1-5.エジプト評価の移り変わり

『ピラミッドの謎』は全27記事からなるWeb連載です。

ヨーロッパからみたエジプト文明の評価と解釈の変遷

私たちのものの考え方は、時代によって大きく変わります。最近大きく変わったのは差別意識です。日本でも江戸時代は身分制度がありましたし、明治時代に入っても貴族と平民に分かれていました。アメリカやヨーロッパには近世まで奴隷制度が残っていました。宗教や占いや迷信に関する考え方も大きく変わりました。歴史に対する見方も、その時代の考え方によって大きく左右されます。たとえば、ヨーロッパとかアジアという地名でさえ、古代ギリシア時代、ローマ時代、現代とその時代によって示す範囲が違いますから注意しなければなりません。エジプト文明のいろいろな事例の評価や解釈も時代によって変わってきます。

ヘレニズム期時代やローマ時代の多くの歴史家や著述家は、クフ王のことを10万人もの奴隷を20年間も酷使した残忍無情ざんにんむじょうな王として描いています。ヘロドトスも、エジプトの司祭からの引用として「クフ王はエジプトの全国民に苦役を課し悲惨な状態に陥れた」と書いていますから、当時のエジプトの神官たちもこのように考えていたのでしょう。「大ピラミッドは奴隷によって造られた」という説は20世紀に至るまでピラミッドに関する常識で、ピラミッド建設を描いた多くの書物の挿絵や、映画でも大勢で石を引く奴隷たちにむちをふるって働かせている現場監督者が描かれています。

しかし現在ではこの説は退けられています。出土した史料の中には、ピラミッドの建設労働者に配られたビールや給料のことが記されていて、労働者たちは進んで建設に従事していたことをうかがわせますし、民衆は概して平穏な日常生活を送っていたようです。労働者は奴隷とか農奴ではなく小作人でした。彼らは、王室や神殿や高級貴族に所属し、運河の建設や軍務、農作業などに従事しましたが、生活はそれほど過酷なものではなかったようです。神官たちは民衆に「ファラオは死して神になられる。天に昇り星となり、国の安全と繁栄を護ってくださる」と説きます。神官や書記たちはみずからに強い社会的規範を課し、それを順守していたようです。もし支配者階級が狡猾こうかつで利己的な政治的行動をとっていたなら、これほど長く安定した社会は続かなかったでしょうし、ピラミッド建設という国家事業を一致団結して行うこともできなかったでしょう。

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ピラミッド建設と経済システム

「ピラミッドを作るより何かもっと生産的な仕事がなかったのか」、という疑問をお持ちの読者もおられるかもしれません。しかしピラミッドが作られた時代はまだ外国との交流もほとんどなく閉じた世界でした。軍人の数も少なく、生産した製品を海外に輸出することもたいしてありません。ピラミッドの建設はナイル川の水があふれ農耕のできない農閑期に行なわれたのです。この時期に農民に仕事を与え、給料を支払うという経済システムはとても理にかなった方法だったと考えられています。これらの説は、最近の多くのピラミッドの本に述べられていて、そのとおりだと思いますが、果たしてそれだけでしょうか。

大ピラミッドのような巨大な石造建築を作るには、高度な特殊技術が必要ですし、その技術を習得するためにも長い訓練期間が必要です。単に農民を集めればよいというだけではすみません。また、石材を運ぶというのも相当な重労働でした。出土した骨には過酷な重労働をしたことをうかがわせるものがありました。生まれ故郷の村を離れ重労働の日々を過ごすだけの動機が何かあったのでしょうか。

ナイルの谷は古代世界ではまれに見る豊かな恵まれた土地でした。臨時のアルバイトをしなければならないほど生活に困っていたわけではありません。ワインやパンは決して上流階級の人たちだけのものではありませんでした。唯々諾々いいだくだくと重労働に従事じゅうじしたのは、神官たちが作った神話を信じ込まされていたからなのでしょうか。またなぜ巨大な四角錐の真正ピラミッドは作られなくなってしまったのでしょうか。当時の精神の世界を知るために神話も調べてみる必要がありそうです。

エジプト社会は書記が取り仕切る官僚政治の社会でした。神殿などから出土する像には書記の像が含まれており、書記が崇拝されていたことを伺わせます。農耕においてひとつ問題がありました。ナイル川の水が引くと、あたり一面は泥の海で誰がどこを耕作地とするかが分からなくなってしまうのです。さらにナイル川そのものがよく流れを変えるのです。しかし心配することはありません。土地は国家が管理していたのです。「縄師」と呼ばれる役人が、大規模な測量をし、国全体の耕作地を区画整理して、農民一人一人の持ち分を割り当てたのです。

