第5回 ローマの暦:カエサルが導入したユリウス暦

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

グレゴリオ暦の起源

現在私たちが使っている西暦はグレゴリオ暦と呼ばれる暦で、グレゴリオ暦はローマの将軍カエサルが設定したユリウス暦を改訂した暦です。しかし1年を365日とし、4年に1回閏日を挿入するという暦の基本的な枠組みはエジプト暦から取り入れたものでした。エジプト暦は、1ヵ月が全部30日に統一されており、最後に5日の付加日を付け加えるという美しいものでした。しかし現在の暦は 28日、30日、31日の月が不規則に並んでいます。しかも不思議なことは、閏日を挿入するのが年の終わりではなく、2月という中途半端な月です。なぜこのような変則的な暦になったのでしょうか。それにはローマの暦を見てみる必要があります。

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古代ローマの長い歴史

ローマ建国神話:初代王ロムルスの誕生

ローマには有名な建国神話があります。ホメロスの叙事詩イリアスに登場する英雄アエネアス後日談(ごじつだん)です。アエネアスは年老いた父王を背負い炎上するトロイアを脱出し、神々が課した苦難の旅のすえ、やっとのことでイタリアのラティウムにたどり着きます。アエネアスの子がユルスで、名門ユリウス家の始祖となります。ユルスの子が、狼に育てられたという双子ロムルスレムスです。双子は父から王位を奪った叔父王から王位を奪い返し、ティベリス河畔の七丘に小さな都市ローマを建設し、ロムルスが初代の王となります。もちろんこれは神話で史実ではありませんが、考古学では、実際にティベリス河畔の7つの丘に粗末な住居跡が発見されています。

英雄アエネアスは女神ウェヌスの子です。女神ウェヌスは、ビーナスともアフロディーテとも呼ばれ、ギリシア12神の一人ですが、トロイア戦争ではギリシア側ではなく、トロイア側につきます。ギリシア神話に出てくる神々はギリシアの独占物ではなく、オリエント各地で信仰されていたようです。都市アテナイの守護神であるアテナ女神でさえ、敵国トロイアにも神殿があったように描かれています。

エトルリア人とローマ

アエネアスがたどり着いたとされるラティウムにはもともとラテン人が住んでいました。やがてラテン人はローマに吸収され、ラテン語がローマの公用語となります。また、ローマの北には謎の民族エトルリア人が住んでいました。エトルリア人の墓などの遺跡からの出土品にはオリエントの影響が見られることから、エトルリア人はオリエントからの移住民かあるいはオリエントと交流があったと考えられています。ローマはエトルリアから多くを学びます。あるいは支配されていたのかもしれません。ローマの王政は7代続きますが、最後の3代の王はエトルリア人でした。やがてローマ人はエトルリア人を追い出し、ローマの覇権が始まります。しかし、イタリア国内にはまだ多くの民族がいました。

当時のイタリアはまだ未開地でした。南イタリアはマグナ・グラエキア(大ギリシア)と呼ばれ、ギリシアの植民地ができてきますし、シチリアはギリシア人とフェニキア人の島になってきます。北アフリカにはフェニキア人の植民都市カルタゴができてきます。ローマは、イタリア国内を統一するために戦い続けますが、さらにこれら諸外国とも長い戦争を繰り返すことになります。この長い戦闘がローマを強力な戦闘国家に育て上げていきます。

歴史は脚色に満ちている

古代ローマは、紀元前8世紀から1200年続く歴史の中で変化し続けます。歴史は勝者によって書かれ、都合の悪いことは書かれませんし脚色に満ちています。たとえば初期のローマのエトルリア人の王は暴虐であったことのほかは、エトルリア人に関する伝承はほとんど残されていません。歴史から抹殺されてしまったのです。ギリシアがローマに征服されるまで、ギリシア人はローマを未開で野蛮な国だと見くびっていたようです。はじめからローマは“先進国”だったのではないのです。ローマは地中海全域を支配する軍事大国にまで成長しますが、そのときはまだ文化面では“後進国”だったのです。暦は文化を映す鏡です。

