最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.3]:最後の魔術師

最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.3]:最後の魔術師

【最後のバビロニア人『ニュートン』のお話】は全4記事からなるWeb連載です

前回の記事はこちら 最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.2]:落ちるりんご

ニュートンは有名人ですから多くの伝記が書かれてきました。これまでの伝記の多くは“偉人伝”で、親類とか親しい友人、ニュートンの場合は教え子などからの聞き込みによるもので、美化され必ずしも本人の実情を伝えるものではありません。現在の法廷では“伝聞証拠”といい、証拠能力があまりありません。しかしニュートンは膨大な数の文書を残しています。ちょっとした計算や覚え書きなどもノートに記していて、これらは客観的証拠となります。ニュートンの死後、これらの遺稿の詰まった箱を調べた主教は、その内容があまりにも異端的で悪魔的だったため、あわてて箱を閉じたといいます。これらの文書は近親者から委託されたポーツマス伯爵家が代々保管してきましたが、1936年に競売にかけられます。資料の散逸を恐れた経済学者ケインズとユダヤ人学者ヤフダが落札し、これらは現在ケンブリッジ大学とイスラエルの図書館に所蔵されています。ニュートンの実像を研究したケインズはニュートンを「最後の魔術師、最後のバビロニア人、最後のシュメール人」と呼んでいます。

17世紀の錬金術

錬金術とニュートン

ニュートンは、研究生活に入ったごく初期の段階から、おそらく20代の後半から錬金術占星術や聖書の研究に取り組んでいます。ニュートンの研究者の多くは、ニュートンは生涯の長い期間まったく無駄な時間を費やしており、もし彼が周囲の学者たちと交流をもっていたなら、こういった誤った道にははまり込まなかっただろうといっています。また、彼は錬金術の研究をひた隠しにしていたとも述べています。しかしこれは間違っています。当時の化学者はみな錬金術師でしたし、ニュートンがこれを公表しなかったのはニュートンの性格によります。あとで述べるように、秘密にしていたわけではなく公表していたものもあります。

現代化学の父、ロバート・ボイル

17世紀は科学革命の時代なのにと不審に思われるかもしれませんが、この時代、意外にも錬金術が流行(はや)っていたのです。ニュートン以外に、偉大な錬金術師と呼ばれている人がいます。現代化学の父と呼ばれているロバート・ボイルです(ボイルはフックの指導者でした)。当時イギリスでは錬金術は禁止されており、これを行ったものは死刑に(しょ)されていました。これは錬金術があやしげな行為と見なされていたからではなく、むしろその逆で、錬金術によって金が作られたら国家の経済が混乱すると見なされていたからです。ボイルは王室に影響力を持っていて、錬金術を合法化させます。ただし、錬金術で得た金はすべて王室のものとなるように法律を設定しています。

錬金術による影響

ニュートンは物理学や数学よりも錬金術に時間と情熱を注ぎ、費用をかけて実験室を作り、蔵書を集め、膨大な記録を残しています。ニュートンは50代のとき一時精神錯乱になったことがあります。後世いろいろな説が出ていますが、有力な説の一つに水銀中毒説があります。錬金術の目的は卑金属から金を合成することのほかに、“賢者の石”と呼ばれる不老不死の妙薬の研究もありましたから、いろいろ試したのでしょう。ニュートンは長寿を全うしました。直接の死因は膀胱結石のようですが、重い肺炎など錬金術師特有の病を患っていたようです。何百年もののちニュートンの遺体を調べたところ、髪の毛からは通常人の10倍もの水銀が含まれており、また金、ヒ素、鉛、アンチモンも通常値を越えていたといいます。実験室に一人こもり研究を続けることは精神衛生上からもよくありません。53歳のとき教授を辞め造幣局に移ったのも錬金術による心身症のためだったのかもしれません。

