第12回 中世ヨーロッパの暦 : アルマナックの普及
12世紀から16世紀にかけてヨーロッパは大きく変化します。この時代は、知的離陸の時代、ルネサンス(文芸復興)などと呼ばれることがあります。しかし数学を含む科学技術の進歩はとても緩やかで、この時期は来たるべき科学革命の時代の準備期間です。ここでは文化の発展と暦に着目し、アルマナック(暦書)がどのように広まっていったのか、人々の時間に対する認識はどのように変化していったのかを見てみましょう。
ページ目次
ルネサンスと呼ばれる時代
閉ざされた世界からの解放
12世紀までは地中海航路はイスラーム勢力に独占されていました。12世紀から十字軍の遠征が始まり、これによって地中海貿易が盛んとなり、イタリアに繁栄をもたらすことになります。十字軍がオリエントからの文化の伝達に好ましい影響を与えたかどうかについては意見が分かれています。文化や学問の伝達経路は十字軍によって破壊されたが、西洋ラテン世界における学問の復活は十字軍の行動をものともせず生まれ発展した、と考える人も多いようです。とにかくヨーロッパの人たちはオリエントの高い文化にふれ強い影響を受けます。長いあいだイベリア半島(スペイン)はイスラーム勢力下にあり、ここではオリエント文化の翻訳活動が始まっていました。ヨーロッパの人たちは、中世のとざされた世界から解放され、イスラーム世界だけでなく広くアジア諸国まで訪れる人びとが現れます。マルコポーロが活躍したのもこの時代です。
ルネサンスはなぜ興ったのか
1453年、東ローマ(ビザンティン帝国)は拡大を続けるオスマン帝国に敗れます。このとき時、多くの学者がイタリアに逃れてきました。これがイタリアでルネサンスが興った原因の一つであることは間違いがありません。イタリアが文化に目覚めたのは、さかんに行われるようになった国際貿易を通じオリエントから進んだ文化が入ってきたからです。その中には、古代ギリシアの哲学や文学、メソポタミアの天文学や数学が入っていました。それらは、当時オリエントの国際語であったアラビア語に翻訳されていましたが、それらをラテン語に翻訳しなおしたのです。活版印刷が普及し、ラテン語や俗語の刊行物も増加し、それにともない人びとの学習意欲も増加します。
オスマン帝国とオリエントの天文学
当時ドイツには神聖ローマ帝国という国が存在していました。しかし、オスマン帝国はこの神聖ローマ帝国の正当性に疑義を唱え、自分たちこそローマ帝国の正当な継承者だと主張していました。オスマン帝国の住民の大多数は以前のまま、ローマ人と称していた人びとで、古代ギリシア人の末裔です。オスマン帝国のスレイマン1世は宗教的にも寛容で、それまでの文化や学芸を手厚く保護しました。古代ギリシアの哲学や、オリエントの数学、天文学(占星術)は途切れることなくオスマン帝国に温存されたのです。オスマン帝国側から見れば、当時のヨーロッパはまだ“発展途上国”にすぎなかったのです。
文化の伝播
1500年ごろ、ヨーロッパの中心は、人口においても経済においても文化においてもイタリア半島にありました。当時のイタリア半島は、交易都市、共和国、公国といった小国家がモザイクのように入り組んで互いに争ってしていました。イタリア商人たちは地中海交易によって多くの富と知識を持ち帰り、ルネサンスが花開きます。その後、文化の波はしだいに北方へ伝播していきます。ヨーロッパにとって近世は変化し成長する時代でした。かつての貧しく野蛮で荒々しかったヨーロッパは、政治的で商業的なヨーロッパに変身します。新発見や新技術が次々に生まれ、人文主義を唱える知識人たちは図書館にこもり、海外からもたらされた古文書を読みあさります。やがて科学革命が起こり、19世紀には世界の覇者として君臨することになります。
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文化の発展と日付の概念
農民の生活と暦
