第1回 暦の始まり:科学は天文学から始まった

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

数の発達と暦

Web連載『数の発明』では 数の発明数学の進歩 について述べてきました。農耕が始まり経済活動が活発になると、数が発明され数学が進歩し始めた、というのが有力な説です。もうひとつ、文明の重要な要素に(こよみ)があります。発達した社会生活を営むには暦が必須要素であり、暦の作成には天体の観測が必要です。天文学こそ人類にとっての最初の“科学でした。(こよみ)は数の発達に大きな影響を与えています。たとえば、数を12ずつ(たば)ねる12束法は、世界各地で見られますが、これは1年が12ヵ月であることが大きな要因の一つと思われます。また、時間や角度が 60進法なのは、バビロニアの天文観測からではないかと考えられています。人類が制定した制度の中で暦ほど文化に密接したものはなく、暦ほど文化を越えて広範に伝播したものはないだろうとも言われています。農耕と文字と同様、暦も古代オリエント世界の遺産の一つであり、ヨーロッパ世界に、ひいては全世界に大きな影響を及ぼしました。本連載では「暦(こよみ)の歴史」に焦点をあて、詳しく見ていきましょう。

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古代の天体観測

太陽年と恒星年

古代、農耕牧畜が始まる前、狩猟採集時代においても季節の移り変わりを知ることは、生きていくうえでとても重要でした。季節によって採集で出る果実や狩りの対象となる動物は異なりますし、獲物がなくなる冬の前には、保存できる食物を蓄えなければなりません。農耕牧畜が始まると、さらに精密な季節の移り変わりを知る必要が生じます。増えた人口を養うためにはより効率的な計画農業が要求されたからです。人びとは農作物の播種(はしゅ)、育成、収穫の適切な時期が季節と関係していること、季節の移り変わりは太陽の運行と関係していることに気づいていました。

古代の人々が、太陽、月、星々の動きをどのように観察していたのか見ていきましょう。まず、暦に関する天文学の基本事項を復習しておきます。1年の測り方は、太陽年恒星年の2通りの測り方があります。1太陽年は、春分の日から次の春分の日までの時間を意味します。1恒星年は、太陽が黄道上をちょうど1周する時間です。

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1太陽年 = 365.2422日   (1)  
1恒星年 = 365.256363日   (2)

上の(1)と(2)の値は、古代の値ではなく現代の値です。皆さんは1年が約365日と 1/4日であること知っていると思います。おそらく、「4年間観測すればこれぐらいの値なら、古代でも測定できただろう」と思っているのではないでしょうか。しかしこれはとんでもない間違いです。古代の人がどのように1太陽年と1恒星年を計測したか見てみましょう。

太陽年の計測:日の出の位置の観測

夏至から次の夏至までの期間が1太陽年です。夏至は太陽の高度が最も高くなるとき、言いかえれば、影の長さが最も短くなるときです。棒を立て、太陽が真南にきた時の影の長さを測るとしましょう。棒が短いと正確に測れませんし、長いと影がぼけてしまいます。それ以上に問題なのは、毎日の影の長さの変化がとても小さいため、“影の長さが最小になった日”の判定が困難なことです。もう少しまともな方法は、日の出の位置を観測することです。日の出の位置が最も北よりになる日が夏至です。ヨーロッパ各地に分布するストーン・サークルは夏至や冬至を観測するのに用いられていたと考えられています。この方法では、地平線を見渡せる高台と、巨大な装置が必要です。では、この方法でどの程度正確に測れるのでしょうか。日の出の位置の1日当たりの変化はほんのわずかですから、正確に夏至の日を決定するのはとても困難です。また、(1)の数値は整数ではありませんし、古代人は整数しか扱えません。古代人は、毎年夏至から夏至までの日数を数え、何年にもわたって記録を取っていたと思われます。4年間観測して、夏至から4年後の夏至までの日数が、たとえ 365×4+1 = 1461日であったとしても、この数値は誤差を含んでいる可能性があるのです。この方法で、(1) の小数点以下2桁まで得ようとすると、数百年の観測が必要となります

恒星年の計測:シリウスの観測

古代エジプト人やメソポタミア人は、(2) の恒星年も計測していました。ある星が日の出の直前に現れることを旦出(たんしゅつ)といいます。通常、昼間星は見えませんが、十分に明るい星は、日の出の直前に見ることができます。これは天球において、太陽がその星の近くにいることを意味します。古代エジプトでは、シリウスの旦出を観測していました。シリウスの旦出がナイル川の氾濫を知らせるからです。一方バビロニアではフンガ星の旦出を観測していました。フンガ星の旦出が春の訪れ(春分の日)を知らせるからです。

日周運動と年周運動

ここで少し天文学の復習をしておきましょう。星々は天球に貼りついていると考えます。日周運動では、太陽は星々と一緒に1日一回転します。年周運動では、太陽は天球における太陽の道、黄道を1日に約1度、日周運動と反対の方向に、つまり西から東に移動します。ある日、太陽がシリウス星のところにいたとします。シリウス星は太陽の光で見えません。9日経つと、太陽はシリウス星の東9度のところにきます。シリウスの旦出はこのとき生じます。朝、東の地平線下約9度のとき、シリウス星は地平線上に姿を現すのです。

