第3回 メソポタミアの暦:太陰太陽暦

シュメール地方の太陰太陽暦

ジグラットとは何か

太陰太陽暦はメソポタミア文明の発祥地シュメール地方で生まれました。どのような環境下で、どのようにして生まれたかを見てみましょう。シュメールは、チグリス・ユーフラテス川の下流域にあり降雨量は少ないのですが、沖積土が広がり大規模な灌漑農業が可能でした。しだいに人々が集まり、紀元前4000年頃に集落が飛躍的に増大し、都市国家へと発展していきます。チグリス・ユーフラテス川はたびたび洪水を起こすので人々は小高い高台に集落を作りました。住居や神殿は日干しレンガで作られており、古くなって崩れ落ちるとそれをならしてその上にまた住居を立てます。時代が経つにつれて都市の標高はしだいに高くなっていきました。このような都市(あと)を「テル(遺丘)」といいます。テルは、地層のように時代ごとの層になっているので、歴史の変遷を研究するのに好都合です。

紀元前3000年ぐらいになると、集落は都市国家に発展し、都市の中心にジグラット(聖塔)と呼ばれる神殿が作られ始めます。聖書で有名な「バベルの塔」もそのようなジグラットの一つです。ジグラットの最上部で神官たちは星々の観察を行いました。

暦の設定は僧の役割だった

太陽の運行は、昼と夜を分け1日を作り、四季を分け1年を作ります。私たちの毎日の生活、あるいは一生は天体に支配されています。私たちの運命が天体の運行に無関係であるはずはありません。干ばつとか洪水、戦争の勝敗、病気や事故、などはすべて天のなせる(わざ)です。古代は医療が貧弱で、戦争や疫病など死が日常で現代とは比べものにならないぐらいストレスの多い毎日でした。人びとは宗教的カリスマ性を持った神に仕える僧を指導者として選びます。僧はエンと呼ばれ、天体を観測し、神の意思を人々に伝えました。各地に神殿が建てられ、儀式はしだいに複雑で精緻(せいち)なものとなり、(エン)は専門職となり世襲化していきます。

(エン)たちの重要な役割の一つは暦の設定です。太陽がもっとも北から昇るときが“夏至の日”で、もっとも南から昇るときが“冬至の日”、夏至の日と冬至の日の中間の位置から昇る日が“春分の日”です。春は農作業を開始する時期でもあり、春分の日を「年の始め」とすることが多かったようです。これらの観測を正確に行うには地平線が見渡せる高台が必要でした。聖塔(ジグラット)神殿であると同時に僧たちの天文観測所でもあったのです

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シュメール・アッカド 時代の暦

暦の統一

紀元前3000年頃から紀元前2000年頃までをシュメール・アッカド時代といい、シュメール人とアッカド人が交互に王朝を立てます。多くの都市国家が興隆しますが、都市ごとに自分たちの暦を持っていました。これは都市ごとに違った月名を使っていることから分かります。シュメール時代のある会計簿には30以上の月名が書かれていました。月名は(うやま)われていた神の名や、その時期に行われる農作業にちなんだ名前がつけられました。これらのことから、農作業や祭事が行われる月も地区や都市国家ごとに違っていて、最も基本的な、1年の始まりさえも違っていたことが分かってきました。

しばらく都市国家間の抗争が続いていましたが、やがて強力な王朝があらわれシュメールとアッカドを統合する統一国家が現れます。多くの都市を支配するには暦を統一しなくてはなりません。そのためには威信にかけて暦を正確に定めること、「月の始め」と「年の始め」を正確に規定する必要がありました

フンガ星の旦出

(エン)たちは、毎日夕方にを観測していました。月はだんだん細くなり、やがて見えなくなり、翌日に新月となって現れます。それまでも新月が「月の始め」と定められていました。そこで年の始めを「春分の日の直後の新月」と定めたのです。では春分の日はどのように定めたのでしょうか。“太陽の昇る位置”ではどうしても正確に決定することはできません。長年観測しているうちに、「春分の日の少し前、太陽が昇る直前の東の空に、フンガ星(おひつじ座のα星)が現れる」ことに気がつきます。そこで、フンガ星の旦出(たんしゅつ)春分の日と定めたのです。フンガ星の観測は、紀元前2100年頃のシュメール・アッカド時代の終わり頃に始まったようです。

