2. 古代記数法と文字表記:文明の発展と数の表現

『バビロニアの数』は全17記事からなるWeb連載です。

記数法の起源と発展:線刻と文字表記

数を文字によって表す表し方を記数法といいます。石器人は獣骨に線を刻んで数を表しました。これを線刻と言います。記数法のはじまりです。旧石器時代は獣骨を用いましたが、その後、木の棒が用いられるようになります。ヨーロパではこの木の棒を符木(しるしぎ) (tally) と呼んでいます。中国では木簡(もっかん)といいますが、竹簡(ちっかん)も用いられました。メソポタミアにはよい木が生えていなかったため、粘土板が用いられました。

ローマ数字は線刻からきています。I, II, III は線刻そのものです。X はアルファベットの「エックス」ではなく I の10個の「束(たば)」を表す記号、つまり I を10個並べて、斜め線「 / 」でくくったものを記号化したものです。V も「ヴイ」ではなく X の上半分、つまり10 の半分の 5 を表します。漢字の一、二、三も線刻からきています。木や竹に線を引く場合、繊維を切るように線を書き、ローマ字の場合は木の棒を横にして読み、漢字の場合は縦にして読んだのです。十は「一の10個の束」を表します。廿(にじゅう) という漢字は「十が2個」を意味し、(さんじゅう)は「十が3個」を意味しています。算用数字の 2 と 3 も 二 と 三 を続けて書いたものからきているそうです。楔形文字では線を引くより葦の(くき)の断面を粘土に押し付けた方が簡単ですから“くさび形”になりますが同じとみてよいでしょう。

古代の記数法:線刻由来の数字

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10進数と数字の束ね方:記号化が言語の発達を促す

古代人は、I((いち))を 10 個束ねることで X ((じゅう)) という概念を獲得しました。この記号化によって、「10個一束」という抽象的な対象が “十”という具体的な記号で置き換えられます。すると、われわれの頭の中に “十”という概念が作られます。記号よりも言葉の方が先であったかもしれません。しかしこの記号化のために、十という数を一つの具体的な対象として扱うことができるようになります。すると、十を10個集めた(たば)、すなわち百という概念に到達します。百を10個集めた(たば)は千で以下同様に続きます。このように、 常に10個ずつ束ねる方式を10進法といい、10進法で書かれた表記を10進数といいます

このように、記号の発明が言葉の発達を促すこともあるのです。おそらく3万年前の旧石器人は“百”とか“千”という言葉は知らなかったと思いますし、1万年前の新石器人は“億”とか“兆”という言葉は知らなかったと思います。聖書ヨハネの福音書の冒頭は「初めにことば(ロゴス)ありき」で始まりますが、この「ことば」はギリシア語のロゴスからきています。ロゴスというギリシア語は、「無理数の話」とか「対数(logarithm)の話」などの数学史の話に出てくるので覚えておいてください。言葉は原初の始めからあったのではなく人類の進歩とともに成長していったのだと思います。3万年前にも簡単な言語はあったと思います。しかし言語としての形を整えはじめたのは人が集住し村を作り始めた1万年前の農業革命からであり、科学技術、法律、宗教、文学、哲学などを述べることができる言語に進歩し始めたのは、5千年前に楔形文字が文字系として確立し、文明が始まってからではないかと思います。

文字の出現が言語の発達を(うなが)したというのは考古学的な証拠によるものではなく、論理的な帰結です。“十”という記号を発明してから長い期間ののち、千とか万という記号や概念が生まれたのだと思います。『数の発明』でも見てきたように 人類の発達は進化によるものではなく学習 によるもの です。文字があれば遠くの人に獲得した知識を伝えることができますし、時代を越えて残すこともできます。“千”とか“万”という概念は、“十”という概念の発明があったからこそ生まれたものなのです。知識の集積は文字がなければできません。

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古代ローマ数字の成り立ち

もう少しローマ数字について見てみましょう。現在のローマ数字では、IV は5より1 少ない4を、IX は10より1 少ない9を、XL は50より10 少ない40を、XC は100より10 少ない90を、… という記法を用いていますが、これは古代ローマで用いられた記法ではなくあとで導入された記法ですから、ここでは考えないことにします。ローマ数字にはいろいろな異形があり、中世に入るとさらに多くの異形が増え混乱します。

上で述べましたが、ローマ数字はアルファベットからきたのではなく、符木と呼ばれる木に刻んだ記号からきています。古代ローマ人は 1000 を M とは書かず ( | ) と書きました。したがって 2000 は ( | ) ( | ) となります。500 は ( | ) の半分 | ) が D となったようです。C がどのようにして 100を表すようになったかは、いろいろな説がありますが省略します。100 には C 以外に 10 を表す X を束ねた X という記号も用いられました。したがって XX は 200 を表します。50 を表す L は X の上半分が ⊥ となり、これが L になったという説があります。 ローマ数字も最初は線刻のIだけ、次にこれを10個束ねてXと、長い年月をかけて一つずつ拡張して、しだいに上で述べたアルファベットになっていったようです。

