第8回 暦の伝播:オリエントの国々へ

本連載ではこれまでメソポタミア、古代エジプト、古代ローマ、古代ギリシアの暦について述べてきました。しかしオリエントにはまだまだ多くの国が存在していました。地理は2次元で、歴史はさらに時間軸の1次元が加わります。それに対し文章は1次元で、ある国に対し時間軸に沿って述べているとき他の国については触れることができません。専門外のものにとって、ただでさえ多くの国や民族が出てきてうんざりするのに、複雑な国際関係が絡み合うともうお手上げです。ここではオリエントの歴史の中でに関することだけかぎり、ごく簡単に説明することにします。

オリエントの歴史

バビロンの捕囚

ギリシアが発展を始めようとしているとき、メソポタミアではアッシリアが大国に成長し、一時バビロニアを支配しますがやがて衰退していきます。バビロニアでは新バビロニア王朝が興ります。新バビロニアはアッシリアと同じ帝国主義でした。東地中海沿岸の諸王国を情け容赦なく蹂躙(じゅうりん)し、エルサレムを陥落させ、ユダ王とその妃と共に数千人のユダヤ人をバビロンに連行します。これが悪名高き「バビロンの捕囚」です。

しかし強制移住といってもアッシリアと違って、民族を分断し混交(こんこう)させることまではしませんでした。そのためにユダの人びとはバビロンに行ってもイスラエルの神ヤハウェへの信仰を持ち続けることができました。

ペルシアの台頭

アッシリアや新バビロニアが覇権をかけて争っているとき、メソポタミアの西方ではペルシア(アケメネス朝)が台頭してきました。ペルシア人は印欧語族で、古くからイラン高原に定住していたのですが、ギリシアが活躍を始めるのと同じころ(紀元前8世紀ごろ)歴史に姿を現します。新バビロニア王朝の繁栄は100年ともちませんでした。東方で勢力をのばし大国となったペルシアに征服されてしまったのです。紀元前539年ペルシア王キュロスが征服者としてバビロンに入城してきたとき、市民は歓声をあげてキュロスを迎えたといいます。

アレクサンダー大王の遠征、そしてヘレニズム時代へ

あっという間に歴史は進みます。オリエント一帯を征服したペルシアも、新興国家マケドニアのアレクサンダー大王に世界帝国の座をひき渡します。これ以降時代はヘレニズム時代に入ります。エジプトでは、アレクサンダーの将軍の一人であったプトレマイオスがエジプトのファラオとなりエジプト王朝を引き継ぎます。首都アレクサンドリアは、オリエント随一の文化と交易の中心地となります。さらに歴史は進み、紀元前30年、エジプトはローマの属州となります。

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オリエントの天文学

なぜ天体観測が必要だったのか

ここでこれまで見てきたオリエントの天文学について振り返ってみましょう。天文学者たちは、何千年にもわたって、天球を観測し記録してきました。その動機は国の運命を占う占星術でした。しかし自然現象すべてを不可知な神のせいにするのではなく、予測し、理論を打ち立て、天球の運行を記述する体系を考え出します。観測者は、専門の教育を受けた神官たちでした。どのような状態で何が起きたかを予測するには、観測結果を記録する必要があります。膨大な観測結果が推算暦(すいさんれき)の形で記録されました。そのためには年に名前をつける必要があります。前回のお話で述べた紀年法です。

たとえば、隕石が落ちた最古の記録として、ラガシュ市のウルイニムギナ王治世4年の月名に、「輝く星が高い所から落ちてきた月」という記述があります。“ラガシュ市のウルイニムギナ王治世4年”というのが「即位紀元」です。実際これが紀元前何年にあたるのかを突き止めるのはたいへんで、これを研究する分野を編年学といいます。

