12.数学と文明
17世紀のガリレオ※やニュートン※による科学革命以来、人びとは科学の発展が産業にとって必要であり、私たちの生活を豊かにしてくれるものと考えるようになりました。現代では、宇宙科学だけではなく経済活動から医療行為にいたるまで人工知能が関与し、自動車のナビゲーションでは GPS を使用し、日常生活ではスマホやインターネットを使っています。現代の私たちは、数学は科学を学ぶ上の必須の言語であり、文明にとっての必須要素だと思っています。しかし16世紀までは数学は哲学の一部で、教養だったのです。商人や職人が使う計算は低俗な技芸であり、日常生活とは無関係の(ユークリッド※の幾何学のような)数学は人間性を高める高尚な学問と考えていました。現代の私たちは現代人の見方でしか物事を判断できません。古代とは生活環境がまったく違います。古代の人々は科学や数学をどのように捉えていたのでしょうか。なぜ、どのようにして人々は数学を生みだしたのでしょうか?
人類と数の歴史
〔 8.農業革命 〕で見たように、オリエントで農耕が始まった理由の一つは苛酷な気象条件にあったようです。農耕や牧畜が始まると、人口が増え生活を圧迫し、人びとはますます働かなければならなくなります。ヨーロッパや日本は気象がそれほど過酷ではなく、狩猟採集で十分食料が賄えました。民俗学の調査によると、ある狩猟採集民族は毎日3時間程度働くだけで十分な食料が得られたようです。また化石の骨の調査より、狩猟民族の骨のほうが農耕民族より、病気や栄養不足などの影響がなく健康だったといいます。狩猟採集時代は、人口もまばらで持ち運ぶ荷物も少なく気ままな生活です。定住し人々が集まると感染症などの病気も増え、持ち物が増えると将来や家族のことを考えなくてはならずストレスがたまります。日本の縄文時代もヨーロッパと同様、文字もなく100以上の数を扱うことができなかったかもしれませんが、人びとは豊かな文化を享受していたのではないかと思われます。
〔 1.数は人間の発明か 〕で述べたように、チンパンジーでも数を認識できますし、カラスは足し算ができます。しかしこれは10以下の小さい数に限ります。 石器人は骨に線を刻むことによって数を記録しました 。これは他の動物にはできない、人間特有のことだと考えられます。またこれは遺伝子による生得的な能力ではなく、学習によって得られた能力だと思います。数を記号化することによって、石器人は100までの数を認識することができるようになりました。しかし、100以上の大きな数を扱えるようになるには、人類はそれから何千年もの時を必要としたのです。
オリエントや中国で文明が興ったのは農業革命のためだと言われています。しかし、狩猟採集民族の時代でも、高い文化を持った遺跡がいくつか発見されています。なかでもトルコの南東部にあるギョベクリ・テペの遺跡は有名です。1万2千年ほど前の遺跡で、小高い丘の上に重さ16トンものある巨石が並べられています。近くには人の住んだことを示す証拠はなにも発見されておらず、おそらく宗教的な施設であっただろうと考えられています。同じくトルコにはチャタル・ヒュユクという有名な遺跡があります。9500年ほど前の遺跡で、約8000人の人が住む集落です。しかし、一人一人が“自分だけのこと”をしており、社会的な分業がなされてはいなかったようです。したがって、歴史学者はこれらを“都市”とか“町”とはみなしていません。また、ヨーロッパにはストーン・サークルと呼ばれる巨石遺跡があります。特に南イングランドにあるストーン・ヘンジが有名です。5000年~4000年前の遺跡で、宗教的儀式のための施設だと考えられています。ストーン・ヘンジは夏至の日の観測など、天体観測に用いられたことが知られています。
ここで、古代の人々が「数」をどのように捉えていたかを考えてみましょう。ストーン・サークルにはピタゴラスの定理※が隠されている、という説があります。これは、ファン・デル・ヴェルデンという有名な数学者が唱えた説です。彼は大学で広く用いられた数学の教科書を書いていますが、『古代文明の数学』という本も書きました。その中で彼は「偉大な発明・発見は一回きりだ」と述べています。このこと自体は納得できるのですが、これを根拠に「ピタゴラスの定理はヨーロッパのストーン・サークルが源泉で、そこから中国やバビロニアに伝わり、さらにギリシアに伝わった」と主張します。しかし、この説は成り立つとは思えません。一番大きな障害は、 新石器時代には文字がなかった ことです。文字(記号)がないと、100以上の数の概念が生まれません。ピタゴラスの定理には掛け算か、あるいは面積といった概念が必要となりますが、はたして新石器時代の人はこういった概念を必要としたのでしょうか。必要のないところに発明や発見は生まれないと思われます。
