ガリレオ裁判

ガリレオ裁判の真相[vol.2] 天体の観測

近代自然科学の創始者の一人として数々の偉業を残したガリレオ・ガリレイ。彼がコペルニクスが唱える地動説を支持し、この説がキリスト教の教理に反しているということで異端裁判にかけられ有罪となった話は有名です。ガリレオ裁判の真相を探るべく、ガリレオに関する伝説を時代背景を踏まえ様々な角度から検証します。今回はガリレオの業績の一つである望遠鏡の作成と天体観測に焦点を当てます。

天体望遠鏡の製作

パドヴァ大学での研究生活

ガリレオは28歳のとき、ヴェネチア近郊のパドヴァ大学教授に就きます。当時の就職は、業績よりも大物のコネ(くちきき)がものを言ったようです。ガリレオは当時の階層社会を這い上がる(すべ)をとてもよく心得ていたようで、ピサ大学のときは貴族のデル・モンテの助力を取りつけましたが、こんどはバドヴァの権力者ジャンヴィンチェンジオ・ピネリの支援を受け、ヴェネチアの評議会の承認を得たのでした。学者としての能力もさることながら、やはり占星術の知名度がものをいい、権力者たちに取り入ることがうまかったからでしょう。

バドヴァは、当時ヴェネチア共和国に属し、ピサに比べ学問が格段に進んでいました。ガリレオはこの地で多くの支援者を獲得し、天文学や力学の多くの業績を残します。マリナ・ガンバという愛人も作り、2人の娘と、1人の息子を授かります。なぜ正式の妻としなかったのかは不明ですが、晩年の手記で、ここで過ごした18年間が最も充実していて、実りの多い研究生活を送ったと記しています。

望遠鏡の改良

ガリレオの人生で大転機となったのはやはり天体望遠鏡の作成でしょう。ガリレオ45歳のときです。オランダの眼鏡職人が、レンズを2つ一直線にそろえて物を見ると、ものが近くに見えることを発見します。このうわさは広まり、ガリレオは友人からこのことを知ります。しばらくののち、ヴェネチア総督の所に、外国の商人が望遠鏡の売り込みに来ます。望遠鏡は相当高価だったようで、ヴェネチア政府は購入すべきかどうか苦慮し、パドヴァ大学の天文学教授になっていたガリレイに相談を持ちかけます。ガリレオはしばらく購入を待つように進言し、自ら製作に乗り出します。有能なレンズ職人を雇いますが、ガリレオの他の研究者と違うところは、自ら積極的に制作にかかわったことです。原理は簡単でレンズの組み合わせだけです。ガリレオは光学の理論を持っていたわけではありませんが、技術者としての能力がありました。レンズの研磨機を製作し、来る日も来る日もレンズを研磨します。最初は倍率が3倍ほどであったのが、9倍になり、とうとう20倍もの望遠鏡が完成します。

ガリレオ式望遠鏡

対物レンズに凸レンズを、接眼レンズに凹レンズを用いた望遠鏡をガリレオ式(あるいはオランダ式)と呼んでいます。ガリレオはケプラー に望遠鏡を送っているようです。ケプラーはこれを改良し、対物レンズ、接眼レンズ共に凸レンズを用いたものを製作しました。ケプラーは光学理論を有していました。今日の天体望遠鏡はケプラー式で、ガリレオ式の狭視野で低倍率という欠点が克服されています。

ガリレオ式望遠鏡

望遠鏡を作成した後のガリレオの行動は、彼の世渡りのうまさを表しています。彼はヴェネチアの有力者たちを呼び集め、サンマルコ広場に建つ鐘楼(しょうろう)に昇ります。そこからは港と海を一望に収め、望遠鏡でながめると地平線の彼方に、昨日出航した船がまるでたった今出航したかのように見えたのです。時は大航海時代、ヴェネチアは地中海貿易で栄えた国です。商人たちにとっては何物にも代えがたい代物で、誰もが望遠鏡を熱望しました。しかしガリレオは金銭よりももっと良い方法があることを知っていました。(うやうや)しい儀式で、ヴェネチア総督ニッコロ・コンタリーニに倍率8倍の望遠鏡を進呈したのです。ガリレオは、給料は倍になり終身教授の職に就くことができました。

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初の天体観測:望遠鏡を空に向けたガリレオ

月の観測、木星の観測

しかし、ガリレオを世界一の有名人に押し上げたのは、彼が望遠鏡を夜空に向けたときでした。ガリレオはまず月に望遠鏡を向けます。月は聖書で述べられているようなすべすべの球体ではなく、凸凹としています。長く観察していると、斜めからの太陽光で影ができます。これは山に違いない。「おわん」のようにくぼんだ所は“クレーター”と名付けよう。 星々に目を向けると、銀河は天球を流れる川ではなく、裸眼では見えない星々の集まりです。なかでも驚いたのは木星の近くの3つの星です。最初ガリレオは、これらの星は恒星だと思いました。何日も観察しているうちに、その一つが消えてしまったのです。さらに観察していると、消えた星は再び現れ、3つの星の位置がガラリと変わっています。さらに観察していると、それまで3つだと思っていた星が4つに増えています。これらの星は木星の周りを回っているに違いない、とガリレオは考えました。もしそうなら、地球も月を従え、太陽のまわりを回っていたとしてもおかしくはない、とガリレオは推測します。アリストテレスの宇宙観によると、天上界で変化するものは惑星だけのはずです。これは驚くべき発見でした。

