第2回 星座は暦で時計だった:シュメールで誕生した星座
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古代の人々の生活
現在の私たちはカレンダーどおりに規則正しい生活を送っています。土日は学校や会社は休みで、月曜日から金曜日までは仕事に出かける人が多いでしょう。年末にはクリスマスがあり、年始には正月があります。また、学校の授業の時間も午前何時から午後何時までと決まっています。古代ではどうだったのでしょう。古代オリエントのバビロニア地方を見てみましょう。
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古代の人はどのように季節や日時を知ったのか
書記の学校の生活
紀元前2000年頃のバビロニアではすでに文学作品が書かれるようになっていて、そこには、読み書きや数学を学ぶ子供たちの“書記の学校”の様子が次のように描かれています。「朝早く僕を起こしてください。遅刻できないのです。遅刻すると先生にムチで叩かれます。」 このように役人(書記)になろうとする少年たちは書記学校へ通っていました。4日学校へ行って1日休みです。1ヵ月30日のうち 24日学校へ行くことになります。また、王妃は後宮で織物などの職場を経営していました。そこでは5日働いて1日休みだったようです。具体的な時間は分かりませんが、勤務時間も決まっていたようです。古代の人はカレンダーもないのにどのようにして日時を知ったのでしょうか。
「日の出の位置」から季節を知る
人類が狩猟採集の生活を送っているときは、正確に季節を知る必要はありませんでしたが、農耕や牧畜を始めると、いつ種を播いたら良いか、家畜はいつ子供を産むか、など自然や季節を詳しく知ることが必要になってきます。太古の昔から人々がもっとも親しんできたのはおそらく月だったと思います。月の満ち欠けによって人々は時間の経過を知ることができました。満月を12回繰り返すと約1年です。しかし月の満ち欠けは時間の経過は分かっても季節の移り変わりは分かりません。季節を知るにはやはり太陽でした。お昼に太陽が高いところにあれば夏で、低ければ冬です。そのうちに日の出の位置で季節が分かることに気がつきます。最も北から日が昇るときか夏至で、もっとも南のときが冬至です。夏至と冬至のちょうど中間の地点が、春分の日と秋分の日の日の出の位置です。古代の人々は春分の日と秋分の日が「昼と夜が等しくなる日」として認識しており、古代の多くの民族では春分の日を1年の始めとしています。
「星座」から季節を知る
しかし、日の出の位置では、季節を正確に知ることはできません。現代では星空を見る人は少なくなりましたが、古代は夜は真っ暗ですから、夜空に輝く星を眺めたと思います。星空は季節によって変わります。夜明け前に東の空に輝く星座、あるいは日の入り直後に西の空に輝く星座を見れば、より正確な季節を知ることができます。太陽の通り道黄道に沿って、12個の星座を定め、それによって季節を判断するようになりました。現在のところ全部がはっきりと判明しているわけではありませんが、大多数が現在のものと同じだと推定されています。
星占い(ホロスコープ)の起源
星座はシュメールで生まれた
皆さんの中には星占い(ホロスコープ)が好きな方もいると思います。日本の星占いはヨーロッパから伝わったものです。多くの人はその起源は古代ギリシアかあるいはローマだと思っているかもしれませんが、実はメソポタミアなのです。星座に関する最も古い史料は、紀元前4000年頃にシュメール語で書かれた天の牡牛のようです。新石器時代となり、牛が家畜として飼われるようになると、牛は人びとに富をもたらすようになります。アナトリア(現在のトルコ)の1万年前の新石器時代の遺跡(チャタル•ホユック)には、牛の角を一列に並べた祭壇が発見されています。牛はオリエント一帯で神格化され、富と繁栄の象徴とされ崇められてきました。アナトリア以外でも、クレタ島やエジプトでも牡牛は崇拝の対象でした。ギリシア人はこのことを知らずに、同じ星の集まりに牡牛を思い浮かべたのでしょうか。これはありえないと思われます。現在でもおうし座は前半分しかありませんが、これはシュメールの叙事詩に出てくる英雄ギルガメッシュが牡牛を刀で両断したという話が元になっていると考えられます。おうし座以外の星座も少し見てみましょう。
