第13回 グレゴリオ暦:ユリウス暦の改良

現在私たちが使っている暦はグレゴリオ暦といい、ユリウス暦を改良したものです。この暦がどのような状況下で生まれたのか、なぜユリウス暦を改良しなければならなかったのかを調べてみましょう。

ヨーロッパの急速な発展

オリエントの影響

グレゴリオ暦が設定された16世紀は、暗い暗黒の中世を抜け出し、ヨーロッパが大きく発展しようとしているときでした。1500年以前のヨーロッパは、人口が推計8000万人程度で、大多数の民衆は貧しく文化も遅れていました。ところが300年後の1800年には人口は 1億9000万人と2倍以上に増え、経済力も増し、文化的社会的構造がガラッと変わってしまいます。

1500年以前のヨーロッパは、広い領域を占める政体はフランス王国とイングランド王国ぐらいのもので、500ほどの政体が入り乱れて争っていて、現在私たちが思い描いているのとはまったく違った姿でした。当時オリエントはイスラーム世界となっていましたが、文化的にも天文学においてもヨーロッパよりはるかに進んでいました。ヨーロッパの急速な発展は、オリエントの進んだ文明を取り入れることから始まりました。ヨーロッパの人たちはイスラームの異文化と接し、自分たちをクリスチャンと意識し、富裕層(エリート)たちはキリスト教以前の古典古代とのつながりに自分たちのアイデンティティを見出していたのです。クリスチャンにとって、オリエントはキリスト生誕の地ですし、ヨーロッパの前身は全世界を制覇する大ローマ帝国だったのです。

キリスト教と暦

当時のキリスト教世界は大きく3つに分かれて争っていました。ローマ教会のカトリック、東方正教会のオーソドックス、古い教会の腐敗への「抗議(プロテスト)」から生まれたプロテスタント。「カトリック」とは「普遍」という意味、「オーソドックス」は「正統」という意味で、共に自己を賛美する尊称ですが日本語では単なる名称として用いられているようです。カトリックはローマですからラテン語、東方正教会は東ローマ(ビザンティン)ですからギリシア語、プロテスタントはこれらに対抗して生まれたから俗語(ヴァナキュラー:日常語)とおおざっぱに見ると理解しやすいかもしれません。

前回のお話で述べたように、キリスト教は暦を用いて時を支配し、ヨーロッパ社会を牛耳ってきました。しかし、暦書が広まり機械時計が普及し人々が知識を持つようになると、もはや暦が教会の専有物ではなくなります。また、ローマ教会のカトリック以外の宗派が勢力を伸ばし、各地で紛争が起きてきます。ローマキリスト教会が再び力を取り戻すには暦を何とかしなければなりません。

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新しい暦『グレゴリオ暦』の制定

ユリウス暦からグレゴリオ暦へ

そもそもの発端は「春分点移動」です。春分の日はユリウス暦で「3月21日」と決まっていました。ところが教養のある人が出てくると、春分の日が暦と一致していないことに気が付き始めます。また、国際化によりイスラーム教やユダヤ教の人々からも指摘されたり嘲笑されたりします。暦は祭事を司る教会にとって最も重要な権威の象徴でした。そこで教皇グレゴリウス13世は、数学者アロイシウス•リリウスやクリストフェル•クラヴィウスらの助言を採用して、新しく暦を制定し直したのです。

暦の調整

そもそも「春分の日が3月21日」と決められたのは、325年、アナトリア(現トルコ)の古代都市ニカイアで開かれたキリスト教会最初の公会議で決められたのです。325年に3月21日だった春分の日が、16世紀になると10日も前の3月11日になっていたのです。そこで、それまで使われていたユリウス暦から進みすぎた10日間を取り除き、1582年10月の暦を次のように定めました。

グレゴリオ暦

つまり、1582年10月5日から14日までの期間が歴史の上から消え去ったのです。

閏年(うるう年)の規則

さらに次の規則に従って、閏年を設定することに決めました。

(a)  4の倍数の年は閏年とする。
(b)  ただし、100の倍数の年は閏年としない。
(c)  しかし、400の倍数の年は閏年とする。

後の条件の方を優先します。たとえば 2000年は4の倍数、100の倍数ですが400の倍数でもありますから閏年です。2100は閏年としません。

実際の太陽年との誤差

規則 (a) ~ (c) が実際の1太陽年にどれくらい近いかを計算してみましょう。連続した 400年の間に現れる 4の倍数は 100個、100の倍数は 4個、400の倍数は1個ですから、閏年は 100 – 4 + 1 = 97回、平年は 400 – 97 = 303回です。

(365日×303+366日×97) ÷ 400 = 365.2425日          (1)

現在の1太陽年の理論値は

1太陽年 = 365.2422日                     (2)