『星界の報告』の出版

ガリレオはこれらを発見すると、急いで『星界の報告』という小冊子にまとめ1610年3月には出版にこぎつけました。刷り上がるとすぐさま、ガリレオはヨーロッパ中の一流学者や天文学者に送ります。多数の言語に翻訳され、なんと5年後には中国語にまで翻訳されました。この著作は世界中を驚愕させ、人々の宇宙の見方を一変させます。ガリレオは、発明や発見の学者としての能力はもちろんのこと、文筆家としての能力も優れており、詩人であったとさえ言われています。

それまでほとんど無名だった一教授が、一夜にして天界の扉を開いたのです。ガリレオの名はヨーロッパ中に知れ渡ります。野心家であるガリレオは、このチャンスを(のが)すはずはありません。名誉と富が手に入るとガリレオは幼児期をすごしたフィレンツェに戻りたいと思いはじめます。そこでフィレンツェの支配者トスカーナ大公コジモ2世(コジモ・デ・メディチ)に『星界の報告』と作成した望遠鏡を進呈し、臆面もなく「殿下の宮殿の一員になりたいものです」とほのめかします。ものごとがうまく運ぶようにと、話題の的となっていた木星の衛星に「メディチの星」と名付け、メディチ家の名を天上界に刻みます。さらに専門の占星術と持ち前の詩的文才を用い、木星の占星術における意味(木星はローマ神話の主神ユピテル、ギリシア神話のゼウスで、占星術で最も重要な星)を解説し、メディチ家がいかに天界に守られているかを華麗な詩でもって謳いあげています。

思惑通りに事が運び、フィレンツェから驚くような知らせが届きます。給料は裁判官の最高額に等しい額、トスカーナ大公付きの「数学者兼哲学者」という肩書です。さらに喜ばしいことに、ピサ大学の主席数学者に任じられたにもかかわらず、任務には教育の義務が含まれていません。羨望とねたみと怒りを買いつつ、ガリレオはパドヴァを後にし、フィレンツェに居を移します。

フィレンツェでの生活

フィレンツェでも、多くの貴族の友人ができます。なかでもフィリッポ・サルヴィアティは数学に興味を持っていて、ガリレオは学生たちを連れ、定期的に豪華なサルヴィアティの別邸に訪れています。社交的で機転の利くガリレオは、これで満足してはいませんでした。当時最も権力を有しヨーロッパのカトリック教に君臨していたのはローマ教皇でした。そこでガリレオは大公に、「ローマを公式訪問し、自らの望遠鏡と天文学上の発見を披露したい」と申し(で)します。現在の皆さんは当時の身分制度が実際にどんなものだったのかは、書物による知識以外にないと思いますが、当時のローマ教皇はパウルス5世といい、専制的な権力を持ち、一般人などお目見えすることなどかなわぬまさに“雲の上の人”でした。

1611年、ガリレオはローマを訪れ、教皇に謁見(えっけん)します。教皇をはじめ教会の面々の前で、ユーモアを交えながら自信たっぷりで講演すると、皆は感嘆の声を上げ、ガリレオは教皇から祝福と支援を(たまわ)ることができました。

講演の後、イエズス会のベラルミーノ枢機卿への友好的な内謁(ないえつ)を許されます。ベラルミーノは異端審査を担当する神学の学者で、敵対するプロテスタントの教義にも深い知識を持っており、多くの著作を残しています。ジョルダーノ・ブルーノの処刑を許可した人物でもあります。このあとも登場しますから覚えておいてください。

山猫アカデミア

ローマ滞在中にガリレオは新たな後援者を見つけます。「山猫アカデミア」と呼ばれる秘密結社で、「真の知識を求め、自然の研究に身を捧げる自然哲学者」を標榜する会員たちです。この結社の創設者で会長はフェデリコ・チェージ王子と呼ばれる人で、ガリレオはチェージが主宰する豪華な晩餐会に主賓として招待され、山猫の一員となりました。「山猫アカデミア」は、バルベリーニ枢機卿という強力な後援者がいました。バルベリーニ枢機卿は 1623年に教皇ウルバヌス8世となります。この人もこのあと登場します。

中世ヨーロッパの教育

算術学校の広がり

イタリアはルネサンス発祥の地です。地中海交易による巨額の収益とオリエントの文化との接触により、13世紀末から芸術と科学がヨーロッパでいち早く開花した地域です。現代私たちが使っている算用数字(アラビア数字)とそれを用いた10進数がここで初めて使われるようになります。15世紀初めごろからイタリア各地で“算術学校”が設立され、次第にヨーロッパ各地に広がっていきます。しかし、算術学校で教わる数学は商人のための“技芸”として(さげす)まれ、大学では教えられていませんでした。大学で教えられてきた数学は、ユークリッドの『原論』のほんの最初の一部とプトレマイオスの占星術だけだったのです。学問の世界でも、高尚なものから低級なものまでの階梯(かいてい)があったのです。中世のヨーロッパでは、教育は修道院付属学校と聖堂付属学校だけが引き受けていたのですが、このころまでにだんだん俗化していきました。裕福な商人が現われ子弟を算術学校や大学に行かせるようになります。貴族の中にも子弟を算術学校へ通わせるものも出てきます。子供たちの約 10%が算術学校へ行き、算術学校を終えた後その中の一部が大学に行きます。

ガリレオの教会の関係

中世までは学問の世界はすべて教会が取り仕切っていたのですが、こういった状況の変化にローマカトリック教会も危機感をつのらせ、教育と学問的研鑽を最重要課題としていました。司祭の中には、神学はもちろんのこと、アリストテレス自然学、天文学、数学の権威であると自負するものが多数いたと思われます。このようなことから、ガリレオと教会側の学者との対立が始まります。

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