ローマの暦

ロムルス暦

ローマの暦の歴史を見ていきましょう。ローマでも、「月の始め」を決めるために西の空を見張る人がいました。ローマ暦で一日(ついたち)を「カレンデ」といいますが、これは“叫ぶ”ということに由来しているようです。ローマ初代の王ロムルスが定めたという暦を「ロムルス暦」といい、ロムルスが建国した紀元前735年から使われていると伝えられています。したがって前735年をローマ紀元元年としています。しかしロムルスは伝説の王ですし、実際にだれがいつ作ったのかは分かっていません。ロムルス暦は、1ヵ月が30日と31日の月、全部で10ヵ月からなり、日数は合計304日です。残りの61日は冬で農作業がありませんから暦はありませんでした。1年の始まりは、現在の3月ごろ、そろそろ農作業を始めなければならなくなったころ、王様のそばに仕える“月の見張り”の助言により王が「今日を元旦にする」と宣言しました。

ヌマ暦

ロムルスのあとを継いだ2代目の王ヌマは、ロムルス暦の不備を補った暦を定めました。これをヌマ暦をといいます。ロムルス暦に2ヶ月を加え1年を12ヵ月としました。31日の月4回、29日の月7回、28日の月1回の計355日です。1ヵ月の日数を29日と31としたのは、「偶数は不吉な数」というローマの風習にしたがったためです。しかし、日数は厳密に定められていたわけでなく、時代や都市によっていろいろあったようです。1年355日は1年としては短すぎるので、季節がずれてきます。季節が大きくずれたら、閏月を挿入して調整しました。どのようなタイミングで閏月を挿入したらよいかという天文学的な知識はまだなかったと思われます。

月の名前の意味

ここでロムルス暦とヌマ暦の月名を挙げておきましょう。ただし古名ではなく英語名とします。また3月、4月などの数字の名前は現代の名前です。数字が月名を表すようになるのはヨーロッパでは19世紀になってからです。

ユリウス暦 月の名前

最後の2つ January と February はヌマ暦で追加された月です。名前の意味を簡単に述べておきましょう。
March は軍神マルスの月を意味し、初期のローマの最高神はマルスでした。どこの国でも同じですが、農作業が始まる春3月は年の始めにふさわしい月ですが、戦闘国家ローマにとって3月は「戦いが始まる月」でもありました。April は古名をアプリリスといい、ウェヌス=アフロディーテ=ビーナス と同一視される女神です。May は古名をマイウスといい成長の女神マイアの月です。June は女神ユノの月。ユノはユピテル(ジュピター)の妻で、結婚の守護神です。現代日本でも6月は結婚の月となっているようです。この後に続く6つの月の古名は、もともとは番号を表していました。これについてはあとで説明します。January の古名はヤヌアリウスで、始まりと終わりの神ヤヌスの月となります。ヤヌス神は頭の前と後ろに顔を持った神で、一つの面は過ぎ去った過去を、一つの面は未来を向いているとされています。February の古名フェブルアリウスは死者の月、贖罪の期間で、年の終わりの月でした。この月だけ28日となっています。

紀元前150年頃に、January と February が年頭に移動します。ローマは軍事大国に成長し、国内に冬至を年の始めとする民族が増えたためかもしれません。2つの月が前に来たため、次の意味が混乱してしまいました。

September(7番目の月⇒9月),
October(8番目の月⇒10月),  
November(9番目の月⇒11月),
December(10番目の月⇒12月)

たとえば octo が “8” を表すことは、8本足のタコが octopus (pus は足の意味)と呼ばれることからも分かります。しかし、これを“混乱している”とみるのは現代人の見方です。この変更は単に冬至の「January を年始とする」と決めただけで、実質的には何も変わっていません。

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ユリウス暦とは?