古バビロニア時代の暦

バビロニアの標準暦

統一国家は短命に終わり、都市国家間の争いは絶えず、しだいに国境をきちっと定めた領域国家へと成長していきました。中心もシュメール地方の少し北にあるバビロニアへと移ります。紀元前2000年頃から紀元前1600年頃までを古バビロニア時代といいます。この時代に後世にその名をとどろかせた古バビロニア王朝(バビロン第1王朝)(おこ)ります。この王朝の第6代の王がハンムラビです。ハンムラビはまだ小さかった首都バビロンを南メソポタミア随一の都市に高め、これ以降この地方はバビロニアと呼ばれるようになります。古バビロニア王朝は、チグリス・ユーフラテス両大河に沿って長さ1100キロ、幅約160キロの、これまでのどの王朝よりも広大な領地を有する中央集権国家となります。統一国家が成立すると、暦も統一され「標準暦」が設定されます。しかし、依然として地方や周辺諸国は独自の暦を使っていたようです。

太陽年と恒星年の差

春分の日を1年の始めとするということは、「1太陽年を採用する」ということです。一方、フンガ星の旦出を1年の始めとするということは、「1恒星年を採用する」ことになります。〔 第1回 暦の始まり 〕で述べたように、両者の差は1年でたった 0.0142日です。

読者の皆さんもここで計算してみてください。初めてのものごとを理解するにはまず大雑把に捉えることと、手を動かして計算してみることが大切です。大雑把に1年を360日とみなすと、「1日=1度」となります。つまり、太陽は黄道を1年かけて一周します。したがって1日に約1度移動します。ですから、1年で 0.0142日の遅れは、

0.0142度 = 0.0142×60分角 = 0.852分角
= 0.852×60 秒角 = 51秒角

の遅れとなります。分度器を見てもらうと分かりますが、1度はほんの小さな角度で、51秒角はその1度の 60分の 1 よりもさらに小さいのです。古代の天文学者は、このような微小な差を識別できたのでしょうか? 1年で 0.0142日遅れるということは、

1 ÷ 0.0142 = 70.4

ですから、70年で1日の遅れです。このようなわずかな差はとても一人の観測者が発見できるものではありません。紀元前2000年頃の春分の日(年始)は、フンガ星の旦出の9日後でした。紀元前600年頃の新バビロニア王朝時代には、春分の日は9日ほど先行して、フンガ星はもはや春分の日の前触ではありませんでした。フンガ星はおひつじ座のα星で、「おひつじ座」は、星占いの最初の星座です。シュメール時代にすでにおひつじ座は春を告げる最も大切な星座となっていたのです。

閏月の挿入による補正

古バビロニア時代の粘土板に、ハンムラビ王の(みことのり)として次のような記載があります。「1年は場所から離れている。来月にエルルIIの名を書きとめさせよ。」エルルは月の名で、「春分の日が離れて来たから、来月に“第2のエルル月”を追加せよ」という命令です。ハンムラビ王の時代はこのように王の布告によって閏月が挿入されていました

ハンムラビ王の少し前のウル第3王朝のときに、8年間に3回閏月を挿入するという「八年三(じゅん)の法」による暦が作られていました。

年の初めは「フンガ星の旦出の日の後の最初の月」と決め、「月の初めは新月」と定めると、暦は自動的に決まります。夕方西の空に現れる細い月を観測することによって新月が決まります。一朔望月は 29.53日と整数ではないので、新月の細さは毎回微妙に違いますが、29日か30日ごとに新月となります。長く観測を続けることによって29日と30日を交互に繰り返せばよいことが分かります。また、この新月はフンガ星の旦出(春分の日)の後 29.53日以内に起こります。もしこれを越えるようになったら閏月を挿入すればよいのです。このように定めると、暦は観測によらなくても自動的に定まります。何百年も繰り返すうちに暦は観測によらなくても自動的に定まるようになります。千年以上これを繰り返せば「八年三(じゅん)の法」よりもさらに正確な、19年に7回閏月を挿入するという「十九年七(じゅん)の法が自然に得られたのではないかと思われます。

