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Chapter 2:エジプトの歴史と神話

2-5.宇宙観とピラミッド

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ピラミッドは聖なる秩序(マアト)をあらわす象徴だった

数学史の本などでは数学の生まれた原因を農業や商業の発生と発達に求めています。もちろんそれも大きな理由でしょうが、それ以外に占星術(天文学)占い(数秘術)にも動機があったように思われます。オリエントの歴史の本などでは「オリエントの占星術は天文学という科学とはまったく異質のものであった」などと理由も述べずに断定しているものがありますが、古代の占星術は天文学と基本的にあまり変わりがなかったのではないかと思われます。人々は毎日星空や太陽を観察し、地上で起きるいろいろな現象との因果関係を結びつけます。日数が経つと太陽の高度が変わります。太陽が頭上に来ると夏になり、太陽が低いと冬となります。また、ナイル川は決まった時期に増水を始めます。この世界はすべて整然とした秩序によって支配されている、この秩序を定めている要因は数である、と考えたのではないかと思います。ピラミッドの形が底面を正方形とする四角錐であるのも、ピラミッドを「聖なる秩序(マアト)」をあらわす象徴としたかったのではないかと思います。これを見るために、ピラミッドがどのような経過をたどって作られるようになったかを見てみたいと思います。

古代エジプト年表
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古王国時代になると王たちの墓が作られるようになりました。初期王朝(第1第2王朝)時代は直方体に日干し煉瓦を積んだマスタバとよばれる質素な墳墓でした。最初のピラミッドは、第3王朝のジェセル王が建てさせた、60メートルの巨大な階段ピラミッドで、周囲に葬祭殿などを含む壮大なピラミッド複合体(コンプレックス)でした。このピラミッド複合体を設計したのはイムホテプという宰相さいしょうです。彼は宗教都市ヘリオポリスの司祭で、数学、天文学、医学などの学問の基礎を築いた学者として、エジプトの長い歴史を通じて尊敬と崇拝を受けるようになります。のちの新王国時代には神格化され、トト神と結びつけられ書記の守護神となりました。またヘレニズム期になるとギリシア人たちはイムホテプをギリシア神話の医神アスクレピオスと同一視します。

イムホテプの設計した階段ピラミッドは、初めて石材が用いられた独創的なもので、それまで築いてきた王制がやっと実を結び、強力な中央集権の国家体制が確立したことをあらわす記念碑でした。永遠に存続するかに見える石材を用いた階段ピラミッドは「王は神なり」という神王理念を広く民衆に知らしめる象徴となりました。彼の造ったピラミッドは以後の模範となり、イムホテプは「ピラミッドの発明者」としてその名をとどめています。

イムホテプはヘリオポリスの大司祭で、太陽信仰の教義に通じていました。太陽信仰などのいろいろな創世神話はしだいに併合されてゆき、イムホテプのころにはヘリオポリスは古くからの宗教都市として最も大きな権威を持つようになっていました。この権威をイムホテプは神王理念と結び付けたのです。創世神話で原初の岡(ピラミッド)に最初に止まったのはベンヌ鳥でした。ベンヌ鳥は不死鳥でもあり、またトト神でもありました。トト神は智慧の神であり、人間に文字や数学を教えた神であったのです。

第4王朝になると、四角錐の真正ピラミッドが造られるようになります。第4王朝の初代スネフェル王は、次々と3基ものピラミッドを建造しています。なぜ3基ものピラミッドを造ったのか、どのような順序で造ったのかは、これまで歴史の専門家の間でさまざまな議論がされてきています。これについては後章であらためて議論します。

スネフェル王につづく3人の王、クフ王カフラー王メンカウラー王は、ギザの地にピラミッド複合体を建造し、多くのピラミッドの中でも最大の規模と最高の到達点を現在にまでとどめています。この3基のピラミッドは北東から南西に向けて一直線に並び、その延長線上にはヘリオポリスと当時そこにあった太陽神殿がありました。これらのピラミッドがイムホテプが設計した太陽神信仰の教義に基づいて建てられたことは明らかです。

