ピラミッドの秘密
エジプトの歴史と神話
エジプトの数学能力
ギリシアの数
ピラミッドの謎を解く
4-1.ギリシアの数学とエジプトの数学
ページ目次
産業革命とヨーロッパの科学技術の進歩
中世のヨーロッパは、オリエントに比べ文化がだいぶ遅れていました。とくに数学は、数秘術的なものとユークリッド※の『原論』全13のうち第1巻のほんのさわりだけを教会の付属学校で習うだけでした。12世紀になると、オリエントに温存されていたギリシア数学がヨーロッパに入ってきます。ほとんど白紙の状態から学ぶのですから、習得するのに時間がかかります。300年以上の年月をかけ、ヨーロッパの人々はオリエントの進んだ科学技術を取り入れます。とくにユークリッドの『原論』は、数学の模範であり、仰ぎ見る存在でした。やっと16世紀になって、『原論』の最初の数巻が大学で教えられるようになりました。しかし大学で教えられていたのは理論数学としての幾何学だけで、計算問題を主とした実用数学や代数は大学では教えられていませんでした。
18世紀に入ると、ヨーロッパとオリエントの立場は逆転します。産業革命によりヨーロッパの富は増大し、科学技術は格段に進歩します。その中で数学は大きな役割を果たします。数学は、机上の理論から役に立つ理論へと変貌します。ヨーロッパの人々のオリエント観も変わります。エジプトはもはや神秘の国ではなく、かつてはヨーロッパの植民地だった国、文化の遅れた国になってしまったのです。
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ギリシア数学とオリエント数学の違い
ヨーロッパ文明の源流は古代ギリシアにあるとされてきました。彫刻や建築、悲劇や喜劇などの演芸、歴史や詩作などの著作、哲学や数学など、ありとあらゆるもののはじまりはギリシアにあるとされてきたのです。しかし、最近では「どんな文明も独自に生まれたものではなく、以前の文明を引きついだものである」という見方がされるようになってきました。ギリシア数学もオリエントの数学の影響を受けていたのではないか、と考えられるようになったのです。
ギリシア数学は輝かしい成果をあげました。その光の影にかすんで、エジプト数学やバビロニア数学は見えなくなってしまったように思われます。本連載で考えているピラミッドの謎も、そのため正しくとらえられなかったのかもしれません。ギリシアの数学がオリエントの数学とどのように違うのか、簡単に歴史を振り返ってみましょう。
古代ギリシアの歴史
古代ギリシアの歴史区分
エーゲ海には多くの島々が点在しています。ギリシア人はこのエーゲ海を庭とする海洋民族でした。かつてはギリシア本土にはミケーネ文明という文明が栄えていましたが前1200ごろオリエント全体を襲った未曽有の混乱のなかで壊滅的な打撃を被りました。滅亡してしまったのか、文化が細々と継続していたのかよくわかっていません。このあとのギリシアの歴史を歴史家は次のように分けています。
まず簡単に、この歴史区分を眺めてみましょう。ピラミッド時代の古王国時代から2千年近く経った紀元前7世紀ごろ、ギリシア世界は長く続いた暗黒時代を抜け出し、復興のきざしが見え始めました。このころを東方化革命の時代といい、美術史ではアルカイック期とも呼ばれています。オリエントから多くを学んでいる時代です。紀元前480年はペルシア戦争があった年で、これに勝利したギリシア(特にアテナイ)は、その後急速に発展します。紀元前338年はギリシアのポリス(都市国家)の連合軍がマケドニアに敗れた年です。この後マケドニアの王アレクサンダーの東方遠征がはじまります。前317年はプトレマイオス1世がエジプトにプトレマイオス王朝を開いた年で、前31年はプトレマイオス王朝がローマに敗れた年です。これ以後ローマ時代となります。
東方化革命時代