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国際化時代から暗黒時代へ

暗黒時代

メソポタミアはその後、いくつもの大国が覇を競う多極化時代へと入っていきます。紀元前2000年から紀元前1200年頃までを国際化時代と呼びます。歴史的に見てこの時期はとても重要な時期なのですが、ここでは数学と天文学に焦点を当てていますので、この時代は飛ばします。

メソポタミアとエジプトを含むオリエント一帯で国際化が進むと、政治的経済的なネットワークが複雑に絡み合います。現代的な言葉でいうと、オリエントのグローバル化です。鉄器が発明され戦争の形態も変化してきます。経済的依存が相互に増すと、いったんほころびが生じると、破綻はオリエント一帯に広がります。はっきりとした原因はよく分かっていませんが、オリエント世界は大混乱に陥ります。紀元前1200年頃から紀元前800年頃までを暗黒時代と呼びます。

アッシリアの出現

暗黒時代の終わりごろ、バビロニアの北にアッシリアという大国が出現します。アッシリアはこれまでの王国と異なり、他の国を隷属させ、その国から税金を吸い取るという、いわゆる帝国主義の“はしり”でした。戦争も次第に残虐になり、奴隷の扱いも小作人から所有者の道具扱いとなっていきます。

アッシリアは古くから続いてきた王国で、紀元前2000年代はシュメールやアッカドの属国だったのですが、やがて独立します。アッシリアの地は「肥沃な三日月地帯」の中心部で、灌漑に頼らなくても農耕ができたのですが、牧畜や農耕ではなく交易生業(なりわい)とするようになります。王たちはアッシュル神に(つか)える神官でしたが、王みずから“商業投資家”として熱心に交易とかかわっていました。多くの国々と民族が闘争に明け暮れ興亡を繰り返す古代メソポタミアの真ん中で、アッシリアだけが1400年という途方もない長きに渡って存続することができたのも、このような地の利と、農耕国家ではなく交易国家だったためかもしれません。

メソポタミア初の帝国となったアッシリア

これまでの国家間の交易は、足りないものを補い合うといった相互依存の関係で成り立っていました。またこれまでの国家では王家が富を独占していましたが、王家は国民全体から見ればほんの一部にすぎません。書記などの官僚が政治を仕切っていましたが、際立って裕福でもなく後の封建制度のような厳しい身分制度ではなかったようです。これに対し、アッシリアは軍事国家であり、戦闘の目的は略奪でした。征服した国を属国とし、そこから貢ぎ物や重い租税を取り立てます。アッシリア人はエリート階級となり支配層となったのです。アッシリアの王たちは好戦的で、征服欲に憑かれ、毎年のように遠征を繰り返しました。このように征服した国を属国化しそこから租税をとる王国を“帝国”といいます。アッシリアは、メソポタミア初の帝国となります。

アッシリアの王、アッシュル・バニパル

歴史の見方は時代によって変わってきます。現代では強国が弱小国に攻め入ると“侵略”と見なされますが、古代では強いものが弱いものを支配するのは“自然の理”でした。現代では残虐で好戦的とみられる王も、古代では英雄でした。このようなアッシリアの王の中で特にアッシュル・バニパルが有名です。古代メソポタミアの王で読み書きができる王は少ないのですが、アッシュル・バニパル王はその数少ない王の中の一人で、王はシュメールの文書や難解な古代アッカドの文書が読めることを自慢していました。王宮の裏通りの「図書館」から膨大な数の粘土板文書が見つかっています。なかでも重要な発見は、シュメール語をアッシリア語に訳した語彙集です。これが楔形文字解読の鍵になりこれらの文書の研究によって、現在の楔形文字文書の研究分野「アッシリア学」の基礎が築かれました。

