11.文字の発明

『数の発明』は全12記事からなるWeb連載です。

文明にとって、もっとも重要な必須要素はやはり文字と言えるでしょう。文字が生まれてから後の時代を、有史時代とか歴史時代といい、文字が生まれる前の時代を先史時代といいます。文字があれば記録が残り、史料となります。 今回は文字の発明に焦点を当て、歴史を紐解いてみましょう。

本連載では人間の思考について考えてきました。思考は言葉によってなされます。したがって、本当に重要な要素は言葉、すなわち言語かもしれません。しかし言語は文字化されなければ後に残りません。ですから先史時代の言語については確かなことはなにもいえず、推測にすぎません。旧石器時代、人びとは家族単位で行動していました。したがって言語もそれほど発達していなかったと思われます。家族内では言葉がなくても意思は通じますから。

言語が発達し始めたのは新石器時代になって人々が集住し始めてからではないかと思われます。新石器時代に入ると、世界の各地で多くの民族が生まれます。民族を特徴づけるのは言語です。私たち素人が歴史を学んで面喰ってしまうのは民族の多さです。私たち日本人は、江戸時代の終わりまで民族というものをあまり意識せずに暮らしてきましたし、現在まで一度も他民族による支配を受けたことがありません。ですから、世界史が民族間の確執によって動かされてきたこともなかなか理解しにくいと思います。20世紀まで人類は民族意識と民族間の差別意識に囚われてきました。21世紀に入って、歴史の見方もずいぶん変わってきたように思われます。

文字の発達

シュメールの古拙文字

文字はどのように発達したのでしょうか。最初の楔形文字は、紀元前3200年頃のシュメールの遺跡から発掘されています。これらの文字は古拙文字と呼ばれるもので、すでに抽象的な記号化されたものでした。それに先立つ紀元前3500年頃の遺跡からも、多量な粘土板が出土されていますが、ここでも円とか十字といった幾何学的記号が多く含まれていました。これに対し、文字の初期段階と思われる絵文字(ピクトグラフ)は、シュメール以外にも肥沃な三日月地帯を含むいろいろな地域で発見されています。つまり、

    絵文字 ⇒ 古拙文字 ⇒ 楔形文字
と発展していくと考えられるようになったのですが、シュメールを文字発祥の地と限定することはできなくなってきました。このことより「どんな文化もそれ以前の文化の影響を受けて発展してきた」ことが分かります。紀元前4000年頃には、肥沃な三日月地帯を含むオリエント世界で、広範囲な交易がなされていて、言語の異なる民族間でのコミュニケーションのために絵文字が必要だったのかもしれません。

こういった状況をよく「同時多発的」と表現されることがありますが、やはり「発明・発見はまれにしか起きない」のかもしれません。誰かが文字を使い始めると、それをまねすることは簡単なのですから。 

計算玉トークン

しかし前回の〔10.シュメールの小石〕で述べたように、「絵文字から楔形文字が生まれた」ということでは説明できないことがらが出てきたのです。つまり、絵文字の前段階である計算玉(トークン)の存在です。粘土で作られた計算玉には、数えるものの種類(家畜や食物や製品など)を表す記号が刻まれていました。この記号がやがて絵文字に進歩したと考えられるようになったのです。この記号を並べることによってそのものの数を表すようになります。つまり計算玉(に書かれた記号)は「数字」としての機能を持っていたのです。図式的に表すと次のようになります。             

文字の発明

   

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楔形文字の歴史

メソポタミアの民族

シュメール人の発明した絵文字は数百年の年月をかけ体系化され、楔形文字として発展していきます。その後の文字の発展をみるために、ここでメソポタミア地方の民族について概略を述べておきます。民族は大きく分けて次の3つからなります。

  セム語族、印欧語族、その他


各語族でこの記事で言及するのは次の民族です。

  セム語族:アッカド人、バビロニア人、アッシリア人、フェニキア人、アムル人、アラム人

  印欧語族:ペルシア人、ギリシア人、

  その他:シュメール人
もちろんこれ以外にもとても多くの民族がいるのですが、ここではこれぐらいにしておきます。

   

メソポタミアの地理:アッシリアとバビロニア

メソポタミア地方の地理を確認しましょう。メソポタミアは、現在のイラクの首都バグダッドを境にして、北部をアッシリア、南部をバビロニアといいます。バビロニアにはさらにニ分され、北部をアッカド、南部をシュメールといいます。バビロニアという語は、巨大都市バビロンからきています。バビロンを首都とする王朝がいくつも登場します。上のセム語族の中でバビロニア人と書きましたが、これらの王朝の民族をまとめてバビロニア人としました。

   

メソポタミア地図

   