紀元前700年ごろになると、文化の沈滞した暗黒時代を抜け出し、ギリシア人は穏やかなエーゲ海を越えて荒波の高い地中海へと乗り出していきます。地中海や黒海の沿岸地域に多くの植民地を作り、勢力を拡大していきます。オリエントの進んだ文化に接し、先進技術や学問を学び吸収します。「光は東方から」という言葉のように、農業、文字、冶金、宗教などヨーロッパ文明の基礎となるものは常に東方(オリエント)からもたらされたものです。ギリシアはオリエントの進んだ文化を学ぶことで大きな変化をとげます。
この時期の土器など美術工芸品に書かれているスフィンクスとかゴルゴン(竜)などの架空の動物や、ライオン、ヒョウなどの実在の動物などの図表や、ロータスなどの植物文様などにオリエントの影響が見受けられます。またエジプトの大型石造彫刻をまねてギリシアでも石造彫刻が作られるようになります。大型青銅像の製造技法もエジプトから学んだものです。ギリシアで作られ始めた全裸の男性立像は、クーロス像と呼ばれ、半歩足を踏み出し両腕を突き出した姿勢などはほとんどそのままエジプトの立像のコピーです。少女像は「コレー像」といい、唇の両端が少し吊り上がっていて不思議な笑みを浮かべているように見えますが、これを「アルカイック•スマイル」といいます。ギリシア本土は肥沃な平野が少なく農耕だけでは食べていけません。交易や植民も行いましたが、オリエントの大国の傭兵になるのも生きる手段のひとつでした。エジプトにはギリシア人の傭兵だけの町が作られていました。ヘロドトス※もこの町を訪れています。ここに住むギリシア人たちはエジプト各地にある壮大な石造建築に圧倒されたことでしょう。ギリシアの初期の石造建築(ドーリス式柱廊)には明らかにエジプトの影響がみられます。
古典期
古典期はギリシアの美術の最盛期で、オリエントから学んだものを自分のなかに取り入れ十分に熟成させ、より洗練された独自性のある人間表現を見せるようになります。アルカイック期の彫像は両足に均等に重心がかかった、動きのない硬直した像で、顔も無表情でしたが、古典期以降の彫像になると、躍動感のある動作や自然な動作を示すようになり、表情もひとつひとつ個性的なものとなります。これらは、現在私たちが美術館でよく見かける彫像と大差はありません。
石造建築についても同じことが言えます。アテナイのアクロポリスの丘の上に建てられたパルテノン神殿は、ギリシアの最盛期に建てられた世界史上最も美しい建築だといわれています。近代建築の巨匠ル・コルビュジェは「すべての時代を通してどこを探しても、建築でこれを越えるものはない」と言い切っています。
古典期は美術だけでなく、ギリシア悲劇や喜劇、叙事詩などの文芸、哲学や数学が発展した時代でもあります。ヘロドトスの『歴史』が書かれたのもこの時期です。数学もこの時期アテナイで生まれたといわれています。
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ギリシア数学とエジプト数学の目的の違い
ここで少しエジプトの数学とギリシアの数学の違いについて述べましょう。エジプトは実用数学、ギリシアは理論数学だといわれています。エジプトでは経済活動のほとんどを書記が取り仕切っていました。たとえば、大ピラミッドの建設には膨大な量の計算をしなければなりません。まず必要な石の量を計算します。これには四角錐の体積の計算が必要です。この量を建設日数で割ると1日に運ばなければならない石の量が分かります。石を切り出す石工の数、運搬する人夫の数などの計算も必要です。また、料理をまかなう料理人や食料の量も計算しなくてはなりません。実際に、ピラミッドを建設するための村を作り、この村の支出を記録したパピルスの文書が出土しています。これを実際に行ったのは書記たちでした。現在私たちがエジプト数学について分かるのは、こういった有能な書記たちを養成するために書かれたパピルスのおかげです。
