ガリレオ裁判の真相[vol.1] :“近代科学の父”ガリレオの生涯

ガリレオ・ガリレイはイタリアのピサ生まれの物理学者で、近代自然科学の創始者とされている人です。ガリレオは、コペルニクスが唱える地動説を支持し、この説がキリスト教の教理に反しているということで異端裁判にかけられ、有罪となったということを読者の皆さんもご存知だと思います。しかし、これは本当なのでしょうか。これには多くの誤解を含んでいるように思います。誤解の主な原因は、コペルニクス説を、惑星たちが太陽のまわりを円運動しているという単純な説だと思い込んでいること、当時の天文学者たちが天動説(プトレマイオス説)を離れることができなかった理由を知らないためではないかと思います。はたしてガリレオは天動説を覆す明確な証拠をつかんだのでしょうか。ガリレオのほんとうの業績が何であったのか、現在の物理学や数学の立役者であると考えられているのはなぜなのかを知るためにも、ガリレオの生涯を見てみましょう。

ガリレオの生い立ち

ルネサンス期のイタリア

ルネサンス期のイタリアは、地中海交易で巨額の富が集まり、ヨーロッパの文化の中心でした。しかし時代は地中海に限定されていた時代から、インドやアメリカ航路が開発され大航海時代に入っていました。コロンブスやバスコダガマ、マゼランなどが活躍した時代です。ガリレオが生まれたのは、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家が活躍したルネサンス期が終わろうとしていた時代です。ガリレオが亡くなると、バトンタッチをするようにニュートンが誕生します。芸術の時代から科学の時代へと進みます。自然科学もイタリアからヨーロッパ全土に広がろうとしていました。しかし、ガリレオが幼年期をすごしたイタリアではまだ、溶鉱炉や製紙工場が建設されており、大型の船が建造されていました。ガリレオが育ったピサも、近くに大きな港町があり、大型船や大砲や鉄砲を作る技術者や職人たちが活躍していました。ガリレオは、こういった技術の開発に情熱を注ぐことになります。

イタリアの英雄ガリレオ

これまでガリレオの伝記が数多く書かれてきましたが、古い伝記は「立身出世」をテーマにするものが多かったように思います。ガリレオは「科学革命」と呼ばれる「科学の時代」を幕開けた創始者ともいえる人で、イタリアという地域の誇りでもあり“英雄”でもありました。伝記の多くは、ガリレオがどのようにして社会的階級のトップに駆け上っていったかを記述しています。したがってその中には、誇張や“作り話”も紛れ込んでいます。しかし、最近の伝記では、完全無欠の偉人ではなく、欠点を持つ人物像が描かれるようになってきています。ここで注意しなければならないのは、時代によって人の考え方がずいぶん変わってきているということです。

現在世界はグローバル化のせいで、どこに行っても皆さん同じような考え方をしています。ですが、過去には世界各地でいろいろな人が千差万別の生活様式と考え方をしていました。特に現代と際立って違うのは差別の問題です。ガリレオのころのヨーロッパは階層社会でした。現在でも多少格差はありますが、当時は何でもかんでも上下の区別をしていました。学問も貴族の学ぶラテン語などは高尚な学問であり、商人や技術者が学ぶ算術は下賤な技芸とみなされていました。貴族や富豪などは貴い価値のある人々で、貧乏な下層階級の人々は、人としての価値(人格)のない人として厳格に区別されていたのです。こういう考え方は、地域や時代によってもまちまちですし、中世ヨーロッパと日本の江戸時代とでは著しく異なります。拷問や公開処刑が行われていましたし、現在では人権侵害あたる犯罪行為がごく普通のこととして横行していました。しかし、歴史上のできごとを現代人の眼で、「正しい」とか「間違っている」と、判断をすべきでないように思います。伝記や昔話、神話などは、書き写されるごとに、その時代の価値観によってどんどん書き換えられてきましたが、これは歴史そのものが書き換られてしまうことになります。数学史の記述も気をつけなければなりません。ガリレオの業績を現代数学と使って述べるときも同じことが言えます。当時まだない概念をむやみに使うと、数学の進歩がどのように行われたのかが分からなくなるからです。

