ガリレオ裁判の真相[vol.4]-ガリレオの敵たち
望遠鏡を空に向け、大発見の数々をなしとげ、『星界の報告』という著作を書き上げ、これを有力者たちに送り付け、一躍世界の有名人に躍り出たガリレオは、これをチャンスにトスカーナ大公付きの専属の数学者(占星術師)に就任し、居をフィレンツェに移します(詳しくは ガリレオ裁判の真相[vol.2] 天体の観測 参照)。本節では、ガリレオを取り巻く敵たちとのエピソードや、ガリレオが残した数々の著作について調べてみましょう。
ページ目次
フィレンツェの敵たち
時代背景と科学論争の解釈
当時は階層社会で、貴族たちは、自分たちが権力を独占している根拠・理由を求めていました。手っ取り早い方法は、すぐれた芸術家、哲学者、科学者を仲間に引き入れることです。貴人というものは深い教養と学識を有していて、無学な貧乏人とまったく違った人間なので、敬われて当然だと思っていました。このことは現代の人にはなかなか理解できないかもしれませんが、想像を絶する極端な差別社会だったのです。使用人やメイドたちは、そもそも人間としての格が違うのだから、差別されるのは当然だと考えられていました。
ガリレオは貴族の友人が多くできましたが、ねたむ者や恨みに思う者も出てきます。フィレンツェに移ってから、ガリレオはたびたび好んで科学に関する討論を行いました。討論というよりは相手を嘲笑し打ち負かすといった論争です。こういった論争の描写は、書かれた時代や立場の違いで解釈が異なります。この節では、多くの伝記に書かれている一般の解釈を述べ、次節でこれと異なる解釈について述べます。この時期から、ガリレオは地動説を採るようになります。
「太陽の黒点」に関する論争
1613年、ガリレオは「アペレス」という名の人物が太陽の黒点を発見したという噂を耳にし、アペレスに討論を持ちかけます。アペレスはイエズス会の天文学者、クリストフ•シャイナーだということが明かされます。シャイナーは、黒点がなんであるか説明できず、ガリレオに嘲笑されます。ガリレオはすぐさま、いつものように多くの学者に自分の見解を手紙で知らせ、『太陽黒点に関する論述と手紙』を刊行しています。この著書のなかで、黒点の第一発見者は自分だと主張し、太陽の黒点がコペルニクスの地動説の決定的な証拠になると主張しています。観測の結果、黒点は太陽の表面にへばりついていて、ゆっくりと東から西へと移動しています。これは太陽も地球と同じように自転しているからだ、と考えました。アリストテレスの宇宙モデルでは、月が地球の一番近くを回っており、月の下を「地上界」といい、月の上を「天上界」と呼びます。天上界では万物が、神がお創りになったままの完全な姿のままで、変化することなど決してないとされてきました。ガリレオは次のように書いています。「天上界には変化するものがいくらでもあることは明らかだ。もしアリストテレスが望遠鏡を使えたら同じ結論に達しただろう。太陽は自転し、月には凸凹があり、木星には衛星が回っている。」
『浮遊物体に関する議論』:氷はなぜ浮かぶのか
フィレンツェには、ガリレオの敵と自称する人物がいました。ルドヴィコ・デラ・コロンベといいます。「コロンベ」とはイタリア語で鳩という意味ですから、ガリレオは彼の取り巻きを「鳩の群れ」と呼んで軽蔑していました。あるとき、ピサの一人の教授がコロンベからの挑戦状をもってガリレオのもとへ訪れます。討論のテーマは「氷はなぜ浮かぶか」です。ガリレオは次のように答えました。「私はどんなものからも学ぶ心づもりでいるから、喜んであなたの友人と討論しましょう。」
討論はフィレンツェの有力者を集めて宮殿で行われました。聴衆の中には、コージモ大公とその母親のクリスティーネ大公妃、それに特筆すべきは後の教皇ウルバヌス8世となるバルベリーニ枢機卿がいました。まずコロンベが講演します。「氷は水が凝縮したものであり、水面上の冷たい外気に曝されて薄い板状に凍る。氷が水に浮かぶのはその独特の形状のためだ」と述べます。
それを聞いていたガリレオは怒りを爆発させます。用意した表面に氷の張った水の容器を持ち込み、いつものように実演付きの講演を行います。「これを見ろ、大バカ者め。確かに氷は空気と水の表面に薄い膜としてできる」と言うと、氷を砕き水に沈め手を離します。すると氷の破片は再び水面に浮かび上がりました。次に、用意した黒檀の木片を容器に投げ入れると、木片は水に沈みました。「氷が水に浮かぶのは形状のためではない。氷は水が濃縮されたものではなく、逆に希薄になったのだ。黒檀は木でありながら水より濃縮されているから水に沈む。」