神秘主義

科学革命というと、中世の迷信や古い宗教観と決別し、すべてが理性的な根拠に基づいた科学の時代を思い浮かべます。しかし意外に思われるかもしれませんが、ルネサンス期から17世紀にかけては、中世よりも、錬金術、占星術などの神秘主義が隆盛(りゅうせい)を極めていました。ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の数学者はみな占星術師でした。ケプラーも占星術で稼いでいましたし、王家専属の占星術師にも就任しています。ガリレオが最初に大学に就職できたのも占星術のおかげです。当時の大学の医学部は(手術の日を決めるなどのために)占星術が必須だったからです。当時は、バビロニア人(カルデア人とも呼ばれた)とは、天文学者、数学者、占星術師と同義語だったのです。上で、ケインズはニュートンのことを「最後の魔術師、最後のバビロニア人、最後のシュメール人」と呼んだと述べましたが、ケインズは20世紀の人ですから、「バビロニア人」の意味が当時とは違って、あやしげな魔術師の一種と取っていたのかもしれません。しかし当時、錬金術はアラビアの先端化学であり、占星術はバビロニアの天文学で、ともに高級な学問だったのです。

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ニュートンは宇宙をどのように考えていたか

著書『プリンキピア』

ニュートンの宇宙観はどうだったのでしょうか。『プリンキピア』の初期の版には次のように書かれていました。

星々は最上部に固定されていて、惑星はその下で太陽を中心に回っている。地球も惑星の一つである。これが哲学に専念していた人びとが考えた最も古い考え方だった。エジプト人たちは最も初期の天体観測者であった。哲学はおそらく彼らから発して各地へ広がっていったのであろう。ギリシア人は自然よりむしろ哲学に熱中したが、ギリシア人の哲学概念の源泉となったのはエジプト人およびその周辺の人々であった。エジプト人の精神は今でもウエスタ女神の儀式のなかに受けつがれている。一般庶民の理解を越える英知と神秘は、これらの儀式やエジプトの神聖文字(ヒエログリフ)のなかに隠されている。

この一節は、ニュートンだけでなく17世紀の人々の考え方がどのようなものであったかを伝えています。今では、ウエスタ女神はローマの女神とされていますが、ニュートンはエジプトの女神と見ています。またニュートンは天文学をエジプト発祥だと考えていたようですが、バビロニアの天文学は(ヘレニズム時代には)エジプトに伝わっていましたし、当時のヨーロッパの人々から見ればエジプトとバビロニアはほとんど同じ地方と映っていたと思います。また当時も天文学者としては、古代ローマ時代にアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスが有名でした。現在プトレマイオスはエジプト系ローマ人だったという説をとる人が多いようですが、ニュートンもプトレマイオスをエジプト人だったと思っていたのかもしれません。

天球モデル

注意すべきはニュートンが考えていた世界観です。上で述べられている“宇宙”は古代の“天球モデル”と呼ばれるモデルで、星々(恒星)は天球と呼ばれる球に貼りつけられていると考えられていました。天球の中心が太陽なら地動説、中心が地球なら天動説です。ニュートンは地動説がすでに古代にあったとみています。地動説の本家のコペルニクスも、その著書のなかで地動説そのものは古代ギリシアのアリスタルコスだ、と述べています。また、ケプラーも地動説ですが、宇宙観は天球モデルです。17世紀の天文学の最高峰であるニュートンは、天文学の中心は古代ギリシアではなく古代エジプトだったと述べていることに注意してください。

天球モデルについては 以下で詳しく解説しています▼
Web連載『星空が語る宇宙の不思議』第4回 天球モデル:天体の位置や動きを表す仮想的な球

古代遺跡や神学への関心

ピラミッドの長さに地球の周長が隠されている!?

