第11回 メトン周期の正体

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

西ローマ帝国は滅びましたが、キリスト教は生き延びました。生き延びるどころか、ヨーロッパ全土に勢力を伸ばしていきます。そのとき強力な手段となったのがです。中世ヨーロッパで用いられていた暦は太陽暦(ユリウス暦)ですが、太陽暦は月の満ち欠けは反映していません。しかしキリスト教における大切な復活祭満月の日でなければならないと定められていました。月の満ち欠けを反映していない太陽暦で、どのようにして満月の日(復活祭)を決定したのでしょうか。また、〔7.ギリシアの暦〕で古典期のギリシアではメトン周期は用いられなかったことを見ました。ではどうして「メトン周期」という名が歴史上長く伝えられてきたのでしょうか。今回は中世ヨーロッパで行われてきた暦の編纂について調べてみましょう。

中世ヨーロッパのキリスト教

暗黒時代

ローマ帝国は、395年に東西に分裂し、西ローマ帝国はわずか100年後、479年に滅びます。しかし東ローマ帝国はオリエントの地で、その後約千年もの長きにわたり継続し、1453年オスマントルコに滅ぼされるまで続きます。ローマ帝国の時代からヨーロッパはオリエントに比べ後進国であり、人口もわずかで耕地も少なく貧しかったようです。5世紀から15世紀までを中世、特に10世紀までを暗黒時代といい、西ヨーロッパ全土は暗闇の中に沈んでいました。さまざまな異民族が侵入してきては略奪され、また民族間の紛争も絶えませんでした。

そもそも土地は水気の多い固い粘土層で耕地に変えるには多くの努力と農機具の発達を待たなければなりませんでした。土地のほとんどは深い森林でおおわれていて、その中を、遠く離れた村落や町を結ぶ街道が通っていました。一度迷い込んだら抜け出せなくなる巨大な森林は、野盗や魔物がひそむ恐怖の場所でした。ローマ帝国時代の都市や教会も残っていましたが、数は少なかったようです。ローマ帝国時代の遺跡の多くは、地中海沿岸地方とオリエントに集中しています。

民衆へと広められたキリスト教

中世の初期、キリスト教は王家だけに限られ、ほとんどの民衆はまだ入信していませんでした。ローマ・カトリック教会をはじめとするキリスト教会はヨーロッパの各地で布教に努め、勢力を伸ばします。

略奪戦争や旱魃などの自然災害、それによって引き起こされる飢餓などは克服しがたい恐怖でした。キリスト教の司祭(キリスト教の身分の高い僧侶)たちは、「これは人類の祖アダムとイブが神に背いた罪のためで、その子孫である我々は生まれながらにしてその罪(原罪)を負っているのだ、この原罪から逃れるにはキリスト教の()()しが必要だ」と説きます。さらに「地上における生活はいかに苦しくとも、天空には天使と善良な人々が住まう天国の圏がある。キリスト教に入信し戒律を守れば、天国における平穏な未来が待っている」と約束してくれます。

領主は、民衆を支配するのにキリスト教を利用しました。また教会も、安全が確保され、土地の寄進を受けるなどの利益が得られます。ヨーロッパは多くの民族が混在していて、支配者が異民族であることが普通でした。封建時代の社会的格差、身分制度、過酷な租税などを維持し、支配を正当化するのにキリスト教が利用されたのです。

古代における祭事の意味

現在の私たちにとって“お祭り”は単なる娯楽ですが、ストレスの多い古代社会にとって、生き抜くための大切な祭事の一つでした。キリスト教の祭事は、ヨーロッパで古くから続く祭事に結び付けられました。復活祭は英語でイースター (Easter) といいますが、この言葉のもともとの意味は春の女神(夜明けの女神)を意味するチュートン語に由来していて、本来はヨーロッパの各民族の間にあった春の農耕祭でした。

また、12月25日のクリスマスも、もともとはヨーロッパの冬至祭でした。また夏至のお祭りは聖ヨハネ祭が割り当てられました。1年の始まりは、地方や国ごとにまちまちでしたが、キリスト教の重要な節目であるクリスマス、受胎告知の日、復活祭が割り当てられました。