ガリレオは、『浮遊物体に関する議論』を書き、シャイナーはガリレオに対し深い恨みをいだきます。
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宗教界の敵たち
ガリレオとコペルニクス説
ガリレオは天体観測を始めたころから、アリストテレス的宇宙観、特に観察とか実験を否定し、純粋に頭の中だけで思考するアリストテレスの自然学に疑問を持ち始め、コペルニクスの地動説を信じるようになります。自分の発見を印象づけるために、講演には地動説に言及するようになります。あるとき、かつての教え子で当時ピサ大学の数学教授をしているものから、一通の手紙がガリレオのもとに届きます。その手紙には、彼がクリスティーネ大公妃と会話を交わしたとき、令夫人はガリレオの主張する地動説に疑問を持っている、聖書に述べられているヨシュア記の内容と矛盾する、と書かれていました。ヨシュアとはイスラエルのリーダーのことで、ヨシュア記には彼が敗走する敵を追っていた時のことが描かれています。やっとのことで追いつめたとき、敵は闇の中に逃れようとします。それを阻止するために太陽に向かって「止まれ」と命じます。すると神は太陽を御止めくださり、ヨシュアは敵を皆殺しにすることができました。
著書『クリスティーナ大公妃への手紙』
ガリレオにとって絶大な権力を握る大公妃は大切な後援者の一人ですから、支援を失うことはできません。さっそく手紙を書きました。「自然界と神の言葉を述べた『聖書』が矛盾するはずはありません。私たちが自然界において何らかの確実な見地を見出したとき、『聖書』の真の意味を探り、最も適切な解釈をしなければなりません。『聖書』は論証された真理と調和しなければならないからです。」ガリレオは少し偏執病であったのかもしれません。これだけにとどまらず、手紙の内容をさらに膨らませ、「教義と観測が矛盾したら観測を優先すべきだ」と主張する著作『クリスティーナ大公妃への手紙』を出版します。
聖職者たち、特に若いドミニコ会の司祭たちはこれに黙っているはずはありません。『聖書』のこと、神のこと、天界のことは教会の専従事項です。司祭トマッソ・カッチーニは、ヨシュアの偉大な奇跡はすでに確立された教義であって、「太陽が止まった」と書いてある以上「地球が止まった」などとは解釈できない、と説きました。また、司祭ニッコロ・ロリーニは異端の証拠として、『クリスティーナ大公妃への手紙』をローマの宗教裁判所に提出しました。宗教界は騒然とします。教皇パウルス5世は、異端審問所の枢機卿たちに調査を命じます。
コペルニクス説は異端、著書は禁書に
ガリレオは状況を甘く見ていたようです。4年前、法皇をはじめローマキリスト教会はガリレオを熱狂的に受け入れ、ベラルミーノ枢機卿も彼の成果を好意的に理解してくれているはずです。すぐさまローマに赴き、弁明すべきだったのです。しかし、あいにく彼は病気のせいで何ヵ月も家から出られなかったようです。やっと彼が宗教裁判所に出頭したのは 1615年の後半のことです。ガリレオが出頭するまでのあいだ、バチカンの委員会はコペルニクスの学説を検討していました。そして、「コペルニクス説は異端であり、その著書『天体の回転について』は禁書にする」という結論に達します。1616年の2月に下されたバチカンの決定は「コペルニクス説は異端である。よってこの説を援護したり論じたり出版することを禁ずる」というものでした。
数学は神の母語である
著書『贋金鑑識官』
しばらくの間、ガリレオはバチカンの決定を守っていました。というよりは、再び病がぶり返し、病床に臥していたのです。1618年の後半期、夜空に3つの彗星が輝いたときも、観測する体力もありませんでした。この彗星を、ローマ大学の高名な数学教授、ホラティオ・グラッシ神父も観測していて、1冊の本を出版しこの彗星の存在はコペルニクス説が誤りであることを示す証拠になると論じたのです。この出来事はまたもやガリレオの闘争心に火を付けました。1623年、有名な著作『贋金鑑識官』を刊行します。
「数学は神の母語である」とは
数学史に燦然と輝く金言「数学は神の母語である」という言葉はこの著書で語られ得ています。まずその内容を見てみましょう。