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文明とともに進歩した数学
数学はこれまで他の学問と切り離して議論されてきました。不要なものを切り捨て純粋な推論だけで議論できることは、数学特有の利点でもありますが、議論が抽象的になり無味乾燥なものとなってしまいます。道具の話ばかりして、どのような作品ができあがるのかを述べないと、多くの人の興味を惹きつけることができません。 数学も文化の重要な一員であり、文明の発展とともに進歩してきました 。本連載では、石器人の線刻から、シュメールの小石「トークン」までを述べました。
しかしこれはまだ『数の発明』のほんの序章にすぎません。『数』の概念は次のように発展していきます。
自然数、分数、小数、比の理論、負の数、実数、虚数、…
現代数学は、さらに広い意味のいろいろな“数”を扱います。歴史の中で数と数学がどのような役割を演じてきたかを見ると、数学をもう少し身近なものと感じられるようになるかもしれません。
心のふるさと、メソポタミア
どんな天才でも過去の知識を基にしています。ニュートンは「自分は巨人の背に乗った子供にすぎない。私が少しでも遠くを見ることができたのは巨人のせいだ」と述べています。巨人とは過去の知識で、ニュートンは古代ギリシアの幾何学だけでなく、当時発達した最新の科学の結果を貪欲に吸収していました。また、 どんな文明も過去の文明の影響なくしては発展できません 。これまでヨーロッパ文明が急速に発展できたのは、古代ギリシアの学問の伝統があったためだと考えられてきましたが、最近では古代オリエントの影響があったことも再認識されるようになってきました。
オリエントとは、古代のエジプトやメソポタミア地方のことをいいます。この地方に世界最古の文明が興り栄えていました。 ギリシア文明の千年以上も前に、オリエントですでに数学が生まれ発達していたのです 。ギリシア文明の始まろうとする紀元前6世紀になっても、オリエントはなおギリシアより進んでいました。しかし、オリエントの遺跡の発掘が始まり、オリエントの数学がどんなものであったかが分かってきたのは最近のことで、近世(19世紀まで)のヨーロッパの人は、エジプトやメソポタミア地方でどのような数学が発達していたかを知りませんでした。したがって、ギリシアが数学の源泉だと考えていたのは無理からぬことだと思います。現代の数学はヨーロッパで発達し、ヨーロッパの数学はギリシアの数学を手本にしてきました。私たちも、ヨーロッパから数学を学んできましたから、数学はすべてギリシアから始まると思ってきました。
メソポタミアはヨーロッパのキリスト教徒にとって心のふるさとでした。子供のころから教会で聞かされるノアの箱舟やバベルの塔の物語にはウルク、バビロニア、ニネヴェ、カルデアなどといったエキゾチックな古代都市や国が登場し、思い描くメソポタミアは神秘に満ちた「エデンの園」そのものだったのです。18世紀になると西ヨーロッパの人々は探検や観光のためメソポタニアを訪れるようになります。荒れ果て砂漠に埋もれたバビロンの遺跡や聖堂(ジグラット)、岸壁に刻まれた不思議な文字などに心を奪われました。19世紀に入るとメソポタミアで発展した楔形文字の解読が始まります
20世紀になるとイギリス、フランスなどによって本格的に発掘調査が行われるようになりました。多くの美術品や巨大な建造物が発見されるたび、そのすばらしさに多くの人が目を奪われ、楔形文字の解読が進むにつれて、この地にかつてきわめて高度な文明が存在していたことが再認識されるようになってきたのです。メソポタミアで発展した数学や天文学とはどのようなものだったのでしょうか。次の連載では古代オリエントに焦点を当て、バビロニア数学とはどのようなものだったのかを詳しくみていきたいと思います。文明の扉を開けた人類が、長い年月をかけて「数の概念」そして「数学」を発展させていった歴史を辿ってみましょう。
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