第20回 「土用の丑の日」の計算:六十干支の数理

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

第19回 序数詞と日本の暦〕では五行ごぎょう十干じっかん十二支じゅうにし六十干支(ろくじっかんし)など古来から日本の暦で使われてきた序数詞について述べました▼

今回は干支における数理について詳しく見てみましょう。

干支における数理

コードを導入した計算

十干(じっかんには数 1, 2, …,10 が、十二支には数 1, 2, …,12 が、六十干支(ろくじっかんし)には数 1, 2, …,60 が割り当てられていますが、計算の都合上これより1だけ小さい数を割り当て、これをコードと呼ぶことにします

六十干支コード表

年齢や暦を数える六十干支(ろくじっかんし)

人の年齢を数えるときも六十干支が用いられました。昔は数え年といって、生まれたときが1歳(甲子)で、あとは正月が来るごとに一つ年を取ります。60歳(癸亥)の次がまたもとに戻って甲子となります。数え年の61歳を、暦が元に戻るという意味で還暦といいます。現在の私たちは、生まれたときから次の誕生日までを0歳としていますから、六十干支ではコードに対応するとみることができます。

六十干支は、暦の年や日を数えるのにも用いられます。年を数えるものを干支紀年法、日を数えるものを干支紀日法といいます。

干支紀年法の計算

六十干支は、西暦の 604年が甲子であることより次で計算できます。

六十干支紀年 = (西暦 – 4) mod 60                                (1)

十干、十二支、六十干支などは、もともとの“数”以外にそれより1だけ小さいコードを考えました。今回の議論だけならコードを導入した利点はあまりありません。しかし、0から始めることによって、いろいろな計算が簡単になるのです。西暦に関しても、0から始まっていないために、紀元前と紀元後をまたいだ計算や、2000年が20世紀で、2001年が21世紀など、混乱を招くことが多いと思います。

六十干支は、次のように十二支と十干を分けて計算することができます。

十二支 = (西暦 – 4) mod 12
十干 = (西暦 – 4) mod 10

では、2023年 の六十干支を計算してみましょう。

(2023 – 4) mod 60 = 39       癸卯(きぼう) = みずのとのう
(2023 – 4) mod 12 =  3       卯(うさぎ)
(2023 – 4) mod 10 =  9       癸

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壬申の乱は西暦何年か?

西暦 x 年とします。壬申のコードは 8 ですから、(1) より

(x – 4) mod 60 = 8

となります。x – 4 を 60 で割った余りが 8 ということは

x – 4 = 60n + 8

となる整数 n が存在することです。これを変形すると

x = 60n + 12

となります。壬申の乱は西暦645年の大化の改新の後です。n=10だと 612年でたりません。したがって n=11 の 672年が壬申の乱となります。

土用の丑の日の計算

六十干支紀日

六十干支紀日 = (グレゴリオ通日+14) mod 60                        (2)

六十干支は暦日を記録するにも用いられます。これはおそらく天体観測などで用いられたとおもいますが、民間でも用いられました。

皆さんは「土用の丑」にウナギを食べる習慣があるのをご存知だと思います。日本では5000年前の縄文時代からウナギを食べていていたようです。夏の土用は夏バテの季節で、この時期にウナギを食べるようになったのは江戸時代からのようです。一説によると、夏脂っこいウナギが売れずに困っているうなぎ屋のために、蘭学者の平賀源内が「土用のウシの日、ウナギを食べると身体によい」というキャッチコピーを考えたといいます。  

2030年の夏の土用の丑の日は何月何日か

計算問題として「2030年の夏の土用の丑の日」を計算してみましょう。夏の土用は立秋の前、18日か19日です。立秋を8月8日とするとその19日前は、7月20日となります。つまり、夏の土用は7月20日から8月8日の間となります。期間が19日ありますから、丑の日は1回か2回あります。まず 2030年1月0日のグレゴリオ通日を計算しましょう。

2029 ÷ 4 = 507.25
[2029/4] = 507, [2029/100] = 20, [2029/400] = 5,
グレゴリオ通日= 2029×365+ 507 – 20 + 5 = 741077