楔形文字の特徴

シュメール人が発明した楔形文字はとても有利な特徴を持っていました。メソポタミアは農作物以外は何の資源もありませんでしたが、粘土は有り余るほどありました。粘土はとても安価な筆記用具となります。半乾きの粘土版に葦のペンで簡単に記号が書けます。葦もまたどこにでもあります。粘土板は乾くと頑丈でかびたりすることなく、乾燥した風土の中でいつまでも原形を保つことができます。特に長期保存したいときは、焼成(しょうせい)して素焼きの板としました。火災によって焼成されたものもあります。粘土板に葦のペンで書く場合、曲線よりは葦の切口を押し付けたり引っかいたりする方が簡単です。

エジプトのヒエログリフ

シュメールで発明された文字は、やがてメソポタミア全域に伝わっていきます。絵文字の段階で伝わったものもありますが、楔形文字として伝わったものもあります。特に注目したいのはエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)です。エジプトでは王朝時代が始まる前後、シュメールと交流があったことは、シュメールの特産品である円筒印章などがエジプトから出土していることから明らかです。エジプトの聖刻文字は象形文字(絵文字)なのですが、発展段階を()ずいきなり完成された形で表れています。これらのことから、エジプトの聖刻文字はシュメールの影響があった可能性があります。エジプト以外で発見された文字も、それぞれの言語特有の記号が使われていますが、「文字で記録する」ということさえ理解できれば、まねをすることは簡単です。

   

シュメール語とアッカド 語

シュメール語の初期の文字は一つ一つの文字がある事物を表すもの、各文字が決まった意味を持つ表意文字でした。シュメール語は日本語と同じように語の形が文法の機能によって変化することはありません。文字を単に並べるだけで文となり、その意味が表せます。シュメールの北隣りにはアッカド人が住んでいました。アッカド語はセム語で、語形が変化します。アッカド人はシュメールの文字体系をアッカド語に適用するのに非常に苦労したと思われます。

やがて各文字はその文字が表す事物だけでなく、その事物が表す言葉と結びつき、その言葉のと結びつきます。つまり、文字は表音文字となります。このことによって文字は飛躍的に進歩します。文字が音を表すなら、どんな事物でも文字で表すことができ、使える語彙の数も大幅に増加します。アッカド語のようなシュメール語以外の言語にも適用できるようになります。  

   
シュメールの遺跡で見つかった粘土板文書は、そのほとんどが経済の記録です。都市国家を運営管理するためには膨大な記録が必要でした。農作物は国の中心にある神殿に集められ、再配分されます。農地の分配には土地の測量が必要であり、運河の掘削には、掘り出される土の量や人員の計算が必要です。公共的な大組織である国家には、こういったことをすべて記録する記録システムと書記(官僚)が必要でした。

   

やがてシュメールは、隣接するアッカド王朝によって統合されます。アッカド王朝になってもシュメールの文化やシュメール語は尊重されます。アッカド王の娘エンヘドゥアンナは、シュメール語を母国語のように扱い、シュメール•アッカドの統合を高らかに歌い上げる詩歌を作り父王の業績を讃えています。古代では文学作品の作者はほとんどの場合不明なのですが、この王女の場合は例外で、以後メソポタミアの王家の王女の間であこがれの的となりますが、この王女に匹敵する文才の持ち主は現れることはありませんでした。アッカド語はこれ以降千年以上もの長きに渡りメソポタミア全体の公用語として使われるようになります。しかし、シュメール語が消滅したわけではありません。シュメール語は学術語、宗教用語として使われ続けます。

アッカド王朝の後、バビロニア地方では多くの王朝が興亡します。多くの場合、周辺の蛮族が文化の進んだ王朝を乗っ取るといった形を取ります。新しい王朝は前の王朝の文化を尊重し、引き継ぎます。神官階級や書記(官僚)階級に属する人々はそのまま引き継がれることが多かったのではないかと思われます。彼らの力がないと、国の運営が続かなかったからでしょう。

   

楔形文字は次第に、経済や行政の記録だけでなく、叙事詩や神話などの文学、私的な手紙などいろいろな目的で使用されるようになります。宗教的行事、天文学(占星術)などは依然としてシュメール語が使われていました。シュメール語とアッカド語を対照した語彙リストは書記学校の練習教本として使われていました。この語彙リストは、オリエントの広範な地域の多くの国々で、千年以上の長きに渡って使われました。これらが同じものを基にしていたということは、単語の並び順から分かります。後代になると、かなりの数の語彙が何を意味するのか分からなくなっていたと思われますが、削除されることはなかったようです。