古代の記数法:古代のローマ数字

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合成文字方式と単一文字方式

ローマ数字

ここで 数字の定義 をしておきます。ローマ数字の各記号 I, V, X, L, C, … は数を表していますから、たとえば 27は X を2個、V を1個、Iを2個並べれば、順序はなんでもよかったのですが、しだいに順序は XXVII に決まります。おそらくこれは 言葉 の影響だと思われます。つまり、XX で20と呼ばれる1つの数字を、VII で7と呼ばれる1つの数字を表すようになったのだと思います。このように、 一つ一つが数を表す記号を組み合わせて1つの数字を作る方式 合成文字方式 と呼ぶことにします。

ローマ数字

エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)

次にエジプトの記数法神聖文字(ヒエログリフ)を見てみましょう。神聖文字では、一、十、百、千、万、十万、百万、千万を次の文字で表しました(図2.4)。      

古代の記数法:ヒエログリフ

記号1つが1つの数を表します。たとえば花は1つが千を表しますから、 3215 は次のように表されます。

エジプトのヒエログリフ

ヒエログリフは単に情報を伝えるだけではなく、装飾としても美術的に美しいものでした。また、エジプトだけでなく古代ではどこでもそうですが、文字とか数字には不思議な魔力があると信じられていました。日本でも呪文とか護符とか起請文などがあります。

神聖文字は、文字を知らない民衆でも簡単に覚えられます。棒と取手と縄の3つの文字を覚えるだけで1から999までの数を表すことができます。神聖文字は左から右に書いても、右から左に書いてもいいので、たとえば23 は∩∩||| と書いても |||∩∩ と書いても同じですが、数字3 ( ||| ) と 20 ( ∩∩ ) はまとめて書きます。したがって、合成文字方式です。

エジプトの神官文字(ヒエラティック)

神聖文字は美術的には美しく壁画などには適していますが、実用には向いていません。数学書や経済文書などは神官文字が使われました。神官文字では、各数字を1つの記号で表しました。神官文字で10進数の5桁の数を表そうとすると、1桁の数字 1~9 で9文字、2桁の数字 10~90 で9文字、…、5桁の数字 10000~90000 で9文字の計45文字も覚えなくてはなりません。したがって、神官文字が使えるのは専門の教育を受けた書記に限りました。このように 各数字を1文字で表す方式 単一文字方式 と呼ぶことにします。単一文字方式でも、各数字は固有の数が割り当てられているので、(原理的には)数字はどの順序に現れても同じ数を表します。

古代ギリシアの記数法

アッティカ方式

次にギリシアの記数法について簡単に述べましょう。古代ギリシアはエーゲ海周辺に点在するポリスとよばれる集落からなる海洋国でした。まだ人口もまばらで国としてのまとまりもなく、文化や習慣が違う部族がおのおののポリスを作っていました。現在のトルコの沿岸地方をイオニア地方といい、ギリシアの植民地ができます。イオニア地方はメソポタミアに近いので、メソポタミアから先進文明を吸収し、本土より早く発展します。ギリシア世界に文字が伝わったのは紀元前7世紀ごろで、数字もそのころに伝わったものと思われます。文字をギリシア人に教えたのは、地中海の東海岸を拠点とした海洋民族のフェニキア人でした。ギリシア人が最初に使っていたのはアッティカ方式と呼ばれる次の記数法でした。(図2.6)

古代ギリシア:アッティカ方式

アッティカはギリシア共和国の首都アテナイのある地方の名前です。アッティカ方式は合成文字方式でローマ数字と同じ構造をしています。

紀元前5世紀になるとギリシア文明が栄え、アテナイはその中心都市となります。この時代を 古典期 と呼びます。紀元前4世紀になるとギリシア世界は内戦状態に入ります。紀元前3世紀に入ると文化の中心はエジプトのアレキサンドリアという都市に移り、これ以降を ヘレニズム時代 といいます。ヘレニズム時代に入るとギリシア本土は経済的には落ちぶれますが、アテナイは 学園都市として存続を続けました。

イオニア方式

続いてヘレニズム時代の記数法をみてみましょう。ヘレニズム時代は、エジプトの支配者はギリシア人になります。エジプトの歴史を通じ、それまでも異民族がエジプトのファラオ(王)となったことが度々ありますが、いずれもエジプト文明の伝統を守り文化を引きついできました。ギリシアの科学はエジプトやバビロニアの影響を受け大きく変貌します。記数法もアッティカ方式からイオニア方式に変わります。イオニア方式は、単一文字方式で、図2.7の数字からなっています。

古代ギリシア:イオニア方式

ここで 6 と 90 と 900 を表すのに見慣れない文字が使われていますが、これはギリシア文字だけでは足りないのでフェニキア由来の文字 「スティグマ」「コッパ」 「サンビ」 を借りています。また、1000, 2000, 3000 は  「,α」「,β」「,γ」… のように表され、10000, 20000, 30000 は「 M(α)」「 M(β)」「 M(γ)」… のように表されました。エジプトの神官文字と同様、4桁の数を表すのに45個の文字を覚える必要があります。 各数字が一文字になったこと以外は、単一文字方式合成文字方式と同じで、各数字を並び替えても同じ数を表します。この方式は数を専門に扱う数学者や天文学者などでないととても覚えられるものではありません。アルキメデスなどの数学者はこの記数法を使って複雑な計算を行っていますが、一般の民衆には使いこなせなかっただろうと思います。

『バビロニアの数』は全17記事からなるWeb連載です。

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