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8.農業革命

グレートジャーニーで世界中に散らばった人類は、それぞれの土地、それぞれの環境で著しい発展を遂げます。これらは進化によるものではなく、人間の創意工夫による知力によるものであり、得られた知識を子供たちに継承することによって、その地方独自の文化として発展していきました。各地で、多種多様な文化が生まれます。当時は外部からの影響を受けることが少なく、自分たちの習慣や生活様式を強固に守り、維持していました。こうしたことから、民族とか人種の差がだんだん大きなものとなっていきました。

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急速な進歩の時代へ

旧石器時代の後、人類は大きな変革の時期を迎えます。10万年単位の緩やかな進化から、千年単位の急速な進歩の時代に入ったのです。この変化を生みだした原因は何でしょうか。歴史学者はこの変化を、農業革命とか新石器革命と呼んでいます。“革命”といっても10万年単位の変化の後ですから、それほどに急速に変わるわけではありません。実際、5万年ほど前から石器や道具などすでに変化の徴候が見えていました。5万年前頃から見てみましょう。

   

5万年前から1万年前までは最後の氷期です。前回の連載 〔7.旧石器時代の終焉〕で述べたように、新人たちを苦しめたのは氷期の寒さではなく、気候変動であり、それに伴う環境の変化です。新人たちは道具の開発、狩りの方法など創意工夫によって環境の変化に対処できるようになっていました。これ以降の歴史は、地域によって大きな差が出てきますから、以下ではオリエントに限定します。ここでオリエントとは、メソポタミア、エジプト、レバント(東地中海沿岸地方)、アナトリア(現在のトルコ)です。

   

2万年前にとびっきり寒い最後の寒波がやってきましたが、それを過ぎると気候は徐々に温暖になってきます。湿度と気温とは関係がないようで、この時は温暖でかつ湿潤(しつじゅん)となりました。森林は後退し草原が広がっていきます。それまで人びとは鬱蒼(うっそう)とした森林に住んでいました。草原の草や灌木は森林の木々より早く育ち、草木を()む草食動物が繁殖し始めます。森林では生息する動物の数がとても少なく、一日中駆け回って1匹の獲物を捕るのがせいぜいだったのですが、草原には食料が豊富にあります。森に棲んでいた人類はしだいに草原で生活し始めますが、この環境の変化にもすぐに順応(じゅんのう)しました。狩りの方法が改良され、集団で大きな群れを一網打尽で捕まえるようになります。しかしこのような気候変動はこれまでも経験したことです。今回の変化でこれまでと違うところは、高温多湿のため増大した落葉樹林帯の植物性食物でした。主要な食物が植物に移行したことにより、食料は安定し、それにともない人の数も増加していきます。

農耕はどのようにして始まったのか

しかしよいことは続きません。しばらく温暖な気候が続いていたのですが、その後乾燥化が始まります。草原は不毛な砂漠(ステップ地帯)となっていき、草原や森林からは動物の姿がしだいに見えなくなっていきます。これでは増えすぎた人口を維持することはできません。しかし、「危機こそ発展のチャンス」です。人類は、今度はどのようにしてこの危機を乗り越えたのでしょうか。人類はすでに環境の変化を乗り切る「知力」を身につけていました。農業と牧畜という新しい手段を発明したのです。歴史学者はこれを「農業革命」と呼んでいます。しかし、人類は同じような危機を何度も経験しているはずです。なぜこの時期に突然このような画期的な転換期が訪れたのでしょうか。

   

どのようにして農耕が始まったか想像してみましょう。草原は砂漠化し、獲物の数はめっきり減りました。人口が増えたために、他の一族との食料の奪い合いが始まります。競合を避けるため、獲物を求め遠くまで出かけなくてはなりません。獲物が取れなかった時のための果物や木の実も、季節によってとれる場所が違っていて、あちこち動き回らなければなりません。天候不順でまったく取れないこともたびたびあります。人びとは常に飢餓(きが)の恐怖におびえていました。

   

現在のイスラエルの近くのある丘に、小さな実を結ぶ草が生えていました。例によって好奇心旺盛な冒険者が食べてみるとびっくりするほど良い味がしました。この草はコムギでした。そのころ人々は狩猟採集生活をしており、季節によって食べ物の得られる場所が違うので、季節によって家を移す移動生活をしていました。ムギはこれまでの食料にない、画期的な性質を持っていました。果実や野菜はカビが生えたり腐ったりしますが、ムギは長期保存ができます。それにとても栄養豊富です。食料が見つからないからといってやみくもに動き回る必要が少なくなります。しだいに人々は家を移動する回数が少なくなっていきました。

   

あるとき、野生のムギを採集してきた人が家に戻ると、家の近くでムギが生えているのに気がつきます。それを何度も経験するうちに、採集してきたムギの実から芽が出ているのを発見します。近くで生えたムギをこれだと思い、その実を植えてみると、やがて大きくなり実をつけたのです。このようにして野生の大麦、小麦、大豆の栽培が始まったことが想像できます。何でもないことのように思われるかもしれませんが、最初のこの「発見」は人類の他の動物にはない観察力と考える力(演繹力)の現われだと思います。

   

そのころはまだ十分な降水量があったとはいえ、天然の雨水による農耕はきわめて生産力が低く多くの人口を養うことはできませんでした。そこで、栽培農業をするようになった地域では、牧畜を行うようになります。最初は扱いやすい犬とかヤギを近くに住まわせたのでしょう。そのうち、多くのヤギやヒツジを囲って牧畜をはじめます。牧畜ができるようになったのも、動物を取り巻く自然界の観察と理解があったからこそでしょう。

