第2回 1週間はなぜ7日になったのか?
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週の起源を探る
1週間の起源はヨーロッパであるとか、キリスト教の『聖書』にあるとか、古代イスラエルにあるという意見をよく聞きます。また、週は純粋に文化的なもので、天文とは関係がないという意見もあります。ここではこれについて考えてみましょう。
月は暦だった 〜 新月、上弦、満月、下弦 〜
前回のお話で、古代においては天空に輝く星が暦であり時計だったと言いましたが、古代の人にとって月も暦の一つでした。新月から次の新月までを1ヵ月とすると、1年は約12ヵ月となります。月は、新月、上弦、満月、下弦とその形を変えます。
月の満ち欠けの周期
新月から次の新月までの日数は約 29.5日です。1ヵ月を4等分するのは自然なことです。
29.5 ÷ 4 = 7.375
ですから、1週間を7日とすると、月の形から曜日が判断できとても便利です。したがって、古代では多くの民族が7日ごとに区切りをつけていました。特にメソポタミア文明の発祥地であるシュメールでは、7日ごとに月の神を祀(まつ)っていて、これが1週間の起源とされています。
月の満ち欠けに関しては 第9回 月の不思議 で詳しく解説しています。
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古代の1週間
古代メソポタミアの 「週」
暦として1週7日という規定があったかどうか、今のところ記録が見つかっていません。シュメールの少年たちが通う学校では、4日通学し1日休むという週5日制で、ひと月30日のうち24日授業を受けていたようです。当時王宮では皇后が主宰する織物工場があり、多くの職人が働いていました。そこは週6日制で、5日働いて1日休みでした。
時代を下り、聖書でも有名なバビロンの町を見てみましょう。当時バビロニアでは7は不吉な数とされていました。月の7日、14日、21日、28日 は不吉な日なので、特に富裕階級の人は家に引きこもり静かにしていました。これが“休息日”の始まりともいわれています。そのころイスラエルの民はバビロンに強制移住させられており(これを“バビロンの捕囚”といいます)、苦しい生活を強いられていました。このときイスラエルの民が週7日制の習慣を身につけたのかもしれません。“悪い兆し”が“よい兆し”に転換することはよくあります。
古代エジプトの「週」
週の起源を探るためにメソポタミア以外の地を見てみましょう。ギリシアやローマの支配を受ける前の古代エジプトでは1週間=10日でした。エジプトでは数10 を基底としていました。古代ギリシアには週はなかったようです。歴史において「存在しない」という記述は慎重であるべきです。現在証拠が見つかっていないだけで、今後見つかるかも知れないからです。しかし、ギリシアやローマに関しては膨大な史料が残されていますから、今後新しい発見はあまりないかもしれません。これに対し、オリエントでは新しい発見が相次いで、歴史が書き換えられています。
古代ローマの「週」
ローマでは、1週間=8日だったようです。農民は7日間働き、8日目には町に出て、市やお祭りを楽しみました。ローマが週7日になったのは紀元3世紀初頭の頃のようです。この頃には、すでにエジプトも週7日となっており、エジプトの習慣が伝わったものと思われます。公式に週7日制がローマに導入されたのは、321年コンスタンティヌス帝(1世)の時です。これはキリスト教とは関係がありません。キリスト教の教父たちは週を支配する異教の神、七曜神を受け入れることができなかったのです。当時ローマで信仰を集めていたのはペルシアの神秘的な宗教、ミトラ教でした。ミトラ教は太陽神を敬い、日曜日を太陽の日(サンの日,Sunday)として祝っていたからです。キリスト教は、オリエントの宗教だけでなく、プラトンの哲学、天文学、数学を異教の学問として敵対していたのです。史上初の女性数学者ヒュパティアはキリスト教徒に襲われ惨殺されています。ですからローマに週7日制を伝えたのは、キリスト教徒でもユダヤ人でもありません。
曜日の順序を決めたのは古代エジプト人か?
