王は神格化されていきます。王はノモスの象徴であるトーテムと同一視され、不可侵ふかしんの神的存在となっていきます。

メソポタミアの神は気まぐれでいつ壊滅的な洪水や災害を起こすかわかりません。人間は自然の猛威のもとでは無力であり、気まぐれな荒ぶる神がいつ何をしでかすかわからないとおびえていました。王のおもな役割は、神のご機嫌を伺い、神の意向を知ることでした。人間は神々の食糧や雑用をまかなうために、神々が自分たちの姿に似せて作った召使でした。王とはいえ神の下僕に違いありません。王は神の言葉を皆に知らせるだけの祭司だったのです。神のご機嫌を伺うために、占いが発達しました。皆さんもご存知のホロスコープ(星占い)はメソポタミアが発祥の地です。メソポタミア人は普遍的なものではなく、変化するものに興味を持ちました。日食や月食を観察し記録し、木星、土星、水星、金星、火星などの惑星が他の恒星と違った動きをしていることを観察しています。

ここで少しエジプトの地理を見てみましょう。エジプト文明を特徴づけるのはナイル川です。現在でもエジプトの96% が砂漠であり、残りの 4% のうち畑はたった 2.6% にすぎないのです。エジプト文明は、このナイル川に沿って幅20キロ足らずの帯状の地域に発達しました。全長約6600km にもおよぶナイル川の最後の1000km、幅が数キロの細長い部分です。エジプトは、アフリカ大陸全体から見ればほんの一部に過ぎません。

古代エジプト地図

ナイル川の下流域は低地の三角州を成しており、これをデルタ地帯と呼びます。デルタ地帯の根元にはピラミッドで有名なギザがあります。ナイル川流域はギザで下エジプトと上エジプトに分けられます。地図では北が上、南が下ですが、上下エジプトの上下はこの上下ではなく、「上流か下流か」の上下です。したがってデルタ地帯は下エジプトで、その南が上エジプトです。地図とは逆だと思ってください。ナイル川には川幅がせばまり流れの急な第一急湍きゅうたん(カタラクト)第二急湍きゅうたんとがあります。古代エジプト人が「エジプト」として認識していたのは第一急湍からデルタ地帯までだったようでした。第一急湍と第二急湍の間には起伏の富んだ低地が広がり、ヌビア地方と呼ばれていました。その南にはクシュの国(エチオピア)がありました。

ナイル川は流れが穏やかで、1年を通して下流の地中海側から上流に向かって風が吹いていました。上流のどこへ行くにも、パピルスを束ねて作ったあしの船に帆を張ればこの北風にのって行くことができます。下流へは川の流れに乗れば行けます。細長いベルト状の国でしたが、ナイル川という大動脈によって一つの国にまとまりやすかったのです。また、川の両側には広大な砂漠が広がり外敵の侵入を阻んでいます。この国土の安全性と閉鎖性が、このように長く続く安定した文明を生んだのです。エジプト人は、母なるナイル川によって生きる「川の民」だったのです。

エジプト文明というと多くの人は砂漠の国を思い浮かべるかもしれませんが、実はそうではなく川の国だったのです。以下ではこのナイル世界を“ナイルの谷”と呼ぶことにします。山々に囲まれた谷ではなく、荒寥こうりょうたる砂漠に囲まれた谷という意味で。

エジプト文明は3千年という長きにわたり、ほとんど変化のない平穏無事で安定した社会でした(といっても、とても長い期間ですからそれなりの変化や混乱もあります)。この理由は、東西を沙漠で守られていたこと、ナイル川でどこでもすぐに移動できるので地域による違いがあまりなかったこと、などが挙げられます。民衆は温厚で、寛容さを必要とする物々交換が長い間続きました。しかしこの安定さをもたらしたのは高級官僚の有能さのためだったと考えられています。高級官僚の中でも書記はとくに力を持っていました。貴族や神官階級の子供たちは5歳になると「命の家(ペル•アンク)」と呼ばれる書記の学校に入学し、文字の学習や数学を勉強しました。習うことはたくさんあったようです。しだいに神官が勢力をもつようになると、王権側は神官に権力が集中しないように、広くいろいろな職業の子弟に書記の学校に入るように勧める文書を書いて配布しています。そのためいろいろな階層、いろいろな職業の子供が学校に入学し書記となったようです。神官などの特権階級が既得権益を独占しないようにしたのです。国家を運営する経済、運河などの土木工事などの計画や指揮は書記が行いました。こういった仕事の基本となるのは記録と数学です。有名な数学文書として「リンド・パピルス」あるいは「アーメス・パピルス」と呼ばれるパピルスに書かれた数学文書が出土しています。リンドはイギリスの人の収集家で、テーゼの廃墟から出土したこのパピルスを買い取った人で、このパピルスはアーメスという書記が過去から伝わる数学の問題をまとめたものです。アーメスは紀元前1650年頃の人ですが、この元になった原本は紀元前1800年頃のものとされています。

このようにして、古代としてはおそろしく長く続く巨大で安定した統一国家が出現します。書記と呼ばれる学識のある官僚が取り仕切る強力な中央集権国家です。ファラオには莫大な富と権力が集中します。これを象徴するのがピラミッドです。

エジプト文明はとにかく長いのですからいつまでも繁栄が続きません。ナイル川の水量が減り農産力が落ち国力が低下するときが訪れます。そうなると王の神性はほころびてきます。ピラミッドは王族だけが天上で永遠の命を得ることを願って作られたもので、ミイラにされるのも王族だけでした。時が経つうち王族だけでなく貴族や神官たちも永遠の命を願い、巨大な墳墓を作りミイラになるのを望むようになります。エジプト文明の末期には、裕福な一般の民衆でさえミイラを作るようになります。したがって、ヘロドトスがエジプトを訪れたときには、エジプト人たちも王一人のためにピラミッドを造るなどということは理不尽だと思うようになっていたのかもしれません。

エジプトの歴史は変化が少なく単調だといいましたが、何しろ3千年の長きにわたります。概要を述べるだけでも大変ですから、本連載では必要となることだけを取り出して述べることになります。歴史の専門家は、エジプトの歴史を次のように分割しています。

古代エジプトの王朝区分

ここで、○○王国とあるのは、エジプト全体を支配する統一王朝が存在していた時代で、政治や経済が安定し繁栄していた時代です。一方、第○○中間期は、エジプトが複数の王朝(あるいは自治組織)に分裂し、互いに争っていた混乱期を表します。各区分は、複数の王朝からなっています。本連載で扱う四角錐の大きなピラミッドが建てられたのは、古王国時代の第3王朝から第6王朝までです。ギザにあるピラミッド群は、第4王朝のファラオたちのものです。古王国時代の第1~2王朝を初期王朝、古王国時代より前を先史時代と呼びます。

本節ではエジプト文明とメソポタミア文明の起源に遡り、文明がどのように栄えたのか、またその地理関係にも注目しました。時代の背景や人々の暮らしを知ることで、必要とされた知識や学問の全体像が見えてきます。次回は古代の人々の世界観、宇宙観について、古代エジプトの神話を通してみていきたいと思います。

次回は『2-2.宇宙創世神話』

Advertising