第7回 古代ギリシアの暦:歴史の父ヘロドトスと暦

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

ヨーロッパの歴史は古代ギリシア・ローマ時代に始まる、つまりギリシア・ローマ時代は“ヨーロッパの歴史の古代だ”、というのが現代のヨーロッパの人たちのおおかたの意見だと思います。実際ヨーロッパ文明の基盤となる文芸、美術、彫刻、建築、哲学などの多くのものがギリシア時代に生まれ花開きました。ギリシア文明は広範囲にわたるので、概要についてさえ述べるゆとりはありませんから、ここではギリシアの暦に関することだけに話を限ることにします。まずごく簡単にギリシアを含む東地中海の歴史を見てみましょう。

東地中海の歴史

前1200年のカタストロフ

紀元前13世紀から前12世紀にかけて、東地中海一帯は未曽(みぞ)()の大混乱に陥ります。歴史学者はこれを「前1200年のカタストロフ」と呼んでいます。ギリシア本土もこの混乱に巻き込まれます。交易ネットワークの喪失は経済的沈滞を招き、経済的沈滞は文化的停滞を引き起こします。この政治的•経済的な混乱の時代を「暗黒時代」といいます。

暗黒時代はしばらく続きましたが、この混乱から最初に抜け出したのが東地中海の沿岸に位置するフェニキアの諸都市でした。東地中海の沿岸地方をレヴァントといいます。この地域は最初に農耕が始まった場所でもあり古くから村落や都市国家ができていました(農耕の始まりに関するお話はこちら ▶︎ Web連載『数の発明』8.農業革命しかし南には大国のエジプトがあり、北にはメソポタミアの大国がひしめいていました。レヴァントは長い間これら大国の支配を受けてきましたが、暗黒時代の混乱でこの地域に政治的な空白ができたのです。

フェニキア地図

地中海に乗り出したフェニキア人

これを好機と、フェニキア人たちは地中海に乗り出します。その後の地中海はフェニキア人の独壇場でした。紀元前9世紀後半にはキプロス島に、のちに中心的な役割を果たすことになる交易都市を建設し、そこに巨大な神殿を作っています。さらにフェニキア人は地中海の西に進路を定め、紀元前8世紀には西地中海のサルディニア島やスペインにまで進出していきます。その途中に建設したのが、のちに西方の最も有力な交易拠点となるカルタゴでした。

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暗黒時代の終焉

ギリシア人の進出

紀元前8世紀になると、ギリシア本土(バルカン半島南部)も暗黒時代の混乱が落ち着いてきます。ギリシア本土は山がちで、農耕に適した耕作地が少なく、人口が増えると生活が困窮するようになり、植民地を探しに海外に出かけなければなりませんでした。勇敢で冒険好きのギリシア人は、エーゲ海をわが中庭とすると、地中海を西へと乗り出していきました。フェニキア人たちは先住民との争いを避け誰も住んでいない空白地帯に植民市を築きましたが、勇敢で好戦的なギリシア人は先住民とのいさかいを恐れることなく、現在のアドリア海沿岸、南イタリア、シチリア島、フランス南岸、スペイン東岸まで進出し、植民市を築きます。

ヘロドトスの記述によると、商船は丸型の帆船ではなく、商人であり戦士でもある漕ぎ手たちが漕ぐ「五十櫂船」でした。植民は多くの困難を伴い、また原住民との戦いも絶えませんでしたが、収益も多く、ギリシア人たちはしだいに富を蓄積していきます。しかし、そのときはすでに地中海一帯はフェニキア人たちの海であり、フェニキア人はエジプトやメソポタミアと地中海を結ぶ貿易ネットワークを完成していました。ギリシア人たちはその中に割り込むように地中海の各地に植民市を開きます。

イオニア12市

ギリシア人たちはエーゲ海を超え、黒海や東地中海へも進みました。アナトリア(現在のトルコ)の西沿岸部をイオニアといい、気候も温暖で豊かな農耕地にも恵まれていました。ギリシア人たちはこのあたり一帯に植民地を建設しました。これらの植民都市の中で、12の都市が「イオニア12市」として有名です。タレスが生まれたミレトス、ピタゴラスが生まれたサモスは、このイオニア12市の中に入っています。また、本サイトでたびたび登場するヘロドトスもイオニア地方の出身のようです。

古代の人々にとっての「国」とは

現在の私たちは、“国家”というとすぐに国境で区切られた領域をイメージしますが、言葉というものは時代によって変化します。現在私たちが持っている“国”という概念と、古代の人たちの考えていた“国”とはおそらく違っているようです。少なくとも、古代のギリシアとかフェニキアは、現在の私たちが思っているような領域によって定義される 領域国家 ではなかったのです。

