第9回 春分点移動とヒッパルコス

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

ローマ帝国時代のキリスト教

ユリウス暦、元年の制定

ローマ帝国時代のエジプトを見てみましょう。当時のローマは、ヨーロッパ、北アフリカ、オリエンを支配する大帝国となっていましたが、文化的にはギリシアやオリエントに多くを負っていました。古代では国の行う行事として、祭事が最も重要で、祭事は暦に従って頻繁に行われていました。アレクサンドリアには暦算家と呼ばれる暦の専門家がいて暦の編纂や祭事の決定を行っていました。カエサル(ユリウス)がユリウス暦を設定してから300年ほど経ったディオクレティアヌス帝の頃、暦算家たちは当時の暦には紀元が定まっていないことに気がつきます。暦算家の考えでは、天地創造の年は新月と共に始まったはずであり、調べてみるとディオクレティアヌス帝即位の年の1月1日は新月でした。そこでディオクレティアヌス帝の即位の年(西暦284年)を元年としました

キリスト教が広がる以前のローマ…ミトラ教とは

当時は、キリスト教はまだ弱小でした。キリスト教はオリエントで生まれ、ローマの人々がキリスト教を信じるようになるまで、長い間エジプトやギリシア本土やアナトリアで布教を続けてきたのです。ですから祭事などオリエントの影響を受けています。当時のローマの人々はキリスト教ではなく、エジプトやメソポタミアの神々を信じていました。特にペルシアから伝わったミトラ教は多くの信者を集めていました。12月25日は、現在ではクリスマスですが、古代ローマではミトラ教の「太陽の復活」を祝う祭日でした。冬になると太陽はだんだん衰えてゆき、冬至を境にしてまた復活します。12月25日あたりは冬至で、多くの民族では冬至(の後の新月)を年始としていました。274年、ローマ皇帝アウレリアヌスは、12月25日を国の祭儀の日と定めました。

キリスト教は一神教ですから、太陽神とか月の神など邪教の神として認めていません。しかしそのころのキリスト教はまだ弱小でローマ皇帝からも認知されていませんから、このような民間の祭事はキリスト教に取り入れざるを得ませんでした。

週7日制の導入

キリスト教は次第に勢力を伸ばします。コンスタンチヌス帝は全ローマ帝国を統一し、313年「ミラノ勅令」を発布して信仰の自由を認め、自らもキリスト教徒となります。321年には、日曜日を休日とする週7日制を導入します。ローマの1週は8日、エジプトの1週は10日でしたが、これが7日となったのです。

「週」の起源

〔 『宇宙の不思議』第2回 1週間はなぜ7日となったか〕で述べましたが、ここで週がバビロニア由来であることを確認しておきましょう。7日のそれぞれには、太陽、月と5つの惑星が割り当てられています。太陽と月はもちろんですが、それぞれの惑星にも神が割り当てられています。それらには、バビロニアの神と同じ神が名前を変えて現れていると見なされているものがあります。次で下線が付けられた神がバビロニアの神です。金曜(金星):愛と美の女神(ヴェヌス、ヴィーナス、アフロディーテ、イシュタル)。木曜(木星):主神(ユピテル、ジュピター、マルドゥク)。火曜日(火星):戦いの神(マルス、ネルガル)。

は、キリスト教、ユダヤ教からきたという説が多いようですが、これらをさらにたどればバビロニアに行き着くのです。英語の安息日 sabbath はバビロニア語の Sabattu 由来だといいます。大学教官などが研究のために与えられる長期休暇をサバティカルといいます。

復活祭の意味

春分の日もまたキリスト教徒にとって大切な日でした。〔8.暦の伝播〕で述べたように、復活祭はユダヤ教の過越(すぎこし)の祭りからきています。もともとは、復活祭は「春分の日の後の満月の日」でした。しかし、事態を複雑にしたのは復活祭に曜日の概念が入ってきたのです。日曜日はキリスト教にとって、ただの休日ではありません。「主の日」といって主キリストが復活した日なので、「復活祭は日曜日でなければならない」となったのです。

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メシア信仰と春分点移動

「春分の日」の制定

世界中の多くの民族と同様、キリスト教にとっても春分の日は大切な日でした。325年、アナトリア(現トルコ)の古代都市ニカイアで、キリスト教会最初の公会議が開かれました。この会議で「春分の日は3月21日」と定められ、「復活祭は春分の日以後の満月以後の最初の日曜日」と決められたのです。このことが千年後にユリウス暦を改変してグレゴリオ暦を設定する原因となります。この会議が開かれる時点まで、春分の日は3月25日にあてられていました。つまり、この時点ですでに4日も春分点が移動していました。そしてそのことを人々は認識していたのです。当時の人びとはどの程度春分点移動のことを知っていたのでしょうか。時代をキリスト教誕生のころまで戻ってみましょう。