Web連載:ピラミッドの謎〕で述べたように、ニュートンはエジプトの古代遺跡に傾倒していました。「ニュートンはピラミッドの長さに地球の周長が隠されているに違いないと思っていた」という伝承があります。もちろん、「万有引力の法則」は地球の周長とは直接関係がありません。しかし、地球の直径は、地球と月との距離、地球と太陽との距離などと関係があり、ニュートンが地球の周長に興味を持っていたことは明らかです。またニュートンの時代には、まだプトレマイオスの世界地図が通用しており、その地図には正確な緯度が書かれていました。緯度が正確に測れているということは、地球の周長が正確に測れているということを意味します。ニュートンは、エジプト人が地球の周長を測ったという伝承を知っていたのだと思います。結局ピラミッドの長さからは周長に関する結果は得られませんでしたが、数学的手法を用いてピラミッドの玄室などにおける長さの“比”を計算し、古代エジプトの単位系に関する論文を書いています。〔ピラミッドの謎:1-3.ピラミッドの謎に魅かれた人たち〕参照。彼はソロモンの神殿に使われている古代の寸法「キュビット」も調べています。宇宙を数値で理解したように、古代遺跡を数学的手法で知ろうとしたのです。

年代学の研究

ニュートンは、神学にも興味を持っていて、若いころから旧約聖書の文献学的研究をおこなっています。47歳のとき、『ダニエル書と聖ヨハネ黙示録の予言についての考察』を書いていますし、人生の後半では、古代の年代学に費やし多くの文書を残しています。歴史学では古代から伝わる文書を研究します。聖書は過去に関する重要な情報源で第一級の資料でした。ニュートン以外にも何人もの人が、聖書から天地創造の日付、つまり地球の年齢を導こうとしていました。英国教会のジェームス・アッシャー大主教は、言語の才能と豊富な学識の持ち主で、1650年と1654年に聖書の年代に関する2冊の著書『旧約聖書の年代記』とその続編を出版しました。これらの著作のなかでアッシャーは、天地創造の日を紀元前4004年10月23日の前日の夕方とつきとめました。のちにニュートンも同様の解析をし、アッシャーの結果にお墨付きを与えています。ニュートンはまた、世界の終末を予言しています。何度も計算をし直し、その結果は2060年から2344年のあいだとなっています。現在地球は温暖化が進んでいますから、ニュートンの予測は当たるかも知れません。ちなみにケプラーは、天地創造の日を紀元前3992年としています。天文学者のお墨付きもあり、1700年以降の欽定(きんてい)訳聖書にはアッシャーの年代記が脚注に載せられるようになりました。また、ヨーロッパの知識人は地球の年齢は約6000歳だと認識するようになります(現在では地球は46億歳、宇宙は137億歳となっています)。

ニュートン の信仰心

錬金術とか占星術など現在から見ると異端とも思える研究をおこなっていたニュートンですが、彼の信仰心はどうだったのでしょうか。実はニュートンは熱烈なプロテスタントでした。中世キリスト教学においては、神の存在を理論的に証明することを「神の存在証明」と呼んでいて、ニュートンは科学的数学的手法をもってこれを行おうとしていました。ニュートン自身、「神は言葉と御業(みわざ)の両方を通じて自らの存在を示そうとしておられる。宇宙の法則を研究することは神を研究することにほかならない。宇宙の研究に対する熱意は宗教的熱意の一つなのだ」といっています。ニュートンにとっては占星術も天文学の一分野であり、錬金術の実験も神の定めた真理を知る道の一つでした。彼は「万有引力の法則」で宇宙の法則を美しく表しましたが、「重力とは何か」、「なぜこのような美しい式が成立するのか」という根本問題については、「それこそ神の存在証明である」としか語っていません。現在では、引力(重力)の発見は、20世紀最大の物理学者アインシュタインと見なされています。科学は進歩し、それまで真実と思われていたものは“迷信”となります。細菌が発見される19世紀になるまで、病気や疫病の原因は天変地異とか呪いとか運命と考えられていました。錬金術もやがて、現在の科学とはまったく異なる非科学的なものと見なされるようになり、「卑金属から金を作る」ことは嘲笑の(まと)になります。しかし1980年、ビスマスという金属元素が金に元素変換されています。莫大な費用をかけ何億分の1グラムという微量の金が得られたのですが、錬金術は可能であることが示されたのです。