異教的神々への信仰を打破するために、その土地で信仰されていた神々をキリスト教の聖人に置き換えます。聖人は殉教者で、その立派な行いは奇跡を起こし、死後もその神聖は残り、その遺品やゆかりの土地には、病気の平癒や悲願(ひがん)成就(じょうじゅ)霊験(れいけん)がある、とされました。中世はこういった聖人信仰が広まりました。

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中世ヨーロッパの暦

時を知るのは聖職者のみだった

ここで、中世の暦を見てみましょう。中世(13世紀まで)のヨーロッパでは、たいていの人は暦などとは無縁の生活をしていました。生活のリズムは太陽による季節の変化、日曜ごとに行われる教会の礼拝、季節のお祭りによって決まります。時を知るのは一握りの聖職者だけでした。暦は毎週日曜日に教会で司祭から口頭で伝えられます。司祭たちは暦の書かれた分厚い暦書(れきしょ)をひもとくことによって時を知ることができたのです。

毎年、1月6日は公現祭(こうげんさい)と呼ばれる日で、司祭みずからが復活祭の日を告げることになっており、これによって民衆に教会の力をまざまざとみせつけることができたのです。このようにして教会は経済活動や社会活動を思うままに操りました。

日付の名前

日本では昔から、年や月や日にちの名前に数字を使っていました。朔日(ついたち)、三日月、十五夜、二十日(はつか)三十日(みそか)などです。ヨーロッパにはローマ数字がありますが、ヨーロッパで年や月や日付(ひづけ)が数で表されるようになるのは16世紀になってからのようです。日付のうちいくつかには聖人が割り当てられていて、たとえば「聖ミカエル祭の前日」とか「聖レミギウスの日の次の日」などと聖人の名を使って日付を指定していました。司祭は暦書をめくり、祭りの日や農作業の日を告げます。

復活祭の決定

13世紀までは、ヨーロッパは貧しく、農村の人々は教会に縛られていました。農作業の行事や祭事を行う時期は教会の司祭によって告げられていたのです。「時を支配する」ことは「民衆を支配する」ことにほかなりません。ここで重要な役割を担ったのは暦書の編纂(へんさん)です。なかでも重要なのは復活祭の決定です。9.春分点移動とヒッパルコス〕で述べたように、325年のニカイア公会議で復活祭は「春分の日以後の満月以後の最初の日曜日」と決められました。どのように暦書が編纂されたか考えてみましょう。

暦書の編纂

曜日はどのように決定したか

暦の暦日には、1月1日から順にA, B, C, D, E, F, G, の7文字が割り振られ、Gの次はまた A, B, …と繰り返されます。これは週が8日だった古代ローマ時代からの習慣です(したがって、古代ローマ時代は文字の数は8個)。古代ローマ時代はこの文字の1つが(いち)の立つ日を示していました。中世ヨーロッパになると、これらの文字は曜日を表すようになります。文字が表す曜日は毎年変わります。日曜日を表す文字をその年の日曜文字と呼んでいました。現代数学で考えてみましょう。平年 365日を7で割ると、

365 ÷ 7 = 52  余り 1

となり1余ります。したがって、ある年の1月1日の曜日が分かれば、次の年の1月1日の曜日は1日進んだ曜日となります。つまり、今年の日曜文字が A なら次の年の日曜文字は B となります。閏年 366日の場合は、366日を7で割ると2余りますから、日曜文字は2飛びます。つまり今年の日曜文字が B なら次の年の日曜文字は C を飛び越し D となります。

このようにすれば毎年の曜日は定まるのですが、中世ヨーロッパでは次のようにしていました。ユリウス暦では4年に1回閏年が入ります。4年で5進み、28 年で日曜文字は元に戻ります。したがって、28年前の暦書を写せばいいのです(暦書ではその年の日曜文字には〇で囲まれていたとします)。

満月の日はどのように決定したか

次に満月の日をどのように決定したのかを見てみましょう。中世ヨーロッパはユリウス暦です。ユリウス暦1年の日数を19倍してみましょう。

365.25 × 19 = 6939.75

これに1朔望月が何個入るかを見てみます。

6939.75 ÷ 29.5306 = 235.002

すると、19ユリウス年はほぼ正確に 235朔望月となります。最初の頃は月を観測して新月ごとに印を付けていたのでしょう。そのうちに19年ごとに月の満ち欠けが同じパターンを繰り返すことに気がついたのだと思います。19年というのは「十九年七(じゅん)の法」と同じ年数です。

