第14回 革命暦とグレゴリオ暦

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

グレゴリオ暦はすんなりと受け入れられたのではありません。1582年にこの暦が設定されてから、世界中に広まるまでに非常に長い年月がかかっているのです。1789年にフランス革命が勃発すると、革命政府は暦法の改革に力を入れ、革命暦を制定しました。これはどのような暦だったのでしょうか。

暦は、度量衡と同様に文化に密接に関連しています。また数学の進歩・発展に大きくかかわっています。世界がグレゴリオ暦の受用にどのように関わってきたかを見てみましょう。

グローバル化の影響

地域による受け入れ方の違い

おりしもヨーロッパ各地では宗教改革の嵐が吹きすさんでいました。グレゴリオ暦はローマ教皇の教権を持って行われたので、カトリック系の多い西ヨーロッパ諸国は17世紀までにほぼ採用されました。しかしカトリックに反旗をひるがえすプロテスタントの勢力が強い国や地域ではローマ教皇の定めた暦など認めるはずがありません。熱烈なプロテスタントであった天文学者のケプラー は、「プロテスタントたるもの、教皇と仲良くするぐらいなら、太陽と不仲でいたほうがましだ」と憤慨しています。英国は1752年、スウェーデンは1753年、スイスは1812年と100年以上も後になって採用しています。

東方正教会の多い東ヨーロッパのほうはさらに強固に拒否し、採用したのは、第1次世界大戦が終わり、国際連盟が結成され、国際主義の気運が高まった20世紀になってからのことでした。トルコとソビエト・ロシアは1917年、ユーゴスラヴィア、ルーマニアは1919年、ギリシアは1924年に採用しました。なんと3百年以上もかかっています。グレゴリオ暦が広まったのはグレゴリオ暦が優れていたからでも正確だったからでもありません。グローバル化は暦の統一を強要し、国々は大勢に従わざるを得なくなったのです

プロパガンダとしての暦

17~20世紀、ヨーロッパの列強がアジアに進出します。15、16世紀は「豊なアジアと貧しく貪欲なヨーロッパ」という図式でしたが、ヨーロッパの列強は長く続く戦乱を戦い抜き、技術革新を重ね、産業革命を経て強大な先進国へと変身していました。アジアに進出したヨーロッパの列強は、ヨーロッパの進んだ文化を広めます。ヨーロッパの文明の先進性を示すプロパガンダとしてグレゴリオ暦が用いられました。グローバル化は暦の標準化をともない、世界の一員となるためには標準暦であるグレゴリオ暦を使わなければなりません。しかし、昔ながらの暦はその土地の文化に深く根付いていました。アジア、南北アメリカ、アフリカの各地で欧米の植民地化が進み、その土地の伝統文化は、ヨーロッパのスタンダードに侵食されていきました。日本では1900年(明治33年)、中国では1912年にグレゴリオ暦を採用しましたが、不思議なことに日本はわりとすんなりとグレゴリオ暦を受け入れています。

--Advertising--

フランスの革命暦

フランス革命と暦の改革

グレゴリオ暦は暦として完成された形なのでしょうか。フランスの革命暦を見てみましょう。フランスでは、国王のルイ14世以来ますます専制政治が進み、少数の貴族と僧侶などの特権階級が優雅な生活を楽しむ中、一般国民は多額の国費に苦しんでいました。ついに1789年フランス大革命が勃発します。この革命はヨーロッパの形勢をガラリと一変させる大騒乱となります。3年後の1972年に王政廃止が宣言され、翌年の1月、民衆の見守る中、ルイ16世が断頭台で処刑されます。この革命で、古い制度が大幅に打破され、あたらしい制度への大転換が行われました。度量衡におけるメートル法の設定もその一環です。

革命政府は、暦法の改革に特に力を入れました。これはグレゴリオ暦がローマ法王の制定したものだったからで、ローマ・カトリックへの反感のためです。革命政府は社会を宗教から脱却させようとしたのです。

秋分の日から1年が始まる「革命暦」

新しい暦は、革命暦(共和暦)といい、1793年に「1年はパリにおいて太陽が秋分点を通過する日に始まる」と宣言されました。したがって、1792年9月22日(秋分の日)が革命暦の元旦(1月1日)となります。フランス革命暦は次のように規定されています。

1年は12ヵ月、1ヵ月は30日。1ヵ月は10日ずつ3つに分け、上旬、中旬、下旬とする

1ヵ月を10日ずつ3つに分けるのは(じゅん)法といい日本にもありましたが、革命暦はエジプト暦をまねたようです。したがって1週間は10日です。1ヵ月30日で12ヵ月だと 360日です。残りの5日は「サン=キュロットの日(民衆の日)」として年末に置かれました。4年に1回、サン=キュロットの日は1日足され、6日になります。非常に美しい暦ですが、古代エジプト暦とまったく同じです。  

日付の呼び方の変更

これまでの暦では、日付は聖人の名で呼ばれていました。革命暦の推進者は、これを「聖人の墓場」と呼んでいました。日付には数字が割り当てられるようになりましたが、フランスではまだ一般民衆の識字率がとても低く、2桁の数は難しかったようです。そこで日付は、上旬1日、上旬2日、… と呼ぶようにしたのです。キリスト教では、日曜日を「主の日」として特に重要視していました。革命暦では、宗教色を払拭(ふっしょく)するために“曜日”をなくしたのです。

革命暦の「季節の名前」

革命暦は評判が悪く、なかなか民衆に溶け込みませんでした。評判の悪さは、これまで行っていた農作業と新しい月との対応がつきにくいことにあるのではないか、と政府は考えました。そこで、1年を秋、冬、春、夏の4つの季節に分け、次のような名前を付けました。