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肥沃な三日月地帯

乾燥化の波は2回起きています。第1の波は1万数千年前で、このとき西アジアの「三日月地帯」で農耕と牧畜という経済体制が確立されます。エジプトでは、もともと雑穀が中心だったのですが、西アジアで開発されたムギ生産を受けいれ、パンやビールをたしなむようになります。第2波の波は5,000年ほど前のことで、エジプトでは古王朝時代が始まり、メソポタミアでも都市国家ができ始めます。すなわちこのころ最初の文明が出現したのです。

  

これまで「~万年前」という表記をしていましたが、これからは「紀元前~年」という表記に変更します。例えば、

  紀元前 x 年 = x + 2000 年前

となります。

   

農耕が始まった肥沃な三日月地帯を地図で確認しましょう。

   

農業革命:肥沃な三日月地帯

   

アナトリアは現在のトルコ、レバントは東地中海の沿岸地方、デルタ地帯はエジプト北部のナイル川の河口付近です。これらの地方は歴史で重要な役割をします。紀元前6000年ごろにはこれらの地区で有畜農業(畜産をともなう農業)が行われていますが、発生源がどこだか、あるいは複数個あるかどうかは現在のところ分かっていません。紀元前9000年ごろには、アナトリアのチャタル・ヒュユク、レバントのイェリコでは農耕のためのができています。豊かな農耕集落は、まだ狩猟採集生活をしている人たちの襲撃の対象となっていたようです。イェリコでは村のまわりに高さ3メートルの石造りの周壁をめぐらせ、高さ9メートルにもおよぶ物見の塔まで作っています。

   

歴史の専門家は、狩猟・採集生活から農耕・牧畜生活への移行を急激な気候変動のせいだけに限定してはいけないと注意します。これまでも人類は急激な気候変動を何度も経験してきましたし、現在でも牧畜だけ、あるいは農耕だけを生業(なりわい)としている人たちがいます。初めのころは、主に女性たちが湿地帯で小規模なムギの栽培を行い、男たちは狩猟採集に出かける、といった形態で始まり、しだいに定住生活に入っていったのでしょう。家の周りに少数のヤギなどを飼う人もあり、多彩な生業を営む地域がモザイク状に存在していたようです。このような変化はとても百年単位では測ることができない、といいます。人類はすでに気候の激変の対処できるだけの能力を備えていたのです。実際、西ヨーロッパや日本では、それまで通りの旧石器時代が続きます。おそらくまだ人口が少なく食料が確保できたからでしょう。幸か不幸か、肥沃な三日月地帯では、一時期豊潤な気候に恵まれ人口が増加しました。その後乾燥化に転じ人々は農耕牧畜という方法を発見したのです。

人口の変化と文化

旧石器時代と比べて、どのような変化が起きたのでしょうか。まず人口に注目しましょう。降水に依存した農業は天候に依存しますが、農作物は保存がききます。牧畜は天候にあまり影響は受けませんし、ヤギやヒツジは肉以外に、毛皮やミルクなどの用途もあります。いろいろな生業(なりわい)の人が集まってが形成されます。いろいろな職種の人の複合体は気候の影響の少ない安定した経済体系を作ります。

   

狩猟採集の時代では、季節によって採れる場所が違うためもあり、また獲物である動物を追って、移動生活をしていました。今でも遊牧民の人たちは移動生活をしています。この場合一緒に行動する共同体の人数は、おそらく数家族、数十人といったところだと思います。農耕牧畜生活に入ると、人びとは定住生活に入ります。村も次第に人口が増えていき、数百人規模の村が各地で発見されています。数十人から数百人への変化は、大きな質的な変化をもたらします。ある歴史学者の試算によると、狩猟採集では1家族を養うのに1000ヘクタール必要であったのに対し、農耕牧畜なら10ヘクタールで十分であるといいます。したがって、狭い土地に大勢の人間が住むことができるようになります。

文化面でも大きな変化が生じました。家族内だけでは言葉はあまり必要ありません。身振りだけでたいてい通じるからです。一方、数百人規模の村ともなると、言葉が必須の道具となります。大人と子供、女性と男性、戦いに秀でたものと武器製造に秀でたもの、などいろいろな人が集まり一つの社会を作るのですから、言葉によって意思を伝えあわなければ、統制の取れた生活が送れません。言葉と抽象概念は、お互いに影響を与えながら一緒に進歩していきます。

文化面での変化、特になぜ進歩の速度が速まったのかを見てみましょう。不安定な狩猟採集生活から、少しずつ農作物の栽培や家畜の飼育などに生活の比重が移っていきます。遠くまで出かける必要もなくなり、気象の変動に左右されることも少なくなり、安定して食糧が確保できるようになります。しかしその反面、食糧獲得の手段が多様化し生活も複雑化します。農作物を育てるにはいろいろな工夫や道具が必要です。固い食料を煮る土器、穀類をすりつぶすための石の(うす)(きね)、麦の刈り入れに用いる石の鎌などが発明されました。石を割っただけの石器を用いる旧石器時代が終わり、いろいろな用途の使いやすい磨製石器を使う新石器時代が始まります。

   

ここでもう一度進化進歩について考えてみましょう。進化は遺伝子によるものですから、子孫にしか伝わりません。人口がいくら増えても同じです。しかし、人口が増えると、その集団の持つ知識は増加します。さらに、知識は単に合わさるだけでなく、組み合わさることによって新たな発見を産むのです。この知識の合成には、言葉が大きな一役を買っています。農業革命によって急速な進歩がもたらされたのは、進化ではなく、学習によって、つまり教育によって、共同体全体の知識が継承されるようになったためだと思われます

   

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