太陽信仰とピラミッド

続く第5王朝もピラミッド複合体は作られましたが、ピラミッド自体の規模は小さくなり、創りも雑になってきます。第6王朝は古王国時代の衰退期で、国力も落ちピラミッドも貧弱なものとなりました。この時期は北アフリカの歴史で気候が乾季へと移行しつつあったときで、ナイル川の水量が減りナイルの谷に飢饉が襲ったものと考えられています。そうなると自然を制御できないファラオの神性は疑われ、王権は失墜します。世の中は乱れ、「イプウェルの訓戒くんかいと呼ばれる厭世文学が生まれます。「人々の心は凶暴となり、災難は国中に、血はいたるところにある」、「人は草の茂みの影に隠れ、旅人を襲い荷物を奪う。旅人は棒で殴られ死亡する」…

ピラミッドは中王国時代以降も断続的に造られましたが、建築材料は石材が減少し、日干し煉瓦が多用されるようになりました。その結果すぐ崩壊するようになり、現在残っているのは
瓦礫がれきの山です。

古代エジプト人の来世観

ここでエジプト人の来世観を見てみましょう。前節で述べたオシリス信仰がさかんになったのは中王国時代より後です。中王国時代になると、史料も増えいろいろな事情が分かってきます。古王国時代は第5王朝ごろから現れたピラミッド・テキストから貴重な情報が得られています。クフ王の時代のことは、これらの情報から判断することができます。

イムホテプの設計した階段ピラミッドは、神の化身であったファラオが死後神の一員となるために天に昇るための階段であると考えられています。これはピラミッド・テキストからも判断されることで、歴史の専門家もこのように考えています。ギザのピラミッド群も、ファラオ一人が昇天するための装置でした。創世神話がこれらのピラミッド建設の思想的な基盤でした。いつのころからかオシリス神話が神王制に取り入れられていきます。王が死ぬとファラオ(前王)は冥界めいかいに行き冥界の王オシリスと合体し一体となります。あとを継いだ王(新王)はオシリスの子ホルスとしてこの世界に君臨します。書記を中心とした官僚制度や神官制度は発達し、それを通して「神なる王」の信仰は国民に浸透し、死後の世界は前王のオシリスが守り、現世この世はホルス神の化身であらせられる王が守ってくださるという安心感を与えたのです。

オシリス神話も、最初はファラオだけが死後、冥界の王オシリス神となって冥界で暮らすことができると考えられていたのでしょう。死後の世界の話が形を整えてくると、人々は死後誰でもが黄泉の国へ行き、そこでマアト神によって生前の行いが判断され、合格すれば来世での生活が保証される、というようになります。これを「来世の民主化」といいます。

マアト神こそ、すべてのエジプト人の道徳観を支配し、エジプトを秩序ある安定した社会として継続させた神だったのではないかと思います。現在の日本人の多くは無宗教で、宗教の世界がどのようなものか分からなくなっているのかもしれません。夜、だれもいない道に大金が落ちていたとしましょう。宗教を信じる世界の人たちは、「神がいない世界では、だれでもがみな落ちていたお金を着服する」と考えるようです。上で述べた「イプウェルの訓戒」でも、人々が絶望感、悲壮感に陥ったのは神がいなくなったからです。エジプトの神話や壁画にはやたらと“眼”が出てきます。あの眼はひょっとしたらマアトの眼ではないでしょうか。

エジプト社会では、役人もファラオまでもマアト神を信じていました。裁判官もマアトの司祭でしたから、安心して判断を仰げました。人々が司祭や役人を信頼していたのは、彼らが清廉潔白であったからではなくマアトを信じていたからです。王や貴族もマアトを信じていました。墓の碑文にはよく次のような碑文が書かれていました。「私はマアトを語り、私はマアトを行った」

日本にもミイラはありました。えらいお坊さんが食べ物を少しずつ減らしていき体内の脂肪分をそぎ落とします。これを木食もくじき行といいます。十分に水分と脂肪がなくなったところで、土の中につくられた石室に入り自らミイラになるのです。これを入定にゅうじょうといいます。このようにしてできたミイラを、自らの身を仏に変えたという意味で即身仏そくしんぶつといいます。お坊さんはなんのためにミイラになったのでしょうか。民衆が飢餓や疫病で苦しむことがないように仏になってお祈りをすること、というのが理由だったのでしょう。もちろんそれもあったでしょうが、自分自身が極楽浄土に行って来世で仏様の仲間に入りたいという気持ちもあったように思います。また民衆もお坊さんの崇高な行為に感動したことでしょうが、即身仏そくしんぶつに向かって拝むのは自分の個人的な幸せだったと思います。

