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9.文明の誕生 :シュメールの都市国家

農業革命こそすべてのはじまりでした。集住、村落の発生、交易など文明のすべてのは農業革命によって生まれました。人類は文明への扉を開けたのです。しかし実際の文明が生まれたのは農業が始まって5000年も()った後(紀元前3000年頃から)なのです。この間まだ数学は現れていません。数学が生まれるためには文明という土壌が必要だったのです。
農業革命に関する記事はこちら▶︎〔8.農業革命

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文明誕生の地、シュメール

メソポタミアの意味とは

農耕が始まったころの肥沃な三日月地帯は現在とは比べものにならないほど豊かな土地でした。しかし文明が生まれたのはこの三日月地帯ではありません。以下では文明が生まれたシュメール地方に焦点を当てて述べましょう。

まず地理を復習しておきましょう。メソポタミアという語は古代ギリシア語で「2つの大河の間の地方」という意味で、2つの大河とはチグリス川ユーフラテス川のことです。現在の歴史用語として用いられているメソポタミアは、現在のイラク共和国を中心とする地域にあたります。

チグリス・ユーフラテス川は一つの川に合流しペルシア湾に注ぎます。この河口付近をシュメール地方といいます。ここにシュメール人によって最初の都市国家が建設されたのです。

  

文明の誕生:メソポタミア地図

  

灌漑技術の発明

最後の氷期のあとしばらく続いた温暖多湿の気候も、紀元前7000年頃から乾燥化が始まります。この頃人類はすでに定住生活をするようになっていて、人口も増加していました。初期の農業は自然な雨水を利用した原始的なもので、生産性はとても低く、養える人口もあまり多くはありません。降水量は年によって大きく変化するため、生産量も不安定です。   

この難局に対して人類はまたしても灌漑技術というすばらしい発明をしたのです。チグリス•ユーフラテス川から水を引けばそれまでの荒れた原野も肥沃な湿った農地になります。増加した人々は、灌漑農業をしながら少しずつ川を南下していきました。

その後湿潤な時期もありましたが、紀元前3000年頃から再び乾燥期に入り現在まで乾燥状態が続いています。「肥沃な三日月地帯」でも年間降水量が250ミリ、南部のシュメール地方では何と年間降水量がたった100ミリだといいます。現在の日本では、台風などでは1日に 250ミリ降ることはめずらしくありませんし、1時間に50ミリ降ることさえあります。日本は本当に水にめぐまれた国です(しかし最近の異常気象はこれをはるかに越え、各地で災害が出ていますから「雨が降りすぎる国」になってしまうかもしれません)。

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チグリス ・ユーフラテス川の灌漑農業

村から町へ。文明の興り

シュメール地方で文明が興った様子を詳しく見ていきましょう。チグリス・ユーフラテス川は、河口付近のシュメール地方までくると流れが緩やかになり、広い湿地帯が広がります。長い年月をかけて両河によって運ばれてきた堆積物のため、肥沃な土壌ができあがっていました。紀元前5000年頃になると、人々は用水路を造ってチグリス・ユーフラテス川から水を引き、灌漑農業を行うようになっていました。

しかし両河は、ときおり雪解け水による洪水を起こします。大洪水が起きると、高台に作った居住地は、さながら大海原(おおうなばら)に浮かぶ小島のようでした。そのため、洪水を防ぐための堤防を築き、排水や新たな耕作地に水を引く運河をつくる必要がありましたが、これには多くの労働力が必要となります。多くの家族が集まり村ができ、村は町に発展します。

古代都市「ウル」

いくら降水量が少なくても、運河さえ引けば、荒れた沼地は立派な農地になります。 居住に適した高台はあまり多くはありません。古い居住地の上に新しい家屋(かおく)を建て、しだいに居住地はより高い高台となっていきます。

このようなオリエントの遺跡を「テル(遺丘)」といいます。テルは、下に掘り進んで行くほど時代が古いので、土器とか道具の変化など時代の移り変わりが分かります。このようなテルのなかに、シュメールの古代都市「ウル」がありました。ウルの遺跡が発見されたのは20世紀初頭のことで、この発見は世界中を驚かせました。

灌漑農業の拡大

灌漑農業が始まってから2000年の時を()て紀元前3000年頃になると、チグリス•ユーフラテス川の下流域のシュメール地方では大規模な灌漑農業が行われるようになっていました。雨量の少ないシュメール地方でも、運河を引けば農業が可能です。それどころか、広大な平野は大規模な灌漑が可能で、できあがった広大な農地での農耕はとても効率の良いものになります。それに運河は洪水の危険は少なく、水の量も自由に調節することができます。

大麦、小麦の生産量は飛躍的に伸び、一帯は実り豊かな農耕地帯へと変貌を遂げます。大麦をはじめとする穀物類は人間ばかりなく、大小の家畜類も養うことができます。最初は食肉用として飼われていた大型家畜類は、やがて(すき)や車の牽引に使役されるようになり、大がかりな農作業が可能になっていきます。