粘土板に描かれた星座の図柄
紀元前3000年頃には粘土板の上を転がす円筒印章が作られるようになります。その図柄にライオンやサソリが使われています。これらは「しし座」と「さそり座」ではないかと考えられています。紀元前2000年頃には境界石が作られるようになります。そこには下半身が馬で上半身が弓をつがえた男が描かれています。これは「いて座」で、ギリシア神話のケンタウロス族の賢者ケイロンにつながると思われます。また境界石には上半身がヤギで下半身が魚といった奇妙な動物が彫られていますが、これは「やぎ座」と考えられます。「やぎ座」は下半身が魚であり、それに続く「みずがめ座」と「うお座」も水に関係しています。これらは冬至から春分にかけての星座で、この季節の降雨と、チグリス・ユーフラテス川の氾濫を象徴していると考えられます。「てんびん座」は、もとは「さそり座」の一部だったようです。なぜここに「てんびん座」が作られたかというと、現在「おとめ座」にある秋分点が、歳差運動のため当時は「てんびん座」の位置にあったからではないかと考えられています。秋分点は、昼の長さと夜の長さが釣り合うからです。
春の象徴、おひつじ座
黄道12宮で最も重要なのは「おひつじ座」で、現在でも星占いの最初は「おひつじ座」から始まります。古代では、多くの民族が春を1年の始めとしていました。春分の日のあと、太陽が「おひつじ座」に入ると、春先に誕生した子ヤギや小牛はすくすくと成長をはじめ、草木は芽吹きはじめます。「おひつじ座」は不毛の冬季を過ぎ、むかえる再生の春の象徴だったのです。
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天文学の伝播
プトレマイオスの『アルマゲスト』
歴史一般について言えることですが、古いものから新しいものへとたどるのは難しく、新しいものから古いものへとたどることが多くあります。星座の起源がシュメールやバビロニアにあることが認識されるようになったのは最近のことです。それまでは、ローマ時代のギリシアの天文学者プトレマイオスの著作『アルマゲスト』やギリシアとローマの神話が元になっています。『アルマゲスト』はオリエントで発達した天文学(占星術)を集大成したもので、48の星座と1022個の恒星目録が載っています。とても一人で発見できる数ではありません。プトレマイオス自身の著作は現在残っていません。
オリエントからアラビアへ
オリエントで発達した天文学は、その後アラビアに引き継がれ、『アルマゲスト』もギリシア語からアラビア語に翻訳されます。ペルシアの天文学者アッ=スーフィー(903~988)は『アルマゲスト』の星座や星々を詳しく述べた『星座の書』を著します。『アルマゲスト』や、バビロニアの楔形文字文書では、星座は言葉で表されているだけで図が描かれていないので、星座が実際にどの星々に対応するのかはっきり分かりませんでした。スーフィーの著作には図が入っているので、対応づけるのに役立ちました。
エジプト「デンデラ・ハトホル神殿」の天体図
また、ヘレニズム期に建てられたエジプトのデンデラ•ハトホル神殿の大きな天井には円形天体図があり、そこにはエジプト固有の星座や星々のほかに、バビロニアの黄道12宮の星座が描かれています。この円形天体図の実物は、パリのルーブル美術館に所蔵展示されて、現在エジプトにあるのはレプリカです。このような事情で、星座の現在の名前はラテン語となっています。正式な日本語の訳語も決定され、正式な星座名はひらがな表記で、たとえば「山羊座」は「やぎ座」と、「双子座」は「ふたご座」と書きます。
中国の 28の星座