天文学に関する文書

アッシュル・バニパルをはじめアッシリアの王たちは、各地に学者を派遣して古代の文書を筆写させました。古代ですから、文字には魔力があり、古代の呪術や予言などの宗教書に多くの関心があったと思われますが、「古代人は偉大な叡智を持っていた」という信念は、この後も長く引き継がれていくことになります。 天文学に関する多くの文書がアッシリアの図書館に眠っていました。

近世に入りヨーロッパの列強はアジア・アフリカに進出します。そのとき列強は文明国が発達途上国を“文明化”するという名目を持っていましたし、実際、科学技術力はヨーロッパのほうが圧倒的に優っていました。19、20世紀の歴史家は、どうもそのときと同じような見方でオリエントの古代を見ているように思います。しかし、古代ではこれとは逆の現象が起きていたのです。つまり、武力には優っていても文明の遅れた国が、豊かな文明国を襲い政権を奪ったのです。政権を奪取した国は、支配した国の文化を尊重し継続します。千年を超える前に使われなくなったシュメール語をアッシュル・バニパル王が読めたというのですからすごいものです。

十九年七閏の法(メトン 法)

“暦”は文化の根幹をなすものです。文明は高い方から低い方へ流れます。現在の西暦が世界中に広まったのもヨーロッパの文化が進んでいたためだと思います。アッシリアは古くからバビロニア暦を採用してきました。太陰太陽暦といっても細かな相違がいろいろありますが、アッシュル・バニパル王の時代になると、月名も統一され暦が標準化されてきます。出土した史料から、暦は29日と30日の月が交互に続き、19年に7回の閏月が挿入されるといった「十九年七(じゅん)の法」(いわゆるメトン法が採られていることが分かります。現在確認できるメトン法の例は、紀元前747年にバビロン王となったナボナサルの時代のものでも確認されています。どちらもバビロニア天文学の古い伝統に従ったものと考えられています。

新バビロニア王朝

華やかな街、バビロン

アッシリアは輝かしい成功を収めましたが、急速に転落していきます。その期に乗じ、紀元前625年バビロンの地に新しい王朝が生まれます。新バビロニア王朝です。それまでも、バビロンの街はオリエント随一の(みやこ)であり、華やかさと豊かさにあふれたあこがれの街でしたが、新バビロニア王朝になるとさらに豪華な宮殿が建てられました。このころは、ギリシア文明も成熟期で、ギリシアの歴史家ヘロドトス ディオドロスストラボンなどが訪れています。彼らの描写からも、バビロン市の城壁や神殿の荘厳さや都会の(にぎ)わいがオリエント中の憧れであり、注目の(まと)であったことがうかがわれます。近世に入ると、ヨーロッパで占星術が流行します。近世のヨーロッパでは、カルディア人とは天文学者・数学者・占星術師のことを意味しましたが、歴史的にはカルディア人とは、新バビロニア時代のバビロニア人のことを意味します。

ペルシア帝国による征服

新バビロニアの繁栄は100年ともちませんでした。東方で勢力を伸ばしてきた大国ペルシアに征服されてしまったのです。これまでの歴史では、4000年の長きにわたって続いたメソポタミア文明はペルシア帝国の成立によって終わったことになっています。19世紀になってメソポタミアを訪れた人々は荒涼としてさびれた村や、砂漠の中に埋もれたバビロンの遺跡を見て、これが聖書にも出てくるあの繁栄と退廃の町バビロンか、と感慨にふけったといいます。

歴史区分としてここで切ったとしてもそれは便宜上のもので、オリエントがペルシア帝国に統一された後もメソポタミア文明は断続することなく続いていきます。ヘレニズム時代になって共通語がギリシア語になっても天文学(占星術)や数学書にはまだ楔形文字が使われていました。この時代の楔形文字文書に現れる数学の問題の中には約2000年も前の古バビロニア時代の楔形文字文書に現れるものとほとんど同じものがあり、文化がしっかりと継続されていたことが分かります。それどころか、イスラームの時代になり共通語がアラビア語になってもまだ文化は継承されていたのです。

『暦の起源』は全22記事からなるWeb連載です。

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