ピラミッド時代からおおよそ2千年後、ギリシアのアテナイはアジアの大国ペルシアとの戦争に勝ち、急速に豊かな都市国家へと成長します。地中海交易も独占し、同盟国からは多額の奉納金が入ってきます。戦争によって大勢の奴隷も手に入り、労働の多くは奴隷たちが担うようになります。数学を研究したのは、有閑階級の哲学者たちで、農民とか商工業などに携わる人たちではありませんでした。彼らは計算を「奴隷の仕事」だと軽蔑し、役に立つ実用数学を彼らの行っている理論数学より一段レベルの低いものとみなしていました。彼らの興味は役に立つことではなく、なぜそうなるのかということを明らかにして見せる論証数学だったのです。ギリシア人が行った、「議論を始める前に、そこで用いる概念を厳密に“定義”し、推論過程を正確に示して見せる」こと、つまり“証明”することは、現在私たちが行っている数学の原型となっています。そういう意味で、ギリシア数学は現在の数学の源流といえるかもしれません。
たとえば、ギリシア人は「比とは何か」を追求し正確な定義を与えていますが、エジプト人は比というものを一般的には扱ってはいません。円周の長さは、直径が2倍になれば2倍になり、3倍になれば3倍になり、さらにたとえば 5;1 7倍になれば 5;1 7倍になることを知っていましたが、これらを比という概念でまとめて述べようとはしませんでした。これに対し、ギリシア人は、2つの円 A と B に対し「A の直径に対する B の直径の比は、Aの円周に対する B の円周の比に等しい」ことを証明するのに情熱を注ぎました。
ヘレニズム期:ギリシアの理論数学とオリエントの応用数学の結びつき
紀元前338年、ギリシアのポリス連合軍は、ギリシア北方の王国マケドニアに敗れます。結局ギリシアはひとつの国としてまとまることはありませんでした。その後マケドニア王のアレクサンドロス※は、ギリシアのポリスを連合し東の大国ペルシアに遠征します。アレクサンドロス大王は、ペルシアが支配していたオリエント全土に転戦し、ついに大帝国ペルシアを破ります。エジプトを含むオリエント全土を支配する大帝国を樹立するのですが、アレクサンドロスは30歳の若さであっけなく死んでしまいます。このあとの時代をヘレニズム時代といいます。
ヘレニズム時代に入ると、文化の中心はギリシアのアテナイから、エジプトのアレクサンドリア市に移ります。エジプトでは、アレクサンドロスの幼馴染で将軍の一人だったプトレマイオス1世がエジプトのファラオとなり、プトレマイオス王朝をひらきます。つまり、プトレマイオス王朝はギリシア人が支配する王朝でした。マケドニア人は、かつてはギリシア人から辺境のよそ者扱いされていましたが、このころはギリシア人としてふるまっていたようです。
ヘレニズム時代になると、数学も大きく変わります。ギリシアの理論数学はオリエントの実証数学を吸収し大きく発展します。アルキメデス※は、エジプトのエジプト分数、バビロニアの60進小数を用い、幾何学に数値をもちこみます。アルキメデスは円や球などの面積や体積を求めるのに天秤という概念を使っています。ひょっとしたら面積を求めるのに木の板などを使って実験をしていたかもしれません。たとえば、ピラミッドの体積が直方体の体積の1 3 であることを示すのに、実際に粘土などでピラミッドと直方体を作り、測って確かめるようなことをしたのかもしれません。アルキメデスはギリシアの伝統の理論数学にオリエントの応用数学をもちこみました。
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ヨーロッパの合理的精神とオリエント数学の評価
これまでの数学史ではオリエントの数学は過少に評価されてきたように思われます。ギリシア数学のすばらしさを述べるときに、オリエント数学を悪くいうのはある程度仕方がないことかもしれません。次がこの代表的な意見です。
ギリシア人はすべてのものを不可知な神のせいにするのではなく、合理的精神でこの世界に潜む原理や規則を抽出した。これに対しオリエントでは、ただ上から教わることを丸暗記するだけであり、同じような計算を繰り返し経験するうちにその類型と解き方を覚えるだけで、なぜそのようにすれば解けるかを説明していない