週の名前
メソポタミアには多くの国があり、それぞれ独自の文化と習慣を持っていました。7という数はありふれた数なので、起源を探るのが困難です。注目すべきは週の各々の日の名前
日、月、火、水、木、金、土
です。“日”は太陽、“月”は月、“火水木金土”は惑星の名前です。惑星は他の星々との識別が難しく、天文学者でないと無理でしょう。したがって、これらはバビロニア起源とみてよいでしょう。しかし、曜日をこのように呼ぶようになったのは、(現時点で確認されているかぎり)紀元前1世紀のことのようです。これらの7つの星は、神と結びつけられます。これを“七曜神”と呼びます。七曜神の神像はオリエントの各地から出土しています。
惑星の順序〈古代ローマ期の説〉
曜日はなぜ 日月火水木金土 の順序になったのでしょうか。これも週の起源の解明に役立つかもしれません。ローマ期の天文学では、これらの星々は地球のまわりを「土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月」の順で回っているという説が受け入れられていました。地球から遠い順です。
これは、惑星の公転周期をもとに決められたようです。例えば、太陽は1年、月は1ヵ月です。水星は太陽に近く、ガリレオ※でさえ観察するのが難しかったようです。古代にこのような観測ができていたとは驚きです。土星や木星は公転周期が長く、正確な周期を見つけるには(太陽の1年=365.25日と同様)何百年もかかったことでしょう。おそらくこの順序を決めたのはバビロニアの天文学者だったと思われます。ではなぜ曜日はこの順序に並んでいないのでしょうか。この順序を決めたのは古代エジプト人だという説があります。
古代エジプト神話 ラーの夜の旅
エジプトに週7日制が入ってきたのはローマ期ですが、それより千年以上前からエジプトには「ラーの夜の旅」という神話が伝わっています。史料によって少しずつ内容に違いがありますが、だいたい次のようなお話です。
太陽神ラーは、朝東の空を出発するときは若々しい青年でしたが、昼の旅を終え、西の果ての夜の世界の門に達する頃には限りなく死んでいました。夜の世界はさらに12の世界に分割されており、ラーは船に乗って1時間ごとに1つの世界を旅します。12の世界の冒険の旅を経て、ラーは再び若さを取り戻す、というお話です。
古代エジプトでは、昼12時間、夜12時間の1日24時間制でした。ちなみにバビロニアは1日12時間です。エジプト人は、1日を 24等分した24の世界の各々に上の七曜神を割り当てました。1時の世界は土星、2時の世界は木星、3時の世界は火星、… と七曜神を 図1 の順番に割り当てていきます。
1日の最後 24時の世界は火星の神の支配する世界です。したがって、土星の神で始まる日の次の日は、太陽の神で始まる日となります。
24 ÷ 7 = 3 余り3
なので、 土星から始まった日の次の日は、土星から3つ先の太陽、太陽から始まった日の次は太陽から3つ先の月、月から始まった日の次は月から3つ先の火星、… となります。土星から始まった日は土曜日、太陽から始まった日は日曜日というように、1日の最初の1時間を支配する惑星をその曜日の名前としたのではないか、と考えられています。
図1に示した順番は膨大な時間をかけて得られたバビロニア天文学の成果ですから、上の説は現在の曜日の並びの有力な説とみなしてよいでしょう。
西ヨーロッパにキリスト教が定着すると、人びとは曜日を受け入れるようになります。キリスト教では安息日は週の最後ですから、週の最初は月曜日となります。一方、太陽を重視する多くの国では、週の最初は日曜日です。日本も日曜日から週が始まります。
北欧神話
週は北欧神話に由来するという説もあります。ガリア(いまのフランス)はローマの影響が強く曜日の名前もラテン語からきているようですが、イギリス、北欧、ドイツなどの民族は、大移動で知られるゲルマン民族の流れを汲み、曜日の名前の中には北欧神話に由来するものがあるようです。ゲルマン人は、古代ギリシア人やメソポタニアの人々と接触があったようで、週の概念もローマを介さず直接オリエントから入ってきた可能性もあります。北欧神話の中には、七柱(しちばしら)のオリエントの高貴な神々が出てくるそうです。
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日本に七曜を広めた空海
日本にはいつ頃から曜日という概念があったのでしょうか。バビロニアは古くから古代インドと交流があったようで、星座や占星術(天文学)はインドにも伝わっていたようです。少なくとも4世紀までには、1週7日制や七曜もインドに伝わっていました。それをインドから中国に伝えるのに大きな役割を果たしたのは仏教でした。不空金剛(ふくうこんごう)というインド人の僧侶が、100巻以上の仏典を漢訳し、唐王朝に献上し中国に密教をもたらしたのです。不空の代表作の中に『宿曜経(しゅくようきょう)』というのがありますが、「宿」は星宿(せいしゅく)つまり星座のことで、「曜」は「七曜」を指します。密教はこういった占星術も含んでいたことになります。
不空の弟子恵果(けいか)の活躍で密教は中国で勢力を伸ばしますが、唐の滅亡とともに衰退していきます。恵果の晩年、日本からの留学僧空海が恵果を訪ねます。空海は学識も深く、中国語も不自由なく話せたそうです。恵果は彼の能力に惚れこみ、死ぬまでの半年間精力的に密教の奥義を彼に伝えます。
七曜が入ってきた時、中国ではすでに「暦」が定着していました。したがって、七曜は定着することなく、しだいに忘れさられていきました。これは日本も同様です。空海が日本に持ち込んだ後、しばらくは話題になりいくつかの文献の中に現れますが、鎌倉時代には衰退していったようです。
七曜が復活したのは明治に入ってからです。明治政府は熱心に西洋の文化を取り入れようとしていました。その中に西暦があり、週の7つの曜日をどのように訳したらよいのか問題になりました。そのとき学識のある人が、すでに千年も前に日本にも七曜があり、日月火水木金土という名前がついていることに気がつきました。曜日はすんなりと決まったそうです。
バビロニアの占星術(ホロスコープ)、星座、七曜などは、何千年もの時を越え、何万kmもの距離を旅し、世界中に広まっていったのです。