春分点移動…おひつじ座からうお座へ

西暦50年頃、キリスト教はまだ弱小で、エジプト、アナトリア(現在のトルコ)、レバント(東地中海沿岸)で活動を続けていました。当時の民衆はローマの圧政と搾取に苦しみ、宗教に救いを求めていました。〔3.メソポタミアの暦〕で述べたように、バビロニア時代、春分の日の太陽はおひつじ座にあったのですが、50年頃には春分の日の太陽はおひつじ座からうお座に移ろうとしていました。このことは、新しい時代の到来を意味します。キリスト教徒たちはこの事実を利用し、キリスト教と魚を関連づけたのです。たとえば使徒ペテロは漁師でした。

「最後の晩餐」の秘密

また、レオナルド・ダ・ビンチ最後の晩餐に描かれている料理は子羊ではなくなんとなのです。“キリスト教=魚”は当時の多くの人が認識していたのではないかと思います。メシアとは救世主のことで、そのギリシア語訳がキリストです。救世主であるキリストが復活し、次の千年間を平和で正義に守られた世界に君臨する、というのが「至福千年思想」です。太陽が1度移動するのに71年、1星座分の30度移動するには 71×30=2130年です。2130年は千年よりだいぶ長いですが、「春分点がおひつじ座からうお座に移る」というのは至福千年思想にぴったりです。

キリスト教の普及

その後、ローマ帝国時代になるとキリスト教はローマに取り入れられますが、キリスト教の普及に貢献した教父アウグスティヌスはその教説の中でキリストを“正義の太陽”と呼んでいます。キリストが復活した「主の日」であるはずの呼び名も Sunday(太陽の日)なのです。後にキリスト教は占星術や太陽信仰を敵視するようになり、痕跡を消そうとしますが新興宗教当時はまだ利用していたのです。その後、数百年が経過し、オリエントの記憶がなくなると、ヨーロッパの人々はふたたび占星術のとりこになります。

春分点移動はヒッパルコスの発見か

春分点移動の発見者は、ギリシアの天文学者ヒッパルコス(前190頃~前125頃)というのが現在の定説のようです。はたしてこれは本当でしょうか? 〔3.メソポタミアの暦〕で見たように、春分の日が1日移動するのに約71年、天球の春分点が1年間で星々の間を移動する角度は 0.0142度です。当時の観測機器で一人の人が一生かけても発見できるような値ではありません。ではバビロニアに蓄積されてきたデータを使って発見したのでしょうか。バビロニアの天文学の目的は占星術で、それぞれの時節に太陽がどの星座にあるかを記録していました。特に最も重要な関心事は春分点で、バビロニア人は常に春分点がどの星座にあるかを観察していたのです。

西暦紀元はどのように定められたか

西ローマ帝国後の暦

現在私たちが使っている暦は西暦で、キリストが生まれたとされる年を元年としています。どのようにして元年が定められたのかを見てみましょう。476年西ローマ帝国は滅亡し、イタリアはゲルマン人の国となり、西ヨーロッパは中世の暗黒時代に入ります。新しい時代が始まり、暦も新しくする必要があります。当時、キリスト教のもろもろの祭事は暦算表に書かれている通りに行われていました。もはやオリエントとは切り離されているのに、暦算表はアレクサンドリアで作られたエジプト色の強いものでした。ローマ教皇ヨハネス1世は、525年頃ローマの修道院長だった暦算家ディオニュシウス・エクシグウス(小ディオニュシウス)に、ローマ教会独自の暦算表に作り変えるように命じます。当時のローマ暦は、上で述べたようにディオクレティアヌス帝が即位した年を元年としていましたが、もはやローマ帝国は過去のものです。特にディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を迫害した皇帝なので、そのことも気に入らなかったのでしょう。小ディオニュシオスは、キリスト受肉の年(誕生した年)の次の年を新しい暦の元年とすることにしました。

ローマ暦の完成

後になって、これは間違いでキリストが誕生したのは紀元前7~4世紀ごろだと判明します。現在西暦はA.D.と書きますが、これは「主の年」を意味するアンノドミニ (anno domini) の省略形なのです。ローマ教会の内部では、復活祭の時期を決定するのに、ローマのユリウス暦を使うべきかそれともユダヤ人の太陰暦を使うべきかをめぐって論争がありました。ユリウス暦は太陽暦であるにもかかわらず、復活祭は満月の日でなければならないと決まっていたからです。満月の日を決定するのにメトン法を用いることとし、532年、ローマの暦にもろもろの祭事が定められた暦が完成しました。

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