喧嘩屋ガリレイ

ガリレオは、現在のイタリアにあったトスカーナ大公国のピサで生まれました。ガリレオ・ガリレイという名は、ガリレオと呼んでいいのか、ガリレイと略していいのか迷うところですが、これはこの地方(トスカーナ地方)の古い習慣で、長男は姓を重ねるという慣わしにのっとったもののようで、ガリレオ・ガリレイはガリレイ家の長男を表しているようです。ガリレイ家はフィレンツェの旧家(下級貴族)で、ガリレオの父は有名な音楽家だったようです。しかし、音楽だけでは生活できず、呉服商を営んでいたようです。ガリレオが幼いときは商売もうまくいっていたようで、父親は学校に通わせずに専属の家庭教師をつけて独自の教育を行っていました。しかし、ガリレオが11歳になったとき、商売がうまくいかなくなり、家族はフィレンツェに移り、ガリレオは家から離れた寄宿制修道院学校に編入しました。15歳の時どういうわけか家に戻り、その後修道院には戻りませんでした。その理由は伝記によってまちまちです。数学の天与の才能が明らかとなり、父親はガリレオを修道僧にするのをあきらめ大学に進学させることにした、というのもあれば、父親は「ガリレオが修道僧になると決意した」というのを聞いて驚きあわてて呼び戻した、というのもあります。また、目の感染症に罹って家に連れ戻された、というのもあります。いずれにしても、そのころの子供は父親の言いなりであったことが分かります。

ガリレオは父親譲りの性格で、頑固で反骨精神が旺盛で、人の意見を聞かず絶えず人と意見を闘わせ、友人たちから「喧嘩屋ガリレイ」と呼ばれていたようです。

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振り子の等時性の発見

ピサ大学の学生時代

ガリレオは17歳のとき、ピサ大学の医学部に入学します。しかし21歳のとき、おそらく費用が出せなくなったため、学位を習得しないまま大学を中退します。その後の生活も、つねにお金に困り借金を繰り返します。

振り子の等時性

このころの逸話に有名な「振り子の等時性の発見」があります。


ある日のこと、ガリレオはピサの大聖堂で行われるミサに列席していました。大聖堂には大きな真鍮製のシャンデリア吊り下げられていました。シャンデリアには30本ものロウソクが3段の円形に並べられており、ロウソクに火を灯すときは、中央の鎖で上げ下げします。ガリレオは説教はうわの空で、教会のオルガンのしらべに合わせてシャンデリアが揺れるのを眺めていました。突然扉が開くと、シャンデリアは風で大きく揺れます。しかしシャンデリアの揺れはオルガンのリズムと合ったままです。ガリレオは自分の脈で揺れの時間を測ってみると、揺れが大きくても小さくても時間は一定であることを発見します。ガリレオはこの発見を教師などに漏らしていました。人は病気になると脈拍が多くなることが知られていました。ガリレオの発見が元で、振り子の紐の長さを調節して脈拍を測る“プルシロギウム”の発明につながったといわれています。


これがガリレオの「振り子の等時性の発見」に関する伝説的エピソードです。しかし、ピサの大聖堂にシャンデリアが設置されたのは 1688年のことで、ガリレオがそれを発見する5年も後のことのようです。ガリレオがこの発見をした時期についてはいろいろありますが、いずれにしてもシャンデリアのお話は作り話のようです。伝記作家は、どうも「天才は若いときから天賦(てんぷ)の才能を持っているに違いない」と思い込んでいるようです。

振り子の等時性

ピサの斜塔での落下実験

ピサ大学の教授に就任

25歳のときガリレオはピサ大学の教授に就任します。ピサ大学はガリレオが単位も取らずに退学した大学ですが、当時はこのようなことは珍しくなく、業績と推薦状があれば学位がなくても就任できたようです。ガリレオは顔見知りとなった枢機卿フランチェスコ・デル・モンテの推薦状を取りつけます。では、業績とは何だったのでしょうか。ガリレオは学生のとき医学部でした。当時の医学部は占星術が必須でした。体の各部位には1年の時期(つまり星座)が割り当てられており、手術の日取り(そのころの手術は瀉血(しゃけつ))は占星術で決められていました。当時、大学における数学とは占星術(天文学)が主で、占星術には古代ギリシアの幾何学、特にプトレマイオスの球面幾何学の知識が必要でした。おそらくガリレオの占星術はすでに(ちまた)で有名だったと思われます。医学部では、占星術が必須だったので、ガリレオは占星術の専門教授として雇われたのです。