月通日の表を調べると、7月20日の月通日は 181+20=201 となります。したがって、2030年7月20日のグレゴリオ通日は 741077+201 = 741278 となります。この日の六十干支を求めてもいいのですが、必要なのは十二支だけですからこれを計算します。式 (2) を参照。

(741278+14) mod 12 = 4   (辰)

コードが4である十二支は辰(たつ)です。丑はこの9日あととなります。したがって丑の日は7月29日となります。この12日あとは土用を過ぎてしまいますから、2030年の土用の丑の日は、この1日だけとなります。

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干支の計算

西暦から干支を計算する

上で、壬申の乱の干支からそれが西暦何年になるかを計算しました。壬申の乱は千年以上も前のことです。序数詞としての干支(かんし)は、たとえば来年の“干支(えと)”とか自分たちの生まれた年の“干支(えと)”などで、現在も使われています。高校野球で有名な甲子園はなぜこの名が付いたのか知っていますか。この球場が設置されたのは 1924年です。この干支を計算してみましょう。

(1924 – 4) mod 60 = 0,   コード(甲子) =0

で、1924年の六十干支は“甲子”なのです。

このように西暦が分かれば干支は簡単に計算できますし、逆に干支が分かれば西暦が推測できます。60年の間隔は、年代決定において十分な開きで、たいていの場合正しい年代が推測できます。現代では、生まれ年とか重大な出来事の日を六十干支で表すことはありませんが、江戸時代までは普通に行われていました。たとえば織田信長の生まれ年は“戌寅”という記録があり、これから西暦1534年ということが簡単に計算できます。

六十干支の紀年法

日本でこのような表記はいつ頃から始まったのでしょうか。日本における暦の正式な公布は、推古天皇時代の604年のことです。しかしこれ以前にも、いくつかの出土品の中から発見することができます。有名なのは埼玉県行田市にある古墳群の一つ稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣で、そこには「(かのと)()年、七月…獲加多支鹵(わかたける)大王…」と刻印されています。計算してみましょう。

(471 – 4) mod 60 = 47,   コード(辛亥(しんがい)) = 47

ですから、西暦 471年という説が有力ですが、これより 60年後の 531年という説もあります。いずれにせよ、政府が暦を導入する100年も前に、すでに民間では六十干支の紀年法が使われていたのです。ではこの紀年法はいつごろ始まったのでしょうか。中国の天文学を簡単に見てみましょう。

(とし)を数える星:木星

古代の天体観測

バビロニアでは太陽の通り道:黄道を基準に星座を観察しました。これに対し中国では天の赤道を基準としました。というよりは、天の北極(つまり回転軸)を中心とした、と考えたほうがよいでしょう。

古代中国では、天の北極に天帝が鎮座すると考えました。中央が紫微垣(しびえん)で、それを囲んで東宮、南宮、西宮、北宮があります。平面上に天球の図を描くと、星々は天の北極を中心とした円を描きます。天の赤道も北極を中心とした円となりますが、太陽の軌道である黄道は、中心が北極から外れたところにある円となります。中心を北極とするこの天球図は28分割(二十八宿)するときと、24分割(二十四節気)するときがあります。二十八宿は〔1ヵ月の定義〕で用い、二十四節気は〔第15回 日本の暦:季節を表す二十四節気〕でで述べた「1太陽年の定義」で用います。。以下で述べることは、これらのことを知らなくてもかまいません。

二十八宿、二十四節気

28と24 は共に4で割れます。4で割った、東宮、南宮、西宮、北宮を守るのが次の4(ばしら)の神獣です。この4つには次のような意味が結びつけられています。

蒼龍(そうりゅう): 東、青、春
朱雀(すざく): 南、赤、夏、
白虎: 西、白、秋、
玄武: 北、黒、冬、

色の由来は、中国の泰山を中心とし、東は海の青、南は揚子江の赤い川、西は砂漠の白、北は山々の黒といったイメージのようです。日本でも、青春、白虎隊、北原白秋、朱雀大路などと使われています。

歳星と名付けられた星

月は27.32日(1恒星月)かけて28宿を回り、太陽は1年をかけて24節気に割り当てられた星々を回ります。中国ではこれ以外に、歳星(さいせい)(とし)の星)と名付けられた星があります。木星です。