日本にもピラミッドに似た建造物として、天皇陵や大仏があります。奈良東大寺の大仏の建造も国家事業でした。ばく大な建造費をまかなうために、当時民衆に絶大な人気を集めていた役小角えんのおづのという行者を抜擢して全国から寄進きしんを集めました。お金のない人は労働力を提供し、女の人は長い髪を切って寄進しました。髪は巨大な木材を持ち上げる丈夫なロープとして使ったようです。人々が力をあわせて働いたのは、疫病や災害のない社会となること、つまり自分たちが幸せに暮らせるように願ってのことでした。ではなぜあれだけ巨大なものを造る必要があったのでしょうか。人間の個々の力に比べ、大自然の脅威は甚大です。これに立ち向かうにはそれに立ち向かうだけの巨大な力を持つ仏が必要だったのではないかと思います。

日本とエジプトでは違うところがあります。日本では、宗教的崇拝の対象である天皇家から世俗権力である武士が分離してしまったのです。さらに新しい宗教である仏教が入ってきて、王家の宗教的基盤である神話をおとぎ話にしてしまったのです。これに対しエジプトでは、宗教的権威と政治的権力とが常に一体でした。しかし、ギザのピラミッドを境にして、ファラオの絶対的神性が少しずつ揺らいできたように思います。あるいは宗教観が変化してきたのかもしれません。

もうひとつ殉死についても考えてみましょう。日本でも古い古墳から殉死とみられる骨が出土しています。エジプトでも初期王朝時代の王墓からは殉死とみられる人骨が出土していますが、ピラミッド時代に入ると、それらしきものは発見されていないので、殉死はなくなったものとみられています。現代人の生死観から見ると残酷でおぞましいと感じますが、殉死した人のなかには自ら進んで死んだ人がいるかもしれません。王とともに死ねば来世でも神である王の臣下として永遠の生を生きられる、と考えたのかもしれません。初期王朝時代は戦闘が激しく、死が日常であったのですが、古墳時代になって戦闘がなくなると生死観が変化したのだと思います。

クフの大ピラミッドはどのようにして建造されたのでしょうか。おそらく神官は次のように民衆に説いたのでしょう。

吹き出し人物イメージ

神はこの世界を創造し、宇宙の秩序(マアト)を定めこれを維持するためにファラオをみずからの化身とされた。ナイル川が規則正しく増水を繰り返し、皆に恩恵を与えていることはファラオが神の役割を果たしていることの確たるあかしです。現世においてその役割を終えた王は、死後天に昇り星々となって皆をお守りくださる

ファラオは神であり、ピラミッドは一人の王の単なる墓ではなく、ファラオの神としての力、つまりマアト(秩序)を維持する力の象徴であり、国民すべての平和と繁栄を護る神殿だったのです。スネフェル王が3基ものピラミッドを造ったのは、ピラミッドが王の単なる墓とか天国に昇る階段であっただけではなく、国の安寧を護る日本の大仏のようなものであったからではないかと思います。

大ピラミッドの最大の謎は、4千5百年もの太古の昔に、よくもまああれだけ巨大な石造建築物ができたものだということでしょう。よく指摘されるのは、専制独裁のファラオの富と力、書記の設計能力や管理能力、石材建築技術の高さなどです。しかしそれよりももっと重要なのは、国家の大事業をやり遂げようとする当時のエジプト国民の持つ情熱とパワーのような気がします。国民全体が一体とならなければ、あのような巨大なものはできません。

ピラミッドではないのですがある巨大な像を、大勢の民衆が力をあわせて動かしたときの描写が碑文として残っています

――少年は老人を支え、力弱きものそばには屈強の男がいた。心は高ぶり、腕には力がみなぎり、ひとりひとりが千人の力を発揮した――。

ここまでのChapter2では、古代エジプトの人々の生活環境、ファラオの存在、神話、来世観などをみてきました。ピラミッドについても、単なる一人の王の墓ではなくマアト(秩序)の象徴であり、国民すべての平和と繁栄を護る神殿だったということもわかってきました。Chapter3では古代エジプトの人々の数学能力についてみていきましょう。

次回は『3-1.エジプトの数』

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