医学の教授は高給でしたが、数学教授の給料はとても安く、ガリレオは学生を相手に占星術を行っていました。1回占うと12スクードで、5回で60スクードになり、この額は教師としての給料と同じだったそうです。

ちょうどそのころ父親が亡くなります。当時の父親は一家の全権を握っていましたが、同時に責任も負っていました。ガリレオは妹の結婚のための持参金を用意しなければならないはめに陥ります。しかしその費用は用意できず生活はますます窮乏(きゅうぼう)していきます。

ピサの斜塔での落下実験

このころの有名なエピソードに、「ピサの斜塔」のお話があります。ガリレオは、当時の学問の権威である自然哲学の教授たちに果敢に立ち向かっていました。当時の自然哲学の教授たちは古代ギリシアの哲学者アリストテレスの自然学をなんの疑いもなく信奉していました。その自然学では、「ものの落下する速さは、重いものほど速い」というものでした。ピサの斜塔は現在でもイタリアの名所の一つで、建設当時から傾き始め、当時すでに200年の月日がたっていましたが、ガリレオの時代では角度17度の傾きの状態で安定していました。ここで「落下の実験」を行うことは、ガリレオ自身の宣伝だけでなく、ピサの町の宣伝のためにも格好の場所でした。

大衆の見守る中、ガリレオはピサの塔の最上階から、鉄製の球と木製の球を同時に落とします。球が同時に地面に着くと、かたずを飲んで見守っていた観衆は大喝采を送り、自然哲学者たちは苦虫(にがむし)をかみつぶしたような顔をしていたそうです。この記述はガリレオの著作にはありません。最も古い出典は、ガリレオの弟子のヴィヴィアーニの『ガリレオ伝記』のようです。

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“近代科学の父”ガリレオ

パドヴァ大学の教授に就任

ピサ大学での受けはよくなく、ピサ大学はガリレオとの契約を更新しませんでした。ガリレオはまた就職先を探さなくてはなりません。ガリレオは、パドヴァ大学、ボローニャ大学、フィレンツェ大学と、就職先を探します。やっとのことでパドヴァ大学数学教授の口が見つかりました。1592年28歳のときです。年俸はピザ大学の3倍(180スクード)となりましたが、相変わらず金銭面の苦労は絶えなかったようです。

“科学の時代”と占星術

本格的な科学の時代が始まるのは、ガリレオやニュートンの時代から100年以上経ってからのことです。それまでは占星術は立派な学問で、教養のある人たちでも占星術が書かれた暦書を読んでいました。(『暦の起源』第12回 中世ヨーロッパの暦 : アルマナックの普及 参照)

科学の時代が始まると、占星術や錬金術は科学などではなくなり、学問から切り離されていきます。しかし科学の時代が始まってもまだ大衆の中に信じる人が多く、“近代科学の父”とも呼ばれるガリレオが占星術の大家だったという記述は教育的にもよくないし、“偉人”という名にも傷がつくと考えたのでしょう。占星術という語は伝記ではタブー視されていきます。伝記の中だけから消えるのはやむを得ませんが、一般書の中たとえば、『国定版ガリレオ・ガリレイ全集』全20巻(1890年)の中のガリレオ本人の手による図表の中から占星術のホロスコープが巧妙に削除されているのです。現在ではむしろ「占星術は非科学的だ」とことさら強調することこそ歴史の正しい記述とはいえないように思われます。

関連記事以下の記事で詳しく解説しています。

第12回 中世ヨーロッパの暦 : アルマナックの普及

ガリレオとバトンタッチするように誕生したニュートンのお話はこちらから▼

関連記事以下の記事で詳しく解説しています。

最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.1]:科学革命の旗手

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