混乱していたローマの暦

紀元前100年ごろまでに、ローマは地中海を内海とする大帝国になっていました。ローマを野蛮な後進国と見下していたギリシア本土も、徹底して破壊され多くの人が奴隷としてローマに送られました。最後に残ったヘレニズムの大国、豊かなエジプトもとうとうローマに呑みこまれてしまいます。この時活躍したのがローマの将軍ユリウス•カエサル(ジュリアス•シーザー)です。当時のローマは、圧倒的な軍事大国でしたが、文化の面では遅れていました。ローマの文化が発展するのは、巨大な帝国の各地からの租税、特に“ローマの穀倉”と呼ばれたエジプトからの穀類が集まるこれ以降のことです。ローマ各地に残る巨大な石造建築や水道橋は、属州から集まる莫大な富と奴隷があったからのことです。

紀元前47年、本国ローマでは暦が乱れ切っていました。どのようなときに閏月を挿入したらよいかという決まりがなかったためです。収穫祭は夏の季節から外れ、ブドウの摘み取りも秋の季節と合わなくなっていました。カエサルは慌てて2ヵ月の閏年を挿入したのですが、そのため1年が445日となってしまいました。暦学ではこの年を錯乱の年と呼んでいます。

カエサルによるユリウス暦の制定

カエサルはエジプトの天文学者ソシゲネスに命じてローマの暦法を改訂させます。これがユリウス暦で、太陰太陽暦であったローマの暦をエジプト式の太陽暦に変更しました。エジプト暦は1ヵ月がすべて30日だったのを、1ヵ月の日数を 29日、30日、31日と3種類にしました。最も重要な変更は閏年の導入で、4年ごとに閏年としました。(表1.1参照) 平年の2月は29日、閏年の2月は30日です。なぜ2月かというと、上で述べたように古いローマの暦(ヌマ暦)では2月が年の終わりだったからです。月の名など、その他のものは古いローマ暦に従いました。

紀元前45年の1月1日からユリウス暦が始まります。この1月1日を、冬至の後の最初の新月と定めました。ユリウスは皇帝ではありませんでしたが、自分の誕生した7月をユリウス(July)と名付けます

アウグストゥスと8月

ユリウス(カエサル)の養子で、後を継いだオクタヴィアヌスは、紀元前27年にアウグストゥスの称号を得て、実質的にローマの最初の皇帝になります。アウグストゥスは9月生まれでしたが、8月は最初に執政官になった月でもあり、また輝かしい戦績を収めた月でもあったため、8月をアウグストゥス(August)と改めました。ユリウス暦では8月は30日で、偶数は不吉です。そこで2月から1日持ってきて31日とします。すると31日の月が3つ続くので、最終的に表1.1 のように定めました。1ヵ月の日数が 28, 29, 30, 31 と4種類になってしまい、4季も等分できずだいぶ不格好になってしまいましたが、この並びが現在まで続きます。

ユリウス暦

4年に一度のうるう年、その起源は?

「4年に1度閏年を設ける」というのがユリウス暦の“売り”です。ユリウス暦がこの最初のものであるなら、ユリウス暦にそれなりの評価を受ける価値があると思われるのですが、実はそうではなさそうなのです。ユリウスよりはるか前、紀元前238年にプトレマイオス3世が「4年に1度の閏年を置く」という法令を出しています。エジプト人はこの暦を拒んだといいます。前回のお話〔 古代エジプトの暦 〕で述べたように、紀元後139年ローマの属州時代にソティス祭が行われ、これを祝うローマのコインまで発行されています。ソティス祭は古いエジプト暦(民間暦)によるものです。しかし古代では複数の暦を併用していることはよくあります。実際エジプトでは、民間暦のほかに太陰暦も用いられていました。プトレマイオス3世が定めた暦も用いられていた可能性があります。

キリスト教はローマに伝わる前にエジプトやギリシアで発展しました。エジプト教に伝わるキリスト教をコプト教といい、コプト教は現在まで約2000年も続いています。このコプト教の用いている暦が、4年に1回の閏年を含むエジプト暦なのです。この歴がユリウスやのちのローマ皇帝の定めた暦ではないことは、月の名前などから分かります。コプト暦では、1ヵ月が一律30日で、年末に5日の付加日がつき、1年の始めは夏で、トトの月(トト神は書記と数学の神)から始まりまるまさにエジプト暦そのものです。エチオピアにも同様の暦が伝わっています。

いずれにしても、1年=365.25日 という結果は、エジプト人が(エジプト暦で) 1461年もの間、日数を数え 533265日となった結果から得られたものです。ユリウスはそれをむしろ“改悪”したにすぎません。

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

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