輸送・交通路としてのチグリス ・ユーフラテス川

シュメール地方を含むチグリス・ユーフラテス川の下流域の特徴は、豊富な農産物以外に、天然資源が何もないことでした。わずかな例外は瀝青(れきせい)(天然のアスファルト)と石灰岩と上質の粘土だけだったのです。しかし古代では人びとの移動は川や流通は海に沿って行われ、ここには大動脈となるチグリス・ユーフラテス川が流れていました。

ユーフラテス川は全長 2800 km、チグリス川は全長 1900 km あり、重要な輸送・交通路となりました。これによって、シュメール地方で生産された膨大な量の余剰農産物を活かすことができ、文明生活に必要な木材や銅などの金属類を輸入することができたのです。メソポタミア文明にとって交易が最重要課題でした。文明の発展にとって「農産物以外の資源が何もない」という不利な条件がかえって有利に働き、文明化を促し3000年もの長きに渡り文明であり続けることができたのです。  
農産物以外の必要物質は何もないという環境は、エジプトや中国などの他の文明にはない特徴です。古代エジプト文明の場合は、ナイル川流域にほとんどすべての必要物資がありました。エジプト文明は、ひとつの閉じた自己完結した世界でした。

シュメールの都市革命

都市国家の誕生

紀元前8000年頃に三日月地帯で起きた「農業革命」に対し、紀元前3000年頃の変化を「都市革命」と呼ぶ歴史家がいます。都市革命とは何なのか、どのようにしてシュメールで都市革命というものが起きたのかを見てみましょう。

大規模な灌漑事業を行うには大勢の人間が必要です。またシュメールの広大な沖積平野は一様ではなく、耕作に適したところ、居住に適したところ、水利のよい場所などの取り合いなど、争いの種が絶えません。争いには人数が多い方が有利です。いくつかの村は合併し町となり、町は同盟を組んだり他の町を吸収したりして都市となります。都市は単なる人の集住ではなく、経済活動や決まりごと(法制)など、ひとつの小さなとしての機能を持つようになります。このような都市を都市国家といいます。

城壁で囲まれた都市国家

人びとは蓄積した富を守るために、都市のまわりに城壁を築きます。都市国家が乱立するようになると、都市国家間で恒常的な戦争が始まります。人びとは村落を捨て、城壁の中に住むようになります。城壁内に住む人びとのほとんどは農民で、都市の郊外にある農地を(たがや)していました。人びとが都市に住んだのは、こういった防衛上の問題もありましたが、活発な経済交流がもたらす都市の賑わいもあったことでしょう。

このような都市の城壁はシュメールだけでなく、古代中国や中世のヨーロッパなど世界各地でよく見かけます。漢字の“城”という字を辞書で引くと「都市をめぐる城壁」とあり、“城”という字はもともと「都市」という意味を持っていました。このような城市(じょうし)は日本にはありません。古代エジプト文明もこのような城壁で囲まれた都市国家は生まれませんでした。日本は四方を海で囲まれていますし、エジプトはナイル川に沿()って発達した細長い国で、四方を砂漠で囲まれ、他の民族に襲われる危険がなかったからだと思われます。

   

文明とは何か

文明文化の違いは何か、という議論の中で、都市文明の指標の一つとする歴史家がいます。ヨーロッパや中国の人たちは、”都市”というと城壁で囲まれた都市国家をイメージしていて、私たち日本人がイメージする単なる「巨大な町」とは違うように思います。

文明(かく)する条件として重要なのはやはり共同体の人口ではないかと思います。旧石器時代は、共同体はせいぜい数家族ですから、成員は数十人です。農業革命になると共同体は村に発展します。村の人口はだいたい数百人です。都市革命で生まれた都市国家の人口は数千人から数万人です。数の違いは共同体の性質をまったく異なったものに変えます。

共同体は単なる人の集合ではなく、統一体としてひとつの意思を持ち、行動できるものでなければなりません。数万人規模の人を統一体として機能させるためには、公権力を持つ政治システムが必要です。共同体の中枢部は公権力を使用し、共同体の構成員の一人一人の安全な生活を保障する代わりに、服従の義務を課すとともに、租税を徴収し再配分します。この政治システムを国家と呼びます。メソポタミアでは、都市国家が統合されて統一国家が形成されましたが、エジプトとか日本には都市国家が生まれることなく、統一国家が形成されました。

文化とは何か

文化とは、生得的ではなく、学習によって得られた共同体全体が共有する知識です。ここでいう知識とは、風土や環境に適応し生きるために獲得した技術、戦略、風習などすべてを含みます。したがって文化とは、「火の使用」という原初的なものからコンピュータのような発達したものまでいろいろあります。歴史家には、文明を「国家というシステムを持つ団体の文化」とする人がいます。上で、「国家とは、数万人以上の統一された共同体が持つ政治システム」としましたから、次のように言い換えることができます。「文明とは数万人以上の統一された共同体の持つ文化である。

   

次回は、ヒトが原人の時代からシュメール文明が始まるまでの期間、“”をどのように扱ってきたかを中心に述べたいと思います。

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