バビロニアでは黄道に沿って12の星座を設定しましたが、中国では28または27宮の星座を設定しました。これはなぜでしょう。太陽の1年は、春分点から春分点までの1太陽年と、公転軌道を1周する1恒星年とがありました。同様に月に対しても、満月から満月までの1朔望月と、公転軌道を1周する1恒星月とがありました。
1朔望月 = 29.53059日 (1)
1恒星月 = 27.3216615日 (2)
星座は昼間は見えませんから、太陽が現在どの星座にあるかは、日の出の直前か、あるいは日の入りの直後でないと分かりません。しかし、月は朔月あたり以外は夜に観察できます。月の運行表を持つ天文学者にとっては、1恒星月を元にした28宮(あるいは27宮)の方が観測には適していたのかもしれません。現在月がどの宮にあるかが分かれば、運行表を参照して太陽の位置が分かり、季節を知ることができるからです。インド、ペルシア、アラビアでは28宮を採用しています。これらは中国から伝わったのではないかと思われます。
月の通り道、白道
いま述べたことをもう少し詳しく説明しましょう。天球における月の通り道を白道といいます。白道に沿って星座を28個設定します。最後の28宮だけは少し小さい星座を選びます。これらの28宮をここでは仮に 1日宮、2日宮、…、28宮と呼ぶことにします。ある日、1日宮にいた月は、次の日には2日宮へ、その次の日には3日宮へと、毎日一つの宮を訪れます。現在太陰暦の1月1日だったとします。1日ですから1日月すなわち朔月です。しかし、月が28宮のどこにいるかは決まっていません。説明のため1日宮にいたと仮定します。すると1月2日には2日宮、…、1月28日には28日宮、1月29日は1日宮、1月30日は2日宮、2月1日は3日宮となります。(28日宮を飛び越える場合や、1月が29日で終わる場合の議論は省略します。) すなわち、1月朔日に月が1日宮にいたなら、2月朔日には3日宮、3月朔日は5日宮と、1ヵ月ごとに2飛びに増えていきます。これは (1) と (2) の1恒星月と1朔望月の差が約2日であることからも分かります。つまり、太陰暦であっても、現在の月の形と、現在月が28宮のどこにいるかが分かれば、現在の時期が1年のどの位置にあるかが分かるのです。
太陽、月、星座の関係
誕生日の星座
星占い(ホロスコープ)では、誕生日ごとに星座が割り当てられています。割り当てられる星座はその人の生まれたとき、太陽がいた星座です。しかし、星座は太陽のもとでは見ることができません。どのようにして太陽がどの星座にいるかが分かるのでしょうか。古代エジプト人はシリウスの旦出で、太陽がシリウスの近くにいることを認識しました。シリウスの旦出は、日の出の直前、太陽が地平線下9°ぐらいのところで起きるようです。ぴったりと太陽と一致しているわけではありません。それに、シリウスの旦出は1年に1回きりです。
より精密な天文学へ
星座は天球に書かれた番地(座標)です。月は大半の時期、観察することができます。日の出日の入りと違って、月は長い時間観察することができますから、どの星座のどの位置にあるかも正確に計測できます。太陽の位置も月の形(満ち欠けの形状)から判断できます。たとえば満月の時は、その反対側に太陽がいます。つまり、正確な暦と月の形から、そのとき太陽がどの星座にいるかが分かるのです。バビロニア人は1朔望月を基準にして天球を12に分割しましたが、恒星月のことも知っていました。つまり、現在の月の形と、月がどの星座にあるかと、暦があれば、現在太陽がどの星座にあるかが分かります。すなわち、現在が1年のどの位置にあるかが分かるのです。
前回のお話で、古代の人は1太陽年を夏至の日の日の出の位置を観測することによって計測し、1恒星年を特定の星の旦出を観測することによって計測したと述べました。しかし、これらの計測には膨大な時間が必要でした。太陽の観測に比べ、月や星々は正確に計測することができます。太陽、月、星々を複合的に、総合的に考察することによって、古代の天文学はより精密なものとなっていきました。
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