もともと十二支は、太陽が24節気のどこにいるかで、現在が1年12ヵ月のどの月かを知ることができました。木星の公転周期は約12年(正確には 11.86年)です。すると、月を数えるのとまったく同様にして、現在木星が24節気のどこにいるかで、12年の年を数えることができたのです。これを十干と組み合わせれば、60年の年数を数えることができます。

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六十干支の起源

統一暦はいつからか

六十干支で年を数える方法は、秦の始皇帝元年(紀元前246年)には確立されていたようです。しかし、バビロニアの場合と同様で、最初の正式な統一暦はいつからか、となると問題は複雑になります。

最初の統一王朝はどの王朝かが専門家によって見解が異なるのと同様です。もう一つの候補は、前漢(武帝)のとき、紀元前104年(太初元年)に施行された「太初暦」です。この時はまだ、木星の観測によって暦を修正していました。木星の観測によらず、毎年機械的に1ずつ増加する方式となったのは、西暦85年からです。この時以来六十干支は、中国のみならず、日本や朝鮮でも、現在まで途切れることなく続いています。すごいことだと思いませんか。

バビロニアの60進数の影響

時間や角度を表す60進数や、1週間の七曜(太陽神、月神と5惑星のあわせて七曜神)、占星術などは、バビロニアから世界中に広まりました。七曜は、中国を経由して日本に、空海(弘法大師)が持ち込んだことは、〔1週間はなぜ7日になったのか?〕で述べました。近年になって、バビロニア(ペルシア)とインド、インドと中国の間では、文化の交流がこれまで考えられていた以上にあったことが分かってきています。「六十干支もバビロニアの60進数の影響があったのでは」という意見がありますが、これを検証してみましょう。

十二支と十干

上で見たように、六十干支の十二支は、歳星(木星)を観測することで始まりました。十干はこれとは別のもとからある数え方です。この2つの数え方が併用されたのが、六十干支です。もしこれが純然たる60進であるなら、十二支を高位の桁とすると、1から10までを、

子甲、子乙、…、子癸

とし、11 から 20 までを

丑甲、丑乙、…、丑癸

としたはずで、60進ではなく 120進となったはずです。

バビロニアが60進数を使い始めたのは、今から4千年以上前のシュメールの時代からです。60進数を使い始めたのは、経済・商業活動のためではなく、天文観測のためだと思われます。商業活動のためなら、60進数のような計算が面倒なものではなく10進数を使ったはずです。60進なら、1年を約360日、円1週を360度とすると、星々は1日に1度移動し、天体観測にとても便利です。このような理由で、バビロニアの60進数が中国の六十干支に影響を与えたとも思えませんし、逆に中国の六十干支がバビロニアに伝わったということも考えられません。

旧暦に関する考察

旧暦は西暦より劣っていたのか

明治になって日本が西暦に切り替えたのはよいことだったと思います。しかしこれは、暦を世界の標準に合わせた方が便利だからであって、日本の旧暦が劣っていたからではありません。旧暦が遠い昔のことになったためか、旧暦に対する誤解が少しあるようです。

「二十四節は、太陽の運行をもとに決められているから、太陰(月)をもとにしている旧暦ではない」という意見がありますが、これは間違っています。旧暦は太陽の運行も考慮した太陰太陽暦なので、二十四節も旧暦の重要なシステムの一部なのです。また、二十四節は中国で作られたから日本の気候に合わない、という説も間違っています。漢字のもともとの意味は合わないかもしれませんが、江戸時代には渋川(しぶかわ)春海(はるみ)などの学者が日本の気候・風土に合った解説書を書いています。24をさらに3分割した七十二候という日本独自のものも考え出されています。

古代の暦の重要性

古代の暦書は、中世ヨーロッパの暦書もそうですが、占いや迷信が大部分を占めていました。占いで未来を予測するのが教養人だとさえ思われていました。18、19世紀の科学の時代、あるいは日本の明治時代に、「占いなどなんの根拠もない」とか「占星術は天文学ではない」などと非難したのは当然です。しかし現在では、もうその必要はないように思われます。古代の人は、現在のようにテレビもインターネットもなく、また農業にしても漁業にしても、自然に密着した生活をしていました。現在ではカレンダーでさえ必要としませんが、当時の人々にとっては、旧暦は日々の生活にとって欠かすことのできない指針だったように思います。

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

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