シリウスの旦出と閏年

古代エジプト人は「1年を365日とする暦」を使っていました。この暦では、シリウスの旦出は毎年約 0.25日遅れ、したがって4年で1日遅れます。ある年の1月1日にシリウスの旦出があったとすると、4年後の1月2日、8年後の1月3日がシリウスの旦出の日となります。すると

365年×4 = 1460年

ですから1460年後の1月1日に再びシリウスの旦出が起きるのです。なんと千年以上も後の話です。現在の私たちの暦は4年に1度の閏日を持っています。これは古代エジプト人が千年以上の年月をかけて観測した結果なのです。

フンガ 星の旦出

バビロニアにおいても同様のことが起きていました。暦を始めた最初の頃は、フンガ星の旦出は春分の日を知らせるものでした。しかし次第に春分の日の太陽はフンガ星から離れていきました。これを春分点移動といいます。今度の場合は (1) と (2) の差です。

365.256363 – 365.2422 = 0.014163

1年で 0.14日ですから、千年でたった14日です。こんなわずかな違いにバビロニア人は気が付いていたのでしょうか。メソポタミア文明の終わりの頃には、フンガ星はもはや春分の日を告げる星ではなくなっていました。フンガ星はおひつじ座のα星(もっとも明るい星)です。紀元前から紀元後へと世紀が変わる頃、春分点は「おひつじ座」から「うお座」に変わろうとしていました。この事実はキリスト教の布教に利用された可能性があるのです。さらにヨーロッパ中世のキリスト教では、暦の上でいつが春分の日となるかが重大な問題となっていました。

月の周期

朔望月と恒星月

太陽と並んで重要なのがです。中国では月のことを太陰と呼んでいました。月に関しても次の2つの周期がありました。

1(さく)(ぼう)月= 29.53059日   (3)
1恒星月 = 27.3216615日  (4)

これらの数値も古代に得られた値ではなく現代のものです。1朔望月とは、満月から次の満月までの時間、1恒星月は月が地球のまわりをちょうど一周するのにかかる時間、つまり月が再び天球の同じ星々の位置に戻るまでの時間を表します。古代では、月の「はじめ」は係の者(たいていは天文学者)が毎日月を観察して決めました。満月をすぎると月はだんだん細くなり、やがて見えなくなり、太陽が沈んだ直後に西の空に細い月が現れます。この新しく現れた月を新月と呼び、月の始めとしました。

月の呼び方 :朔月、新月、三日月

ここで用語の説明をしておきます。本連載では、太陽と月が同じ方向にあって見えない月を「(さく)」と呼び、その次の日の細い月を「新月」と呼ぶことにします。上で述べたように古代では、たいてい新月を月の始めとしていたようです。日本や中国でも、もともとは月の始めは新月でした。しかし中国では見えない月、朔月を月の始めとする方式に切り替えました。朔月は太陽と一緒に動くので観測できませんが、おそらく古代中国人は、朔月が「地球-月―太陽と一直線に並んだ状態」という天文学的な直感を持っていて、この方が合理的と考えたのでしょう。朔日を「ついたち」と読みますが、「ついたち」は「月立(つきたち)」、つまり「月の始め」の意味です。皆さんは「朏」という漢字をご存知ですか。「月が出る」と書きますが「みかづき」と読みます。本連載では“新月”は「二日月」です。(さく)(ぼう)とは月の満ち欠けのこと、望月(もちづき)とは満月のことです。月の終わりは晦日(みそか)といいますが、「三十日(みそか)」の意味です。晦日を「つごもり」と読むこともありますが、これは新月を月の始めとしていた頃、月が隠れて見えなくなった「月隠(つごも)り」を意味します。

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太陽暦と太陰暦

月 or 太陽、どちらを基準にするか

暦は、太陽の動きを基準にして定めた太陽暦と、月の動きを基準に定めた太陰暦太陰暦と太陽暦の両方の利点をとりいれた太陰太陽暦とがあります。古代ではたいてい太陰暦でした。現在でもイスラーム教の「ヒジュラ暦」は太陰暦です。太陰暦では1ヵ月の長さを29日と30日とし、29日と30日を交互に繰り返すと、1ヵ月= 29.5日 となり、(3) と比較すると1ヵ月あたり約 0.3日たりません。また、1年を12ヵ月とすると、

(29+30)×6 = 354 (日)

となり、1太陽年より約11日短くなります。したがって、季節が毎年約11日前に進みます。季節が暦に合うように調整したのが、太陰太陽暦です。

エジプトでは古代では珍しく太陽暦を採りました。1ヵ月を30日、1年を12ヵ月としました、すると 30×12=360ですから、1年=365日とすると、5日余分になります。この5日は付加日として、お祭りの休日としました。現在私たちが使っている、1ヵ月が 29日、30日、31日の月が不規則に並んだ暦より、ずっと合理的にできています。エジプト人も古代の農耕民族でしたから、毎日月を見て暮らしていたと思います。このように暦を定めると、もはや1日が新月ではなくなります。しかし、毎月 0.5日分だけ月の形が前に進むのですから、慣れれば不自由ななかったと思います。

古代オリエントではこの3つの方式がすべて出そろっていました。次回からはこれらの暦法でどのような工夫がなされたのかを詳しく見ていきましょう。

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