革命暦

有名な画家に各月を表す女神を描かせ、印刷し宣伝に努めました。 しかし努力はむなしく、効果はありませんでした。これまでの古い暦は日々の生活に溶け込んでいました。日付には聖人の名が付けられていましたが、民衆にとっては大切なのは聖人ではなく、お祭りの日だったのです。革命暦は民衆に馴染まず不満が噴出し、わずか13年で消えることになります。

革命暦の「時間」

革命暦がうまくいかなかったのは、同時に設定された“時間”のせいかもしれません。1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒と定められました。実際にこのような文字盤を持つ懐中時計も作られています。このような“時間”が普及し、角度も10進法となっていたら、現在の時計や角度に残っている面倒な60進数は世の中から消えていたかもしれません。

短命に終わった革命暦

なぜ革命暦は受け入れられなかったのでしょうか。これまでいろいろな意見が言われてきましたが、最も大きな理由は、1年の初めが秋分の日であること、週が10日間であることをはじめ、月や日が、他のヨーロッパ諸国とまったく違ったものとなってしまったことのようです。しかし、本音は「慣れ親しんだ習慣を変えるのは難しい」ことと「よその国から規則を押し付けられるのは我慢できない」ことにあるのではないでしょうか。

革命暦以外の暦

ヒジュラ暦

もう一つ暦の代表としてヒジュラ暦を見てみましょう。〔暦の伝播〕で述べたように、イスラーム国の中には現在でもヒジュラ暦という太陰暦を使っています。グレゴリオ暦を使っている私たちから見ると、1年に11日季節がずれるのは不便だと感じるのは単なる慣れの問題にすぎません。ヒジュラ暦がグレゴリオ暦と比べて劣っているわけでも不正確なわけでもありません。グレゴリオ暦が設定されたのは1582年、ヒジュラ暦は622年、千年の隔たりがあるにもかかわらず、ヒジュラ暦は正確さにおいてグレゴリオ暦に引けを取りません

「天体の運行」と暦の規則

グレゴリオ暦は天体の運行を正確に反映しているとよくいわれます。はたして本当でしょうか。太陽年に対してはたしかに正確です。しかし、1ヵ月を一律30日にするとか、31日の月を設けるなどは月の運行を無視しています。つまり、太陽暦は天体(月)の運行を無視することによって、規則を美しく整えたのです。一方ヒジュラ暦のような太陰暦や、太陰太陽暦は、月の運行を暦に正確に合わせるために暦の規則が複雑になっています。昔は占星術のため、月や星の運行が生活に密接にかかわっていたため、暦は天体の運行を正確に反映するものでなければならなかったのです。

グレゴリオ暦はいつ日本に導入されたか

次に日本を見てみましょう。日本はメートル法も、すんなりと受け入れました。イギリスやアメリカは、いずれメートル法にすると約束したためもあり、一時はお店の値札や自動車のスピードメータなどは、メートル法とヤードポンド法の両方が併記されていたのですが、いつの間にかメートル法の表記が亡くなり、いまだにヤードポンド法(尺貫法)のままです。

グレゴリオ暦が日本に導入されたのは明治になってからです。明治5年11月9日、明治政府は改暦の詔書(しょうしょ)を発表しました。「来たる12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日とする」旧暦の明治5年12月3日が新暦の明治6年1月1日となったのです。この発表から新暦の実施までたった23日しかありませんでした。庶民は驚きましたが、それ以上に驚いたのは政府の官吏(かんり)たちだったようです。何の予告も相談もなしに唐突に決定を告げるなど、現代から見るととんでもない暴挙に思えますが、大きな騒動はなかったようです。

改暦後の日本

太陰太陽暦が太陽暦に変わったにもかかわらず大きな混乱が起きなかったのは、日本人の特性ではないかと思います。日本の場合は異民族による支配を受けた経験がなく、政府に対する強烈な不信感を持っている人は少なかったためではないかと思います。もちろん、反論がまったくなかったわけではありません。

最も大きな不満は、「これまでの太陰太陽暦で何一つ不自由がないのに、なぜ改暦の必要があるのか」というのであり、改暦を認めることは「毛唐人(欧米人)の恥辱を甘んじて受けるのに等しい」というものでした。当時夜は街灯もなく真っ暗で、よく月を見て日時を確認していたと思います。晦日(みそか)は朔月、十五夜は満月であるはずなのに、晦日が満月で、十五夜が朔月などありえないと思ったのでしょう。次のような詩が残されています。

晦日(みそか)に月も(いづ)れば玉子の四角もあるべし
十五夜も(まる)くはならぬ新暦の、有明の月をまちいづるかな
春は雪、夏のはじめに花盛り、秋の納涼(のうりょう)冬のお月見

「有明の月」とは「まだ月があるのに夜が明けてくる」という夜明けのことで、特に「十六夜」以降の朝のこと。このような詩(川柳)で不満を述べるのですから、大した反対ではなく平和なものです。政府も有識者の力を借りて新暦の宣伝に努めました。次は福沢諭吉の意見ですが、皆さんはどのように感じますか?

「平生から書物を読んで物事の道理をわきまえている人なら少しも不思議に思うことではない。であるから、日本国中でこの改暦を理解できない者は必ず無学文盲の馬鹿者である。これを理解できる者は平生から学問の心得がある知恵者である。されば、このたびの改暦は日本中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題ということができる」()

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

language

SNS RSS

更新情報やまなびの豆知識を
お届けしています。

スポンサーリンク