古い歴史書では次のような記述がありました。

「王族や神官は特権階級で、子弟は高い教育を受けていたが、天文学や数学は秘術で一般大衆には洩らさなかった」

「役人(書記や神官)は王の手先で、民衆に対して高圧的であった」

「貿易は国が独占し、収益は王一人が独占した」

しかしこれらは最近だいぶ修正されているようです。商業は国が管理していましたから、あまり発達しませんでした。農産物や手工業品は神殿に集められ、役人が再配分しました。ピラミッド時代(古王国時代)を過ぎると、職業の種類もどっと増え、金属細工師、陶工、宝石細工師などの奢侈品なども生産され貿易がおこなわれるようになりますが、やはり国が管理していました。では、日本の時代小説に現れるような悪代官とか悪徳商人などはいなかったのでしょうか。役人はみな清廉潔白で農民はみなお人よしばかりだったのでしょうか。

ローマ時代におけるエジプトとギリシアの評価の違い

ローマ時代やルネサンス期のヨーロッパでは、「エジプト好き」な人と「ギリシア好き」な人が出てきます。ローマ時代はけっこうエジプト好きな人が多く、エジプトの代表的なオベリスク(先端がピラミッド形の四角柱)はエジプトよりローマのほうが多いようです。しかし、熱烈なギリシア好きの人はエジプト文明を卑下し、エジプト好きの人を「バルバロイ(野蛮人)びいき」といって非難する人が多かったようです。

現在でも多くの人は「ギリシアこそ数学の発祥の地だ」と考えているようです。特にピタゴラスの定理はギリシア数学のシンボル的定理で、近世までは誰もが「ピタゴラスの定理はピタゴラスが証明した」と信じて疑いませんでした。ケプラーは次のように言っています。

ケプラー吹き出し

幾何学には2つの宝物がある。一つはピタゴラスの定理であり、 もう一つは黄金比である。 前者は10キロの黄金に例えられ、後者は豪華な宝石にもたとえられる。

現在の私たちの歴史は多くを過去の歴史に負っています。ヘロドトスの書いた著書ヒストリアイは『歴史』と訳されていますが、彼が用いたヒストリアイは「調査する」という意味の動詞ヒストレオから派生したものです。このような「紀行文」や「歴史」が書かれるようになるのはヘロドトスからで、ヘロドトスは「歴史の父」とも呼ばれています。彼の著作である『歴史』は、現在の歴史の教科書のような事実の羅列ではなく、人びとに面白く伝える読み物です。古い伝承や人から伝え聞いたお話が多く含まれており、同時代の事件でも登場人物の会話を交えた、さながら演劇の台本のようです。読む人は、臨場感もありあたかも現実に起きているような感覚に陥りますが、実際はこういったものほどフィクションが多いように思います。ヘロドトスは著述家として事実を皆に伝えようとしていますが、古代の著作はみな私的なもので、事実と異なることを書いたとしても誰もとがめる人はいません。あんがい自由気ままに書かれているように思われます。

ローマ時代になると、ギリシアの英雄や偉人などを描いた著作が多く書かれるようになります。これらの作品ではギリシア文明を称賛し賛美していて、史実を描いているというより物語です。たとえばプルタルコスという作家は、ギリシアのアポロン神殿の神官でしたが、ギリシア・ローマ時代の偉人や英雄の伝記『英雄伝』を著しています。現代人の感覚からすると、過去の偉人伝や英雄伝は「ちょっとほめすぎ」で「こんな人ほんとにいるのか」という感じがします。18世紀になるとヨーロッパではギリシア熱が沸き上がり、有名な思想家ジャン=ジャック・ルソーは、

ルソー吹き出し

ギリシア・ローマについて書かれた書物は数々あるが、プルタルコスの書ほど面白く得るものが多いものはない

と絶賛しています。ヘロドトスをはじめこの時代の著述家は大ピラミッドに対し少しも神秘的な感情など持ってはいません。むしろなぜこのようなバカでかいものを王一人のために造ったのだろうと不思議に思っていたようです。