数学や天文学(占星術)の基本的部分はシュメール時代にできていたようですが、その後も発展し続けたと思われます。問題の解き方などの細かい説明はアッカド語ですが、計算などの部分はシュメール語で書かれていました。
バビロニア地方はその後も繁栄を続けるのですが、紀元前2000年を超えるころにはオリエント一帯は国際化し、エジプト、アナトリア(現在のトルコ)、アッシリアなどの大国が覇権を争い、もはやバビロニア地方だけで議論することができなくなっています。以下では、文字だけに焦点を絞り、その後文字がどのように進歩していったかを見てみましょう。

文字の発展

ウガリット文字

地中海の東岸地方は太古の昔からセム語系の民族が住んでおり、多くの都市や王国ができていました。なかでもシリアの海岸にできたウガリットと呼ばれる貿易都市が有名です。ウガリットの人たちは、当時の多くの知識人と同様、古代のバビロニアに伝わる知識を吸収することに熱心で、古代の楔形文字を熟知していました。ウガリットは貿易で栄えた都市で、多くの民族が行き交い、ありとあらゆる言葉が話されていました。そういう人たちとの取引では、契約書や請求書や書簡などを書き留める必要があり、そのためには相手の言葉を転写できるような文字を必要としたのです。そこでウガリット文字と呼ばれるたった30個からなる楔形文字を考え出します。ウガリット文字は発音を表すためだけの音素文字でした。

日本語の「か」「き」「く」 … は 「ka」「ki」「ku」 … と「子音+母音」の形で表されます。この形を音節といいます。日本語の文字は“表音文字”ではありますが、より正確いうと“音節文字”です。一方、ウガリット文字は、各文字が子音か母音といった“音素”を表す“音素文字”だったのです。

当時、海ではフェニキア人が内陸部ではアラム人が交易を担っていました。両民族ともセム語族です。アラム人はメソポタミアに大挙して移住し始めます。アッカド語は音節文字を使うのに対し、アラム語は音素文字であるアラム文字を使います。ウガリット文字は粘土板に書かれましたが、アラム人は重い粘土板の代わりにパピルスや羊皮紙を使いました。アラム人の書記は「皮に書く書記」と呼ばれていました。しだいにアラム語はアッカド語に代わって国際語に位置を占めるようになります。

シナイ文字

音素文字は、ウガリット以外にシナイ半島でも見つかっています。シナイ半島は聖書に出てくる有名な場所で、モーセに率いられエジプトから脱出したヘブライ人が立ち寄った場所としても知られており、昔からセム人とは関わり合いの深い場所です。このシナイ半島からシナイ文字と呼ばれる文字が発見されています。ウガリット文字は楔形文字から派生したのに対し、シナイ文字はエジプトの聖刻文字から派生したと考えられています。

地中海の東海岸のセム語族の中に、後にギリシア人に大きな影響を与えることになるフェニキア人がいます。ギリシア人はフェニキア人から文字を学びました。その時期は紀元前8世紀ごろとする説が有力ですが、紀元前10世紀頃にさかのぼらせるべきだと主張する人もいます。

フェニキア文字がウガリット文字由来なのか、あるいはシナイ文字由来なのかについても議論がありました。フェニキア人は海洋貿易をいとなむ海洋民族なので、ウガリットにもシナイ半島にも訪れていましたから、両方の影響を受けたものとみられることもありました。しかし文字の形や文字の並び順から、ウガリット文字が発展したものという見方の方が有力のようです。

20世紀まではメソポタミアの文字に対する研究結果が一般にはあまり知られていなかったので、ヨーロッパの国々のアルファベットは、ギリシアからローマを経て伝わったものだと思っていました。しかし、ギリシアの前にフェニキアがあったのです。ギリシア文字がフェニキア文字に由来することはほとんど明らかです。英語のアルファベットでは、文字の順が A, B, C, …, Z と決まっています。フェニキア文字とギリシア文字は、この文字の順序を含めてよく対応が付きます。英語の「アルファベット」という語は最初の2文字のことで、ギリシア語だと「アルファベータ」、ヘブライ語だと「アルフベートゥ」となります。ちなみに古代ギリシア語ではアルファベットは「ストイケイア」(これ以上分解できないもの)と呼んでいました。

このようにして、シュメールで発明された楔形文字はメソポタミア全域に伝わり、ウガリッド文字からフェニキア文字、さらにはギリシア文字へと受け継がれていきました。人類は文字を発明することにより、情報を文字で記録し、他の地域や後世に伝えることができるようになったのです。文字の存在がなければ、100以上の数の概念が生まれることはありません。文字が生まれたことにより、数学をはじめとする様々な文化が発展するための土台が築かれたのです。

『数の発明』は全12記事からなるWeb連載です。

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