このような意見は、ギリシア時代に対してだけではなく、ルネサンス時代、ガリレオ※の時代、ニュートン※の科学革命の時代などに対しても、繰り返したびたび言われてきました。これは、アジアに対する「ヨーロッパ人の合理的精神」の優位性を誇示するためだったように思われます。近世におけるヨーロッパの先進性は疑う余地はありません。私たち日本人自身も、明治時代や第2次大戦後、「日本の文化(特に科学技術)が遅れた理由はヨーロッパのような合理的精神に欠けていたためだ」という意見を持つ人が多かったようです。
ギリシア数学の論理的な体系構築とオリエント数学の実用的な計算技術
ギリシアとオリエントの数学の違いに戻りましょう。「ギリシア数学の本質は、美しい理論体系にあり、すべての定理を厳密に証明している。これに対しオリエントの数学は、計算方式を述べるだけで、なぜそうなるかを述べていない」。実際この指摘はある面では正しいようです。エジプトで出土したパピルスの数学文書も、メソポタミアで出土した楔形文字で書かれた数学の粘土板文書も、書記たちの学習のための教科書だったのです。現代でいえば受験参考書です。一方ギリシアの数学文書、たとえばユークリッドの『原論』やアルキメデスの一連の著作は、彫像や絵と同じ「作品」、つまり作者の自己表現の一つだったのです。また、オリエントでは、叙事詩や壁画に作者の名を記すことはあまりなかったようです。特に、「これは誰の発明だ」といった知的所有権はギリシアから始まったように思われます。ですから、「エジプト人がなぜそうすると解けるのかを全く考えなかった」というのは言い過ぎのように思います。また、言うまでもないことですが、ギリシア人も結構迷信深く、秘儀とか祭事や生贄などが多かったようです。
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エジプト・ギリシア・ヨーロッパのその後の文明の変遷と数学
エジプトはヘレニズム時代のローマの植民地(属州)となり、その後イスラーム教の世界になります。ルネサンスは14世紀のイタリアで始まりました。ルネサンスとは“再生”という意味で、重く立ち込めた中世の封建制度の暗雲を払いのけ、自由で人間性に満ち溢れた古代ギリシア・ローマの時代を再び蘇らせようという美術や学芸に対する運動です。古典(クラシック)という語には、古代ギリシア・ローマの時代という意味もありますが、高尚とか完成度が高い模範例という意味もあります。ヨーロッパの人たちは、古典期のギリシアの彫刻、石造建築、喜劇や悲劇などの文芸を手本としてきました。ヨーロッパ人の美の原点は古典期のギリシアにあり、ギリシアはヨーロッパ人の心のふるさとになっていったのです。
一方オリエントは神秘の国、魔法が支配する国でした。カルデア人(バビロニア人)という言葉は、占星術師、天文学者、数学者を意味していました。これらはすべて同義語でした。オリエントに古代文明が栄えていたということはすでに忘れ去られていましたが、オリエントには不思議な知恵が隠されているといううわさは広まっていたようです。
18世紀の後半に産業革命が英国で起きると、大きな社会変革がおこり、ヨーロッパ全体に広がっていきます。フランスでは革命が起こり、アメリカは独立戦争で独立を勝ち取ります。ヨーロッパにおける産業や科学技術の発展はいちじるしく、その膨張はアジアへの経済的進出、植民地主義へと進んでいきます。数学は、古代ギリシアの“純粋理論”という装いを脱ぎ捨て、技術の進歩に必要不可欠な実学に変貌します。
まとめ
エジプトやメソポタミアに進んだ文明が存在していたことは19世紀ごろからだんだん認識されるようになりましたが、象形文字や楔形文字の解読が進み、その全貌が明らかになってきたのはつい最近のことです。またヨーロッパの人々の考え方も最近また変わってきました。20世紀までは、歴史や社会の見方がヨーロッパ中心主義であったという反省です。
歴史はその時代の考え方によって解釈がずいぶん変わってきます。「歴史は歴史学者の創作である」とよく言われます。20世紀までの歴史では、「ギリシアの奇跡」といって、ギリシア文明は他の文明に影響を受けることなく独立に独自の文明を築いた、という考えが主流でした。最近では、オリエントの影響が少しずつ認められるようになってきています。