暦の起源 ・ 全22回

第13回 グレゴリオ暦とは?ユリウス暦との違いや閏年の仕組みを解説

天文・暦
第13回 グレゴリオ暦とは?ユリウス暦との違いや閏年の仕組みを解説

現在私たちが使っている暦はグレゴリオ暦といい、ユリウス暦を改良したものです。この暦がどのような状況下で生まれたのか、なぜユリウス暦を改良しなければならなかったのかを調べてみましょう。

ヨーロッパの急速な発展

オリエントの影響

グレゴリオ暦が設定された16世紀は、暗い暗黒の中世を抜け出し、ヨーロッパが大きく発展しようとしているときでした。1500年以前のヨーロッパは、人口が推計8000万人程度で、大多数の民衆は貧しく文化も遅れていました。ところが300年後の1800年には人口は 1億9000万人と2倍以上に増え、経済力も増し、文化的社会的構造がガラッと変わってしまいます。

1500年以前のヨーロッパは、広い領域を占める政体はフランス王国とイングランド王国ぐらいのもので、500ほどの政体が入り乱れて争っていて、現在私たちが思い描いているのとはまったく違った姿でした。当時オリエントはイスラーム世界となっていましたが、文化的にも天文学においてもヨーロッパよりはるかに進んでいました。ヨーロッパの急速な発展は、オリエントの進んだ文明を取り入れることから始まりました。ヨーロッパの人たちはイスラームの異文化と接し、自分たちをクリスチャンと意識し、富裕層(エリート)たちはキリスト教以前の古典古代とのつながりに自分たちのアイデンティティを見出していたのです。クリスチャンにとって、オリエントはキリスト生誕の地ですし、ヨーロッパの前身は全世界を制覇する大ローマ帝国だったのです。

キリスト教と暦

当時のキリスト教世界は大きく3つに分かれて争っていました。ローマ教会のカトリック、東方正教会のオーソドックス、古い教会の腐敗への「抗議(プロテスト)」から生まれたプロテスタント。「カトリック」とは「普遍」という意味、「オーソドックス」は「正統」という意味で、共に自己を賛美する尊称ですが日本語では単なる名称として用いられているようです。カトリックはローマですからラテン語、東方正教会は東ローマ(ビザンティン)ですからギリシア語、プロテスタントはこれらに対抗して生まれたから俗語(ヴァナキュラー:日常語)とおおざっぱに見ると理解しやすいかもしれません。

前回のお話で述べたように、キリスト教は暦を用いて時を支配し、ヨーロッパ社会を牛耳ってきました。しかし、暦書が広まり機械時計が普及し人々が知識を持つようになると、もはや暦が教会の専有物ではなくなります。また、ローマ教会のカトリック以外の宗派が勢力を伸ばし、各地で紛争が起きてきます。ローマキリスト教会が再び力を取り戻すには暦を何とかしなければなりません。

新しい暦『グレゴリオ暦』の制定

ユリウス暦からグレゴリオ暦へ

そもそもの発端は「春分点移動」です。春分の日はユリウス暦で「3月21日」と決まっていました。ところが教養のある人が出てくると、春分の日が暦と一致していないことに気が付き始めます。また、国際化によりイスラーム教やユダヤ教の人々からも指摘されたり嘲笑されたりします。暦は祭事を司る教会にとって最も重要な権威の象徴でした。そこで教皇グレゴリウス13世は、数学者アロイシウス•リリウスやクリストフェル•クラヴィウスらの助言を採用して、新しく暦を制定し直したのです。

春分点移動についてはこちらの記事で詳しく解説しています ▶︎ 第9回 春分点移動とヒッパルコス

暦の調整

そもそも「春分の日が3月21日」と決められたのは、325年、アナトリア(現トルコ)の古代都市ニカイアで開かれたキリスト教会最初の公会議で決められたのです。325年に3月21日だった春分の日が、16世紀になると10日も前の3月11日になっていたのです。そこで、それまで使われていたユリウス暦から進みすぎた10日間を取り除き、1582年10月の暦を次のように定めました。

ユリウス暦とグレゴリオ暦

つまり、1582年10月5日から14日までの期間が歴史の上から消え去ったのです。

閏年(うるう年)の規則

さらに次の規則に従って、閏年を設定することに決めました。

\((a) 4の倍数の年は閏年とする。\)
\((b) ただし、100の倍数の年は閏年としない。\)
\((c) しかし、400の倍数の年は閏年とする。\)

後の条件の方を優先します。たとえば 2000年は4の倍数、100の倍数ですが400の倍数でもありますから閏年です。2100は閏年としません。

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