西ローマ帝国は滅びましたが、キリスト教は生き延びました。生き延びるどころか、ヨーロッパ全土に勢力を伸ばしていきます。そのとき強力な手段となったのが暦です。中世ヨーロッパで用いられていた暦は太陽暦(ユリウス暦)ですが、太陽暦は月の満ち欠けは反映していません。しかしキリスト教における大切な復活祭は満月の日でなければならないと定められていました。月の満ち欠けを反映していない太陽暦で、どのようにして満月の日(復活祭)を決定したのでしょうか。また、〔7.ギリシアの暦〕で古典期のギリシアではメトン周期は用いられなかったことを見ました。ではどうして「メトン周期」という名が歴史上長く伝えられてきたのでしょうか。今回は中世ヨーロッパで行われてきた暦の編纂について調べてみましょう。
中世ヨーロッパのキリスト教
暗黒時代
ローマ帝国は、395年に東西に分裂し、西ローマ帝国はわずか100年後、479年に滅びます。しかし東ローマ帝国はオリエントの地で、その後約千年もの長きにわたり継続し、1453年オスマントルコに滅ぼされるまで続きます。ローマ帝国の時代からヨーロッパはオリエントに比べ後進国であり、人口もわずかで耕地も少なく貧しかったようです。5世紀から15世紀までを中世、特に10世紀までを暗黒時代といい、西ヨーロッパ全土は暗闇の中に沈んでいました。さまざまな異民族が侵入してきては略奪され、また民族間の紛争も絶えませんでした。
そもそも土地は水気の多い固い粘土層で耕地に変えるには多くの努力と農機具の発達を待たなければなりませんでした。土地のほとんどは深い森林でおおわれていて、その中を、遠く離れた村落や町を結ぶ街道が通っていました。一度迷い込んだら抜け出せなくなる巨大な森林は、野盗や魔物がひそむ恐怖の場所でした。ローマ帝国時代の都市や教会も残っていましたが、数は少なかったようです。ローマ帝国時代の遺跡の多くは、地中海沿岸地方とオリエントに集中しています。
民衆へと広められたキリスト教
中世の初期、キリスト教は王家だけに限られ、ほとんどの民衆はまだ入信していませんでした。ローマ・カトリック教会をはじめとするキリスト教会はヨーロッパの各地で布教に努め、勢力を伸ばします。
略奪戦争や旱魃などの自然災害、それによって引き起こされる飢餓などは克服しがたい恐怖でした。キリスト教の司祭(キリスト教の身分の高い僧侶)たちは、「これは人類の祖アダムとイブが神に背いた罪のためで、その子孫である我々は生まれながらにしてその罪(原罪)を負っているのだ、この原罪から逃れるにはキリスト教の執り成しが必要だ」と説きます。さらに「地上における生活はいかに苦しくとも、天空には天使と善良な人々が住まう天国の圏がある。キリスト教に入信し戒律を守れば、天国における平穏な未来が待っている」と約束してくれます。
領主は、民衆を支配するのにキリスト教を利用しました。また教会も、安全が確保され、土地の寄進を受けるなどの利益が得られます。ヨーロッパは多くの民族が混在していて、支配者が異民族であることが普通でした。封建時代の社会的格差、身分制度、過酷な租税などを維持し、支配を正当化するのにキリスト教が利用されたのです。
古代における祭事の意味
現在の私たちにとって“お祭り”は単なる娯楽ですが、ストレスの多い古代社会にとって、生き抜くための大切な祭事の一つでした。キリスト教の祭事は、ヨーロッパで古くから続く祭事に結び付けられました。復活祭は英語でイースター (Easter) といいますが、この言葉のもともとの意味は春の女神(夜明けの女神)を意味するチュートン語に由来していて、本来はヨーロッパの各民族の間にあった春の農耕祭でした。
また、12月25日のクリスマスも、もともとはヨーロッパの冬至祭でした。また夏至のお祭りは聖ヨハネ祭が割り当てられました。1年の始まりは、地方や国ごとにまちまちでしたが、キリスト教の重要な節目であるクリスマス、受胎告知の日、復活祭が割り当てられました。
異教的神々への信仰を打破するために、その土地で信仰されていた神々をキリスト教の聖人に置き換えます。聖人は殉教者で、その立派な行いは奇跡を起こし、死後もその神聖は残り、その遺品やゆかりの土地には、病気の平癒や悲願成就の霊験がある、とされました。中世はこういった聖人信仰が広まりました。
中世ヨーロッパの暦
時を知るのは聖職者のみだった
ここで、中世の暦を見てみましょう。中世(13世紀まで)のヨーロッパでは、たいていの人は暦などとは無縁の生活をしていました。生活のリズムは太陽による季節の変化、日曜ごとに行われる教会の礼拝、季節のお祭りによって決まります。時を知るのは一握りの聖職者だけでした。暦は毎週日曜日に教会で司祭から口頭で伝えられます。司祭たちは暦の書かれた分厚い暦書をひもとくことによって時を知ることができたのです。
毎年、1月6日は公現祭と呼ばれる日で、司祭みずからが復活祭の日を告げることになっており、これによって民衆に教会の力をまざまざとみせつけることができたのです。このようにして教会は経済活動や社会活動を思うままに操りました。
日付の名前
日本では昔から、年や月や日にちの名前に数字を使っていました。朔日、三日月、十五夜、二十日、三十日などです。ヨーロッパにはローマ数字がありますが、ヨーロッパで年や月や日付が数で表されるようになるのは16世紀になってからのようです。日付のうちいくつかには聖人が割り当てられていて、たとえば「聖ミカエル祭の前日」とか「聖レミギウスの日の次の日」などと聖人の名を使って日付を指定していました。司祭は暦書をめくり、祭りの日や農作業の日を告げます。
復活祭の決定
13世紀までは、ヨーロッパは貧しく、農村の人々は教会に縛られていました。農作業の行事や祭事を行う時期は教会の司祭によって告げられていたのです。「時を支配する」ことは「民衆を支配する」ことにほかなりません。ここで重要な役割を担ったのは暦書の編纂です。なかでも重要なのは復活祭の決定です。〔9.春分点移動とヒッパルコス〕で述べたように、325年のニカイア公会議で復活祭は「春分の日以後の満月以後の最初の日曜日」と決められました。どのように暦書が編纂されたか考えてみましょう。
- 暦書の編纂
- 曜日はどのように決定したか
- 満月の日はどのように決定したか
- 二つの「19」
- メトン周期の正体とは?
- なぜ科学革命は起こったのか
- ローマ帝国崩壊後の文化
- 地方の発展
- 古代オリエントの英知
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