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当時の宇宙観

科学者達と宗教

ニュートンは現在から見ると異端と思われる研究を数多く行っています。ニュートンは、コペルニクス、ケプラー、ガリレオとほぼ同時代です。ガリレオは宗教裁判に有罪となっています。伝記では、科学者たちは教義をかたくなに守る古い宗教的権威と戦い、迷信に捕らわれない近代科学の扉を開いたと書かれています。

しかし、歴史的記述は切り取り方によって解釈が大きく違ってきます。当時の異端審問は苛烈(かれつ)を極め、とても恐ろしいものでした。魔女裁判では、無実の人がねたみなどで密告されると、たいした審議もされずにすぐ拷問です。自白すれば即死刑、何日も自白しなければ「こんな拷問に耐えることができるのは魔女に違いない」といって死刑となります。ヨーロッパ中で宗教改革や権力闘争の嵐が吹き荒れ、反逆者や犯罪者はすぐに公開の場で首をはねられ、首は腐らないようにゆでられ、街道沿いに立てられた柱に吊るされていました。これに比べるとガリレオの受けた刑は自宅監禁で、きわめて寛大な処置でした。

異端審問会の裁判官たちは神を信じ、神を恐れる人びとで、真理を守ることを建前としていました。彼らが審議していたのは被告の唱える説よりはむしろ被告が彼らの信ずる神を信仰しているかどうかです。神を信じない者は、どんなむごたらしい刑を科しても神から許されますが信心深いものを罰することはできません。ガリレオは前にも宗教裁判で有罪になっていますが、罪状は彼の唱える科学的成果が異端であるからではありません。ガリレオはコペルニクスの地動説を支持するいくつかの証拠を示しましたが、これらは有力な証拠ではあっても「完全な証明」とはなっていません。「完全な証拠でない限り、あたかも事実であるかのように広言するのをやめろ」、というのが判決でした。ガリレオもこれを認め「地動説を公然と唱えない」と誓約しました。異端審問会の有罪判決は、この“誓約”を破ったからです。禁固刑がさらに軽い自宅監禁と減刑されたのですが、それでもこの判決には3名の裁判官が署名を拒否しています。

地動説

地動説とキリスト教の教義に矛盾があり、宗教論争を巻き起こしたことは確かです。しかしこれは、キリスト教にとってたいした脅威ではありませんでした。そのことは、ガリレオもコペルニクスもケプラーもニュートンも敬虔なキリスト教徒であり、地動説によって少しも信仰心に揺らぎがなかったことからも分かります。また、ガリレオ以外誰も異端とされていませんし、ニュートンなどは国葬にまでされています。ニュートンの時代学問にたずさわる人の多くはキリスト教の祭司であり、地動説を支持する天文学者の祭司も増えてきます。科学革命は100年、あるいは150年というゆっくりとした期間で醸成されていきます。宗教と科学の深刻で深い対立は、天文学ではなく生物学で生じます。宗教界との亀裂を生んだのはダーウィンとその継承者たちの“進化論”です。世界中にはいまだに進化論を認めない人が大勢います。その人たちにとって、アッシャー大主教が唱え、ニュートンがお墨付きを与えた「宇宙の年齢は6000歳だ」という説が大きなよりどころとなっています。6000年では進化は無理ですから。

それでも地球は回っている

1992年、人工衛星が飛び交う時代になってやっと、カトリック教会の教皇ヨハネ•パウロ2世は「ガリレオの宗教裁判は間違いであった」と認めました。いまごろになってなぜ?この発言の背景には次のような「科学革命の神話」ができ上っていたからのような気がします。

聖書を至上のものとする頑迷な異端審問官は「地動説など異端の証拠だ。この説を破棄しないなら拷問にかけねばなるまい」と脅します。老齢のガリレオは従う以外ありませんが、地動説はガリレオにとって宗教的信条などではなく、たんなる科学的事実です。自説を捨てることなどなんの痛痒も感じませんでした。ただそっと「それでも地球は回っている」とつぶやくのでした。

この話も、ニュートンの「リンゴの話」と似たところがあるように思います。

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