ナボナサル紀元とは

バビロニアの天文学者たちは、ナボナサル王の時、紀元前747年を起点とする連続した数で表す紀年法を採用するようになりました。これをナボナサル紀元といいます。幸運なことに、アッシリアの天文文書の中に現在の天文学で紀元前763年に起きたと判定できる日食の記述がありました。これによってアッシリアの年代だけでなく、オリエント全体の年代を正確に述べることができるようになったのです。

ローマ帝国時代、アレクサンドリアの天文学者プトレマイオスは、このナボナサル紀元を用い、バビロニアに伝わる天文学データを編集解析し占星術や天文学における貴重な著作を後世に遺しています。プトレマイオスはギリシアの数学を受けついでいますが、天文学についてはバビロニア天文学を引き継いでいます。

ペルシア暦:エジプト暦を受け継ぐ太陽暦

ペルシア(現在のイラン)は、もともとメソポタミアですからバビロニアの暦に影響を受けていたと思われます。しかしオリエント全域を支配するペルシア帝国を形成するとペルシア暦を制定します。ペルシア暦は、太陽暦であること、(初期のころは)年の最後に5日の付加日をつけたこと、4年に1度閏年を設けることなど、エジプト暦と変わるところがありません。4年に1度の閏年がいつ頃から設けられたのか明らかではありませんが、ユリウス暦の影響ではなくエジプト暦の影響でではないかと思われます。

春分の日はゾロアスター教の祝日で、ペルシア暦の年始は春分の日ですが、これはバビロニアの影響だと考えられます。現在のイラン・イスラーム共和国はイスラーム教国ですが、暦は今回のお話の後半で述べるイスラーム教の「ヒジュラ暦」ではなく、ペルシア暦の後裔であるイラン暦です。

ユダヤ暦:バビロニア暦を受け継ぐ暦

ユダヤ教はキリスト教を通じヨーロッパ世界に大きな影響を与えています。春分の日を年始とするのは世界中どこでも見られるものです。しかし〔『宇宙の不思議』第2回 1週間はなぜ7日になったのか〕で述べたように、ユダヤ教はバビロニアの影響を強く受けています。実際、月名はヘブライ語ではなくバビロニア風で、たとえばユダヤ暦のニサン月は、バビロニア暦のニサンヌ月からきています。ニサン月15日は過越(すぎこし)の祭というユダヤ教の重要なお祭りの日で、太陰暦では1日は新月ですから15日は満月です。

古くは、モーゼが民を引き連れエジプトから脱出できたことを祝って、子羊を犠牲に捧げ、これを食べて祝ったことに由来するお祝いです。これがキリスト教に採り入れられ復活祭(Easter)となりました。また、福音書によると、イエスはユダヤ教の過越(すぎこし)の祭りの日に死んだことになっています。いずれにしても、春分の日は生命が再生し、復活することを祝ったお祭りだったのです。“復活”とか“再生”を表すのは新月のはずですが、どういうわけか新月が満月に替わっています。

ユダヤ暦がギリシアではなくバビロニア暦に準拠していることは明らかです。「十九年七閏法」で19年に7回の閏年を設けていますが、大の月と小の月を並べる並べ方は、非常に複雑なシステムで決められています。

イスラームの暦

イスラーム帝国の成立

ここで時代を大幅に下り8世紀の様子を見てみましょう。バビロンの街はすでに廃墟となり、そこから北へ100キロほど行ったところでは、イスラーム王朝の都バグダッドが当時最大の規模と荘厳さを誇っていました。イスラームの勢力は、オリエントではビザンティン帝国を除くほぼ全域、北アフリカ、西はスペインまでにまでおよんでいました。

ここで発達した数学(天文学)をアラビア数学(アラビア天文学)といいます。アラビア数学の代わりにイスラーム数学という人もいますが、いずれにしてもこれは数学(あるいは天文学)の分野を示す名称で、アラビアという地名やイスラームという宗教を意味するものではありません。実際ペルシア人、エジプト人、ユダヤ人の有名な数学者(天文学者)がたくさん出ています。