12世紀までは住民のほとんどが農民でした。農村における日々の生活は日の出とともに始まり日の入りで終わり、暦などは必要ありませんでした。お祭りなどの典礼は、日曜日ごとに教会の説教壇に立った司祭から口頭で知らされます。日付には数字や記号が割り当てられておらず、聖人の名前が割り当てられていました。ほとんどの人は読み書きができませんから、月も年も意識の上にありません。自分がいま何歳なのか知っている人はほとんどいませんでした。
産業が発達し、都市が拡大し、ヨーロッパの各地にイタリアから文化の波が押し寄せると、教養のある人が増えてきます。14世紀にもなると、12ヵ月の月の名をそらでいえる人が出てきます。月名は、やがて学校で教えられるようになり、学生は数え唄や手を使って覚えるようになります。現代では年月日による日付は、商売など社会活動において欠かすことができません。しかし、正確な日付の概念が社会に定着するにはそれから2百年もかかり、商業取引などの文書において日付が欠かすことのできない要素となったのは16世紀の終わりごろです。
占星術は自然哲学の一つだった
人文学や科学が大きな波となって広まったのは、活版印刷と紙が安価に手に入るようになったからです。オリエントから伝わり、一般大衆に最も大きな影響を与えたのは占星術です。現在では占星術は科学などではなく学問ですらありませんが、当時占星術は自然哲学の一分野で、天文学や数学と同義語でした。キリスト教は占星術を多神教として敵視していたのですが、オリエントから新しい学問として入ってきて、ヨーロッパ全土に流行するようになると無視できなくなり、とうとう積極的に取り込むようになります。医者は占星術を用いて手術の日を決めたり病気の判断をしたりしました。占星術を理解するには天文学の知識が必要で、天文学者は未来を予測できる人として尊敬を集めていました。教皇も国王や領主たちも専属の天文学者をかかえるようになります。
アルマナック:暦書の流行
アルマナック(暦書)とは
16世紀になると占星術が書かれた暦書(アルマナック)が流行します。暦書は現在のカレンダーのようなものではなく、占いが祭日とともに順に書かれた本でした(日本でも江戸時代には伊勢神宮から同様の本が出版され全国で読まれています)。月の名前は擬人化され、人の一生の各時期(幼年期、子供時代、青春時代、…)に割り当てられていて覚えやすくなっていました。天文学者や医者は、オリエントから伝わる占星術を学び、暦書を書き始めます。教養のある人は未来を知ろうと買い求め、暦書が広く行き渡ります。
日付の概念の変化
16世紀には、ローマ数字に代わって現在私たちが使っている算用数字(ヨーロッパの人たちはアラビア数字と呼んでいました)が少しずつ浸透してきます。日付に番号が割り当てられると、“日付”の概念が変わります。もはや“日付”は飛び飛びの“聖人の日”の集合ではなく、一連の日々の列と認識されるようになります。つまり、日付は1年という時の流れの中の1点を示す座標と見なされるようになったのです。数値が割り当てられ、年・月・日の位置が定まると、時の流れの中にいる自分の位置を認識するようになります。
印刷技術の発達
印刷技術の発達は暦書の流行を促します。ラテン語だけでなく俗語の刊行物も広まります。16世紀は人口が増加し、発展と好況の世紀です。リテラシ(読み書き能力)は聖職者だけでなく裕福な商人の間にも広がります。暦書によって人々はしだいに暦に慣れていき、もはや暦は教会の専有物ではなくなろうとしていました。このような教養と財力のある市民を教会側も世俗領主も無視できなくなります。教会の行事にカーニバルや季節の祭りが取り入れられ、カーニバルには貴族も司祭も民衆に混じり参加し、民衆のエネルギーに取り入ろうとします。
歴史の記録
人々が年月日を意識するようになると“歴史”が認識されるようになります。1550年、ドイツの暦に歴史が登場します。教養人のための暦で、歴史的事件が起きた月日と同じ月日に、その事件の簡単なあらましやエピソードが書かれていました。これ以降、キリスト教の各宗派もこれを取り入れた暦書をつくり、激しい宗教宣伝合戦へと激化していきます。
このころ、建設の途次にあった近代国家が支配力を強化するのに用いたのが暦です。スペイン、デンマーク、スイス、オランダで、国王たちは神聖ローマ帝国にならって、新年を1月1日に始めるよう国全体に強制しました。もはや“時”はローマ教皇の専有物ではなくなろうとしていました。
