ヨハネス・ケプラー とは?
ヨハネス・ケプラー(1571–1630)は、ドイツ出身の天文学者・数学者で、「ケプラーの法則」で知られています。
彼は観測データと数学的分析を駆使して、惑星の運行に関する規則性を発見し、天文学と自然科学の発展に大きく貢献しました。
時代背景 ヨハネス・ケプラー が活躍した時代はどんな時代?
ケプラーが活躍した16〜17世紀は、ヨーロッパで科学革命が始まった時代です。
古代ギリシア以来の天動説(地球中心の宇宙観)に代わって、地動説(太陽中心説)が提唱され始め、自然現象を数学的に理解しようとする動きが本格化していました。
ケプラーの研究は、この新しい時代の中心的存在でした。
周辺背景 ヨハネス・ケプラー が活躍した国とその周辺情報
ケプラーが生涯を過ごした地域は、現在のドイツにあたる神聖ローマ帝国の一部でした。当時の神聖ローマ帝国は多くの都市国家や領邦に分かれ、宗教改革の影響でカトリックとプロテスタントの対立も激しい時代でした。こうした不安定な社会状況の中でも、ケプラーは学問に身を捧げ、数々の業績を残しました。
天文学とケプラー
ヨハネス・ケプラーは、現在のドイツにあたる神聖ローマ帝国の小都市で生まれました。彼が育った地域は、美しい自然と農村風景に恵まれていましたが、一方で16世紀の宗教改革の影響を大きく受けており、プロテスタントとカトリックの対立が社会に深く根を下ろしていました。ケプラー自身は敬虔なプロテスタントとして育ち、宗教的信念と科学的探究心を併せ持った人物でした。
彼が活動した16〜17世紀は、「科学革命」と呼ばれる大きな転換期でした。長らく信じられてきた天動説(地球中心説)に対して、コペルニクスが地動説(太陽中心説)を唱え、続くガリレオ・ガリレイが望遠鏡による観測でその正しさを支持する証拠を示しました。天文学は大きな変革を迎えていたのです。
こうした時代においてケプラーは、数学と観測データをもとに天体の運行に規則性を見出し、「ケプラーの法則」として体系化しました。彼の仕事は、単なる理論にとどまらず、観測と数学を結びつける実証的な科学の基礎を築いた点で、近代天文学の礎となる画期的なものでした。
ケプラーの法則
ケプラーは、天文学者ティコ・ブラーエが集めた膨大な天文観測データを用いて研究を進めました。ティコが亡くなった後、彼のデータを引き継いだケプラーは、これをもとにして「惑星の法則」を発見しました。その中でも特に有名なのが、「ケプラーの法則」と呼ばれる3つの法則です。
1. 楕円軌道の法則
ケプラーは、惑星が太陽の周りを楕円の形をした軌道で回っていることを発見しました。それまで惑星の軌道は「円」と考えられていましたが、ケプラーの観測によって軌道が少しつぶれた形の「楕円」であることがわかりました。
2. 面積速度一定の法則
ケプラーは、惑星が太陽の近くに来ると速く動き、遠くに行くと遅く動くことに気づきました。この法則によって、惑星が軌道を通る際に動くスピードの変化が説明されるようになりました。
3. 公転周期の法則
ケプラーは、惑星が太陽から遠いほど太陽の周りを一周するのに時間がかかることを発見しました。例えば、地球よりも遠くにある火星は地球よりもゆっくりと太陽を回っています。この法則のおかげで、惑星の公転周期と太陽からの距離との関係が明確になりました。
ケプラーとプラトン立体
ケプラーは神秘論者で、この宇宙は神が幾何学を用いて創造したに違いないと考えていました。当時知られていた惑星は、水星、金星、地球、火星、木星、土星の6つでした。「どうして惑星はこの6個なのだろう? これは、プラトンの立体が5個であることと関係があるに違いない」と彼は考えました。
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ケプラーからニュートンへ
ケプラーは同時代に活躍しガリレオ・ガリレイ やアイザック・ニュートンと共に科学に対する認識を一変させ、今日の科学技術時代に通じる道を切り開きました。
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