二つの「19」

「十九年七閏の法」とは〔 6.メトン周期 〕で述べた通り、19太陰年のうち7年に「1朔望月」を挿入する方法で、一般的には「メトン法」と呼ばれています。しかしこの方法はメトンが活躍したとされる時代(古典期のギリシア時代)より前からバビロニアで用いられていました。

「十九年七(じゅん)の法」は扱う対象が太陰暦で、19太陰年に7個の朔望月を挿入するという操作です。一方、中世の暦算家が利用したのは、太陽暦の19ユリウス年ごとに同じ月の満ち欠けが繰り返されるという現象です。扱う対象も行う操作も異なります。どちらも「19」という同じ数字が現れますが、これは全くの偶然で、不思議なことに暦ではこれ以外にも19という数字が現れます。

メトン周期の正体とは?

中世ヨーロッパでは、ユリウス暦という太陽暦を用いていましたが、満月というのは月(太陰)の概念です。中世の暦算家は、千年以上も続く暦をつけていて、何月何日が満月かを知っていました。中世の暦算家が「十九年七(じゅん)の法」のことを知っていたかどうかは分かりません。しかし19年周期」に「メトン周期」という名が与えられ、後世になってこれが「十九年七(じゅん)の法」と混同された可能性があります。これが、古典期のギリシアには用いられていなかったメトン周期が、なぜ「メトン周期」という呼び名で後世に伝わったのかという真相ではないかと思われます。

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なぜ科学革命は起こったのか

ローマ帝国崩壊後の文化

17世紀になるとヨーロッパに“科学革命”が起き、ヨーロッパが科学技術の独擅場(どくせんじょう)となります。オリエントやアジアの科学は停滞したままなのに、なぜヨーロッパにこのような事態が起きたのでしょうか。これは本シリーズの重要なテーマであり、今後これについて検討していくつもりです。科学革命自体は急速な科学の発展なのですが、そのためには中世の長い準備期間があったのです。

ローマ帝国崩壊(476年)から500年間は、ヨーロッパの文化レベルはオリエントに比べ非常に低く、読み書きできる人は一握りのキリスト教の聖職者だけでした。農民だけでなく領主や豪族も学識はほとんどなく、ましてや数学のできる人は皆無でした。俗語(英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語など)は話されていましたが、文字として書かれることはありませんでした。司祭の読む書物はラテン語で書かれていました。

地方の発展

11世紀になると、外民族の侵入もおさまって、ヨーロッパの各地に封建国家が現れはじめます。固い粘土質の土壌を耕せる農機具や牛や馬の牽引力を利用した農法が開発され、農作業の効率が上がり、生産量が拡大します。ブナ、カシなどの深い森に覆われていた西ヨーロッパは、11世紀ごろから13世紀にかけて農地が広がり、原生林が急速に後退していきます。

12世紀になると、農村の生産力も上がり、経済が安定し、現在みられる都市、教会や大聖堂、壮大なお城が作られるようになります。大学や中世の学問を代表するスコラ学もこの時代に生まれました。12世紀まではヨーロッパは貧しく、ヨーロッパで流通していた金貨はビザンティンかアラビアで鋳造されたものでした。13世紀頃からの地中海交易が隆盛をみるのも、このような地方の余剰生産力の増加があったからなのです。

古代オリエントの英知

西ローマ帝国が消滅しても、ローマはオリエントで存続していました。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の公用語はギリシア語でしたが、帝国の人々は自分たちのことをローマ人と呼んでいました。西ローマ帝国が滅んだあと、アナトリア(現在のトルコ)のことを“ローマ”と呼ぶと混乱すると思ったのか、ヨーロッパの歴史家は東ローマにビザンティンという名前を付けました。ローマ帝国時代、西ヨーロッパにギリシアの哲学、修辞学、文芸などは伝わりましたが、数学、天文学(占星術)は伝わっていませんでした。しかし東ローマ帝国には、古代オリエントの英知が温存されていたのです。

関連記事以下の記事で詳しく解説しています。

第6回 メトン周期:天文学者メトンと閏月

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