ヒジュラ暦

イスラームの暦について見てみましょう。イスラーム暦はヒジュラ暦といい、教主マホメットが迫害を受けて、メッカからメディナに逃れた年の 622年7月15日(ユリウス暦)木曜日を元年とするもので、634年に定められました。7月15日は朔月で天文学的な起点となる月で、一般には翌日の7月16日(金)の新月から始まります。 ヒジュラ暦は太陰暦で、太陰暦では太陽の動き、つまり季節は考慮しません。一朔望月を1ヵ月とすると、12ヵ月では

29.53059×12 = 354.36708日                               (1)

となり、太陽暦と比較して太陰暦では1年が11日短くなりますから、32年で約 352日、太陰暦の約1年の差となります。したがって、太陽暦で現在32歳の人は太陰暦ではほぼ33歳、現在64歳の人は太陰暦ではほぼ66歳となります。このように太陰暦では、季節は年を追うごとにどんどんずれていきます。ヒジュラ暦では、9番目の月は「ラマダーン」といい一日中食物を口にできない「断食の月」とされています。季節はずれますから、ラマダーンは暑い真夏のときもあれば寒い真冬のときもあります。

1朔望月は約 29.53059日で、整数ではありません。〔 第6回 メトン周期 〕で、小数 0.53059 が分数 11/30 で近似できることを見ました。ヒジュラ暦ではこれを用いて、30太陰年に11回閏日を挿入しています。具体的には、ヒジュラ紀元年数を30で割った余りが

2, 5, 7, 10, 13, 15, 18, 21, 24, 26, 29                            (2)

の年を閏年とします。閏年では 29日の月のうちの一つが30日となります。ヒジュラ暦がどれくらい正確かを計算してみましょう。ヒジュラ暦30年の日数を計算します。平年の1年は、29日の月が6個、30日の月が6個です。30年ではこの30倍です。これに11回の閏日が加わります。したがって、

ヒジュラ30年 = (29日×6+30日×6)×30+11日 = 10631 日

となります。一方、現在の1朔望月の値を用いた理論的な30太陰年は

30太陰年 = 29.53059日×12×30 = 10631.0124 日

となり、30年で 0.0124年、したがって1万年で4日となります。これはグレゴリオ暦に匹敵する正確さです。また、30太陰年は

10631,0124 ÷ 365.2422 = 29.107

より、29太陽年と見なしてかまいません。〔 第6回 メトン周期 〕、1朔望月= 29.53059日 は平均値であり、大の月、小の月の並びは季節を考慮しなければならないと述べました。上の (2) で定められた並びは、29太陽年で繰り返されます。したがって、1度並びを定めればその並びを繰り返し使うことができます。

皆さんはヒジュラ暦を見て、不便で遅れた暦だと思われるかもしれませんが、これは単に私たちが太陽暦に慣れているからにすぎません。ヒジュラ暦では毎年11日季節がずれますが、これは分かっていれば不便ではありません。ビジュラ暦は、メソポタミアのアラビアの遊牧民の暦から生まれたものだと思われます。農耕民は、太陰暦に閏月を挿入することで太陽暦に近づけましたが、遊牧民はその必要を感じなかったのでしょう。

太陰暦と太陽暦

ヒジュラ暦では、30太陰年に11日(うるう)日を挿入します。これによって、月の満ち欠けが30年できっちりと繰り返すことになります。つまり30年分のカレンダーを用意しておけば約1万年間使えます。これを太陽暦に換算すると、29年ごとにほぼ月の満ち欠けが繰り返すことになります。しかしこれは太陰(月)に関することで、太陽の運行に関しては、32太陽年≒33太陰年、となります。

太陽暦(エジプト暦)は太陰の動きを無視することによってすっきりとしたものになり、太陰暦(ヒジュラ暦)は太陽の動きを無視することによってすっきりとしたものになりました。しかし、太陰太陽暦では両方を考慮したため、大の月小の月の決定にとても苦労しました。

関連記事以下の記事で詳しく解説しています。

第6回 メトン周期:天文学者メトンと閏月

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