ギリシアとは地中海沿岸に点在する都市の集合でした。各都市は政治的、経済的な政府の機能を持っていて、歴史学者はこれを ポリスと呼んでいます。ポリスの総数は千以上ありましたが、一つ一つは人口数千人の小さなものでした。なかでも最大のポリスは、アテナイスパルタですが、面積は日本の“県”程度、アテナイの人口は最大時で50万程度だったようです。数百万の人口を有するオリエントの大国とは比較になりませんでした。

光は東方から

東方化革命

西ヨーロッパには、「光は東方から」という言葉があります。文明にとって最も大切な農耕技術、土器や鉄器の制作技術、神話や宗教などはすべて東方からもたらされたのです。このころのギリシアは、フェニキア人、エジプト人、およびメソポタミア文明の王国の人々から多くのものを学びます。この時代のギリシアの文化的躍進のことを東方化革命といいます。ギリシアはオリエントからただ学んで模倣するだけでなく、その中からギリシア独自のものを生み出し、来るべき洗練された独創性に富んだ古典期の開花の準備をしていました。いいかえればこの時期はギリシア文明の揺籃(ようらん)とも言えます。

美術工芸品に見られる東方化の特徴

東方化の特徴は、土器や彫刻などの美術工芸品の中に顕著にみられます。ライオンとかヒョウなど実在する動物、スフィンクスやゴルゴンなどのような架空のもの、ロータスとかパルメットなどの植物文様はメソポタミアの影響です。大理石などの石材を用いた等身大の人体彫像や石像、あるいは巨大な石造神殿建築などはエジプトの影響だと考えられています。

しかし、慣れ親しんだエーゲ海を出て未知の海域に乗り出したときに出会ったのはフェニキア人たちでした。ギリシア人は経験豊富なフェニキア人から、操船技術や航海術、交易や経済システムのことなど多くを学びました。歴史家ホメロスの記述の中など、いろいろな伝承の中にフェニキア人がギリシアに多くをもたらしたことが示されています。また、ギリシア本土の墳墓の中にもフェニキア人と思われる人の遺物が多数発見されています。

天文学の必須要素「文字と数字」

しかし、なんといっても重要なのは文字数字です。哲学や詩作は文字がなくてもなんとかなるかも知れませんが、天文学数学記号数字がなければ成り立ちません。暦の本質的な機能は“記録”ですから、これも文字が必須です。ギリシア人はフェニキア人から文字と数字を学びます。ですから、暦、天文学、数学などの歴史はこの時代以降を考えれば十分だと思います。

ペルシア戦争の勃発

やがてギリシアの目前にオリエントの大国ペルシアが立ちはだかり、ペルシア戦争が勃発します。しかし、ギリシアは大国ペルシアの侵攻を打ち破ることができたのです。そのうえ、この戦争でアテナイは巨額の富を得ることになるのです。

この戦争で、敵のペルシア側についたポリスも多くありました。そういったポリスから巨額の賠償金が入ります。当時の戦争では捕虜はみな奴隷となります。捕虜の中には身代金と交換できるものもいます。ペルシアは戦争で敗れたとはいえ、実際に戦ったのは属国の兵たちだけで、本国はたいした痛手を蒙ってはいません。ギリシア側は、アテナイを中心とした「デロス同盟」という同盟を結びます。同盟国からの貢納金がアテナイに入ってきます。

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ギリシアの暦

統一された単位や暦はなかった

ギリシアは、多種多様なポリスの集合体でした。度量衡の単位もメソポタミアの影響で60進のものからエジプトの影響で10進数のものなどまで、とても多くの単位が用いられていました。同じ名前の単位でも、たとえば徒競走(ときょうそう)場の長さを表す1スタディオンも、開催されるポリスごとに違っていたことが発掘された競技場から分かっています。暦に関しても、統一された暦はありませんでした。月の名前も、「年始」さえもポリスごとにばらばらでした。1年の始まりも統一されておらず、アテナイの1年は夏から始まりましたが、スパルタは秋からでした。

アテナイの暦

ここではアテナイの暦を見てみましょう。アテナイでは毎月のように神事の祭典を行っていました。そこで用いられるのが供犠(きょうぎ)暦で、その暦は最初の月「ヘカトンバイオン月」に始まり、最後の月「スキロフォリオン月」で終わっています。