「自然哲学は、私たちの目前に広がるこの宇宙という書物の中に書かれています。しかしその書物を読み解くには、その言語と文字を学ばねばなりません。その言語とは数学であり。文字とは円とか三角形といった幾何学図形なのです。これを知らなければ、人はひとことも理解することはできず、ただ暗い迷路の中をさまよい歩くだけです。」
またこの本の『贋金鑑識』とはなんと思わせぶりなタイトルでしょう。科学者たるものは既存の古い学説に縛られることなく、新発見がされるごとにその真偽を判定できなければならない、贋金鑑識官のように。このタイトルは、旧来の説を保守してコペルニクス説を認めようとしない人々を暗に揶揄しているようにも感じられます。
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それでも地球は回っている
『二大世界体系に関する対話(天文対話)』の執筆
ガリレオはこの本が教会の反感をかわないように、自分の発見したこと一つひとつに聖書の言葉に結びつけました。さらに、この著書をウルバヌス教皇に献じ、バチカンに送り承認を得ました。ウルバヌス教皇は昔から支援してくださっているし、批判も起きなかったことから安心したのでしょう、またもや持ち前の闘争心に火がつきその後5年間新たな執筆活動に入ります。完成したのが『二大世界体系に関する対話』(通称『天文対話』)です。簡単に内容を紹介しましょう。
この著作は学術語のラテン語ではなく、平易なイタリア語で書かれています。また、3人の登場人物が現れ会話型で話が進行します。まさにガリレオの文才が発揮された名作です。一人は新鋭の科学者サルヴィアチ、二人目はアリストテレス主義のシンプリチオ、三人目は裕福で機知の富む貴族のザグレドで、二人の意見を聞き質問をし意見の補足をし、議論のきっかけを作って話を進めます。二大体系の一方はコペルニクス体系、もう一方はアリストテレス体系で、見た目にはどちら側にも肩入れしていないように、読者がどちらの意見でも取ることができるように書かれています。
1629年、ガリレオはローマへ赴き、教会の許可を求め、ウルバヌスに謁見し、大きな支障はないと確信します。1632年、トスカーナ公国からは出版許可が出ますが、教皇庁からはなかなか許可が下りません。やっと許可が下りた時には、序文と末尾に「コペルニクス説は仮説である」という断り書きを付けるように要求されます。
異端審問
本が出版された当初は、本の評判もよく何事もなく過ぎました。やがてイエズス会の修道士の中から激怒するものが現われます。この本を読めば誰にでも、地動説のサルヴィアチはガリレオで、シンプリチオは天動説の教会側の人間を指していることが明らかです。さらに、シンプリチオという名前には「単細胞」とか「愚か者」という意味が含まれているようです。そうこうしているうちに、シンプリチオは教皇を指しているのでは、といううわさまで広がります。
1633年、ガリレオはローマに召喚され異端審問に懸けられます。ある伝記によると、ガリレオは立ち並ぶ拷問器具を見て震えあがったと記されています。当時、異端と判定されればすぐさま死刑です。ガリレオはいやおうなしに誤りを認め宣言するように強要されてしまいます。ガリレオは次のように宣言しました。
私ことガリレオ・ガリレイは、高貴な枢機卿様および異端の罪を問う審問官様の前にひざまずいております。… このたび検邪聖省より地動説を唱えていることは強い異端の疑いがあると糾弾されました。この説のことで私に不信を抱かれた猊下および敬虔なキリスト教徒である皆様に対し、疑いを晴らすことを強く望んでいます。この説を根拠もなく説いたことは私の誤りでございます。この異端の教えを放棄し、嫌悪し、今後この説を口頭においても著述においても、いっさい疑いを抱かせるような表現をしないことを誓います。
判決は、終身自宅監禁でした。心配して結果を待ち受ける弟子たちのもとへ、憔悴しきったガリレオが戻ってきました。聞き取れないほどの小声でこうつぶやくのでした。
「ジョルダーノ・ブルーノは宗教的信念から信ずる説を捨てられず処刑になった。しかし私は科学者だ。いくらでも説など捨てられる。それでも地球はまわっている。」
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