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『3-4-5の直角三角形』とその普及

上で述べたように、ナイル川の氾濫の後、縄師と呼ばれる測量師が活躍しました。土地を農地として切り分けるには“直角”が必要となります。長い一本のロープを、長さ 3, 4, 5 に分け、分け目に印をつけます。このロープで三角形を作り、印のところでピーンと張ると直角三角形ができます。図1.5.1参照。

図1.5.1_古代エジプトの測量

縄師はこのようにして直角を作ったといいます。これに対し、「これは俗説にすぎない」とか「このようなことを記した史料などは存在しない」と言い切っている数学史の本をよく見かけます。まだ発見されていない史料や読まれていない史料などいくらでもあるのに、この意見はちょっと言い過ぎです。おそらく「エジプト人はピタゴラスの定理を知っていたはずがない」という思い込みがあるからでしょう。3-4-5で直角ができることは日本の江戸時代の大工も知っていましたし、中国の古い数学書にも出てきます。これにはピタゴラスの定理など必要ありません。縦3横4 の長方形を描いて対角線の長さを測ってみればわかることです。いったん3-4-5で直角三角形になることが分かれば、簡単で便利だから皆が使うようになります。したがって、「エジプト人は3-4-5で直角三角形ができることを知っていた」を証明するには、3-4-5の直角三角形が書かれた例を一つ示せば十分です。そのような例は本連載のあとの章で述べるパピルスに書かれた問題の中に現れます。

近世ヨーロッパと歴史観

Chapter1ではピラミッドの謎の背景について、おもにその伝承を中心に述べてきました。読者の皆さんには、「ピラミッドの謎なんて、近世に入ってから作られた妄想の類で、データをいじくりまわしているうちに出てきた偶然の一致にすぎないのか」と落胆されている方が多いと思います。しかし、ピラミッドにはまだ大きな秘密が隠されているのです。その秘密はChapter5で明かすことにします。秘密といっても実は内容はごく常識的なものだと思います。なぜこれらが秘密のまま解かれずにきたかというと、私たちがエジプト文明をよく理解していなかったからだと思われます。

近世に入ると、ヨーロッパの科学技術の進歩は著しく進歩し、アジアに対する優位性は誰の眼にも明らかになります。これによってヨーロッパの人たちのオリエントに対する評価は急速に低下します。科学万能時代となり、占星術、礼金術、数秘術などは非科学的な迷信として退けられます。古代から伝わる伝承や神話も相手にされなくなります。

しかしこういった動向も行き過ぎたところもありました。たとえば 新ダーウィン主義といって、白人が進化の頂点に立つという思想です。黒人は最初に分化したので一番劣っているとされました。私たちモンゴロイドは、シベリアの寒冷地に閉じ込められ、寒冷地適応を受けました。寒さに耐えられるように、手足は短くなり、鼻を低くして顔のでこぼこを少なくし、毛皮をまとっていたため体毛は少なくなりました。しかしこれは進化ではなく退化だというのですから勝手です。もちろんこれには科学的根拠はまったくなく、現在このようなことを言う人は少なくなりました。

19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパの列強がアジアに進出してきました。目的は経済的なもの(植民地化)でしたが、大義名分は非文明国(発展途上国)の文明化でした。しかし日本に関しては、日本人の方もそれを積極的に受け入れたようです。明治になって西洋文明が入ってきたとき、日本人は日本を遅れた国、ヨーロッパは進んだ国と認め、西欧の文化を丸ごとそのまま進んだ文化として受け入れました。私たち自身これを文明開化と呼んでいます。数学を含む自然科学だけでなく、哲学、文学、美術などおよそ学問といえるものはほとんどヨーロッパからの学んだものを基礎としています。しかし日本が急速に近代化できたのはこのためかもしれません。

歴史つまり世界史も、もともとはヨーロッパの歴史のことで、古代とはおもにギリシア・ローマ時代のこと、あとはつけたしでした。しかしこういったヨーロッパ中心主義は最近見直されているようです。本連載でもたびたび出てくるヘレニズムという用語は19世紀の歴史家ドロイゼンが導入したものですが、ヨーロッパ側からの一方的な視線が感じられると指摘されています。数学史に関しても、ヘレニズム期やローマ時代の数学は、ギリシア数学のつけたし的な扱いでした。しかしこういったヨーロッパ至上主義を非難しているのも、アメリカやヨーロッパの研究者たちです。

『ピラミッドの謎』は全27記事からなるWeb連載です。

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