また、アテナイは民主制を取っていたので、各部族から代議員を選出し国民議会に送っていました。そこでは、代議員の任期などを決めるのに「プリュタネイオン暦」を用いていました。これらの暦は太陰暦でしたが、いつ閏月を挿入するかを決める規則がなく、行き当たりばったりで、よく混乱をきたしていました。この歴の混乱さは、有名な喜劇作家アリストファネスが紀元前430年ごろに書いた『雲』という作品のなかで、“雲”に次の台詞(せりふ)を述べさせています。

「月の女神は君たちの暦のせいではらわたが煮えくり返っているぞ。祭りの日を待っている神々が、暦のせいでいつまでたってもごちそうにありつけず、お月様に当たり散らして嵐を巻き起こしているのだ」

歴史家ヘロドトス

ヘロドトスとアテナイの関係

を最も必要とするのは歴史の記述です。ギリシアの歴史を書いた歴史家は多くいますが、最初の歴史家はヘロドトスです。ヘロドトスは、メトンがメトン周期を発見したとされる時代に活躍しています。ヘドロトスは『歴史』をアテナイの人々のために書きました。つまりアテナイは“お得意さん”だったのです。ですから、ことさらアテナイの人々の不興(ふきょう)を買うようなことを書くつもりはなかったはずです。ヘロドトスは「アテナイの暦よりエジプトの暦のほうが合理的だ、エジプトの暦は季節の循環が暦と一致して運行するように定められているからだ」と述べています。

アテナイ暦の1月「ヘカトンバイオン月」は、夏至の直後の新月に始まります。しかしヘロドトスは1年を春に始まることにしています。これはメソポタミアの多くの国、特に大国ペルシアに合わせたのだと思います。ペルシアでは毎年春分の日に、大王がペルセポリスの大宮殿で新年を祝うことが知れ渡っていました。ヘロドトスは歴史家として年代を世界標準に合わせる必要があったのでしょう。ヘロドトスが「歴史の父」となるためには年代の処理方法までも編み出さねばならなかったのです。

年の表し方

オリエントでは多くの暦が作られ、楔形文字文書には日時に関する記述があるのですが、その暦が正確にいつの時代かを決定するのは一般にとても難しいようです。通常、年には名前が付けられます。年の名前の付け方を 紀年法といいます。王様が即位した年を起点とし「~王の治世X年」という紀年法を「即位紀元」といいます。また、その年に起きた重大事件とか最も関心のある事柄を年の名とすることもよくありました。

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同じ時代のメソポタミア

アッシリアの標準暦

ギリシアが暗黒時代からぬけだしたころ、メソポタミアにはアッシリアという大国が領土を拡大していました。紀元前729年にはバビロンを征服し、続いてイスラエル王国を滅ぼし、エジプトまで兵を進める勢いです。アッシリアからは多量の楔形文字文書が出土しており、その中には暦に関する記述も多く含まれます。アッシリアは古くから続く国で、すでに紀元前1000年頃には、バビロニア式の月名を用いた「標準暦」を使っていました

エポニュム制・リンム制

また紀年法に関しては、王と政府高官や地方長官たちの名前を、決まった順序で年の名前として使っていました。この紀年法を歴史書のなかには「エポニュム制」と呼んでいるものがあります。奇妙なことにエポニュムはギリシア語で、エポニュウムという名は、この時代よりずっとあとのアテナイの執政官エポニュモスからきています。アテナイは数多くのポリスの中の一つの地方都市にすぎないのですから、エポニュモスが活躍した年を表すのに「エポニュモス年」と呼ぶのは大げさです。ですから、最近の歴史書ではこの紀年法をアッシリア語で「リンム制」と呼んでいます。

オリンピア紀

ギリシアの史家たちが「全ギリシアで通用する統一の暦を作ろう」と言いだしたのは、ギリシアの古典期が終わりヘレニズム期に入った紀元前3世紀になってからのことです。そこで古代オリンピックが最初に開かれたであろうと予想される年を紀元前776年とし、これを元年とする「オリンピア紀」という年号が設定されました。オリンピック競技会が継続して行われたのは紀元前394年までですから、オリンピア紀が設定されたのはオリンピックが行われなくなった後になります。

 結局古代ギリシアは統一国家にはなりませんでした(ギリシアが国家として成立するのは19世紀に入ってからです)。したがって、古代ギリシアにはメトン周期を適用した標準暦は作られなかったとみてよいのではないかと思われます

ではなぜ「メトン周期」という言葉が歴史に長く伝えられたのでしょうか。その謎については連載後半の〔メトン周期の正体〕で述べることにします。

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

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