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「時間」の大衆化
星座と時間
暦に関連して時間についても述べておきましょう。16世紀は大航海時代で、勇敢な冒険商人たちは荒波を乗り越え大航海へとのりだしていきました。当時用いていた地図は、古代ギリシア・ローマ時代とたいして変わらないもので、緯度は正確なのですが経度は不正確でした。緯度は星を計測すれば正確に分かります。しかし経度を測るすべは分かっていませんでした。太古の昔、人びとは星を観察して時間を測っていて、経度が違うと時刻も異なることに気がついていました。逆に見れば、星座の位置とその星座の出ている正確な時刻さえ分かれば、その土地の経度が分かるはずです。当時、経度が正確にわからないせいで、たびたび海難事故が発生しました。そこで、英国の国王は時計の開発に莫大な償金を掛けたのです。そのおかげで正確な時計が完成することになりました。
「時間」の認識の変化
中世ヨーロッパの農村では、人びとは時間をどのように認識していたのでしょうか。教会では聖職者たちは毎日決まった時間に“お勤め”があり、決まった時間に鐘を鳴らします。人びとはその鐘の音を聞いて時を知りました。しかし、時間を数と結びつけることはしませんでした。ローマ数字は一つの文字が複数の記号から成る複合文字なので、ものを数えるための個数を表す数としては直感的に分かりやすかったのですが、時系列の位置を表す数として用いられてはいませんでした。
13世紀の末にイタリアに大時計が出現し、14世紀には全ヨーロッパの都市に広がります。14世紀の末まで教会の時計には文字盤がついておらず、時計は時を告げるだけの機能でした。人びとが1日を24時間と認識するようになったのは 14世紀頃からだとされています。正確な機械時計が作られ、正確な世界地図が作られるようになると、人びとは時間や季節が、測り方によらない絶対的なものと認識するようになります。
15世紀になると、ヨーロッパの人々は“時間”が長さのように測れるものだと認識するようになります。時間を表す o’clock は of the clock の短縮形で、「時計によると」という意味で、時計を持っていることをちょっと自慢した表現であったようです。
絶対的な尺度しての「時間」
時間が長さなどと同様絶対的な尺度として、宇宙などの自然現象の解明に数学的に扱われるようになったのは、ガリレオ※やニュートンなどによる“科学革命”からのことです。ニュートン※の有名な『プリンキピア』では時間を次のように扱っています「絶対的かつ数学的な時間は、それ自身の本性において、外界の事物とは何の関係もなく、一様に流れる」。
オリエントでは、時間は占星術のためだけのものでしたが、ヨーロッパでは近世になると時間は航海術などの実用的な道具として、天文現象のための理論的基盤として用いられるようになります。
科学革命の立役者の一人ニュートンのお話はこちら▼
最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.1]:科学革命の旗手
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「時の支配権」のゆくえ
12世紀までは、時を知り暦を語ることができたのは一握りの聖職者だけでした。これによって教会は社会活動を思いのままに操ることができたのです。しかし、暦書が普及し日付の概念が浸透すると、教養をつけた信者のなかには暦の中に自分を位置づけることができるような人がでてきて、時を自分のものにし始めます。また、教会の大時計に文字盤がつき、機械仕掛けで時間を告げるようになると、時間が教会とは無関係に流れていることに人びとは気がつき始めます。教会の権威を取り戻すためにはもう一度「時の支配権」をローマ教皇の手に取り戻さなければなりません。次回のお話で、ローマ教皇がどのような手を打ったか述べましょう。