(1) と (2) の差は 0.0003日、1万年で3日の差です。

閏年の規則はどのようにして得られたのか

上の規則 (a) ~ (c) がどのようにして得られたのかを見てみましょう。(2) は現在の値なので次のデータを使うことにします。

325年3月21日は春分の日、1582年3月11日は春分の日          (3)

1582 – 325 = 1257 年で10日、春分の日が移動しています。1年あたりに直すと、

10 ÷ (1582 – 325) = 0.007955… ≒ 0.008

となります。つまり1000年で 8日、500年で4日となります。年数の最後の3桁の数が 001 から 500 までのもの、あるいは 501 から 000 までのものを考えます。この数のうち、4 の倍数は125個、100 の倍数は5個、500の倍数は1個です。125回の閏年のうちから4回の閏年を取り除けばよいわけです。すると、上の規則 (a), (b), (c) ではなく (c) を次の (c’) で置き換えた規則が得られます。

(c’) しかし、500の倍数の年は閏年とする。

規則 (a), (b), (c) ではなく (a), (b), (c’) となってしまいました。これはなぜでしょうか。イタリアの数学者の用いたデータが (3) ではなく、もっと正確な値を用いたためではないかと思います。1257年間で春分点が移動するのは正確には 10日ではなく、9.8日なのですが、16世紀のヨーロッパの数学ではまだ小数は使われていません。ですから 9.8日を10日とみるのは仕方ありません。さらに長い期間のデータを用いたのでしょう。

グレゴリオ暦とカレンダー

「春分の日」は大切な日だった

グレゴリオ暦はすんなりと受け入れられたのでしょうか。それを見る前に、まずグレゴリオ暦を現代人の目で評価してみましょう。私たちは日常グレゴリオ暦を使っていてなんの不自由も感じませんから、よくできた暦だと思っていると思います。しかしなぜ上のようなちょっと複雑な規則を定めたのでしょうか。そもそも原因は千年も前に「春分の日を3月21日とする」と決めたことにあります。だとしたら、上の3つの規則の代わりに

(d)  128年ごとに春分の日を1日前に移動する

という規則を設ければよいのではないでしょうか。100年に1日、千年に10日季節が移動しても実生活には何の影響もありません。人の一生で春分点が1日移動するのを経験するのは高々1回にすぎませんし、季節が1日移動したぐらいでは、気づく人は誰もいません。

しかしものの見方や考え方は時代によっても変わりますし、宗教によっても違います。天文学的には1月1日はたいして意味がありませんが、世界中の多くの地域で“お正月”は大切な日です。キリスト教にとって「3月21日」は動かし難い大切な日だったのかもしれません。また威信を失いかけたカトリック教会がこれによって、「“自然が(つかさど)る時”と“教会が司る時”とをローマ教皇が一致させた」ことを、キリスト教世界全体に知らしめようとしたのかもしれません。

暦を変えたことによる弊害

暦の1年を1太陽年とぴったり一致させることは天文学からの要請ではありません。天文学者は数学者でもありますから、どのような暦でも厳密に定められたものであればなんであっても一向にかまいません。むしろ、ユリウス年からグレゴリオ暦に変わったことによって、古代天文学者や歴史学者には困った問題が生じています。たとえば次はよく知られた例です。

ガリレオ・ガリレイが死んだ年にニュートンが生まれた」と、言われます。「天才科学者が天才科学者にバトンタッチした」となると感動的な物語なのですが、ガリレオはイタリアでグレゴリオ暦、ニュートンはイギリスでユリウス暦ですから、正確には同じ年ではないのです。

暦書と文化

その後の暦の移り変わりを見てみましょう。暦の中に曜日が入ってくるのは17世紀の後半になってからです。1650年頃、曜日の入ったカレンダーのようなものが作られます。しかし暦書は相変わらず占いの書で、暦書に曜日が入るようになるにはあと100年以上もかかります。

18世紀、暦書の読者は都会の一部の人たちだけでしたが、やがて農村の人々の識字率も上がってきます。行商人の手で暦書が農村に持ち込まれると、暦書の発行部数は増加します。暦書は民衆の識字率を上げ大衆文化の重要な要素となり、小学校で読み書きを習うのにも使われていたようです。  

カレンダーの普及

19世紀になると、暦書の月ごとの日付に数字曜日が付けられるようになります。すると、それによって、人びとは将来の予定や計画を立てることができるようになります。やがて、月名、曜日と日付の数字が入った商業用のカレンダー、ひと目で予定が分かるスケジュール手帳が作られるようになります。現在と同じようなカレンダーが毎年印刷され広く行きわたるようになったのは19世紀になってからのことです。当時の歴史家は「時に支配されていたが、時を支配するようになった」と言っていますが、現在の皆さんはどうですか。時に支配されていませんか。

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

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