ガリレオ裁判

ガリレオ裁判の真相[vol.5]-ガリレオは地動説を証明したのか?

これまでのあらすじ

はじめに、これまで語られてきたガリレオ裁判のことを復習しておきましょう。ガリレオの時代、ヨーロッパは大航海時代も後半に入っていました。新大陸やアジア各国では植民地化が進んで、新発見や新情報がどしどし入ってきます。もはやだれも、「世界は平たんで、世界の果ては海の終わり、海の水は滔々(とうとう)と奈落の底に落ちている」などとは信じていません(アリストテレス説にはこのような宇宙平坦説もあります)。地球は球で、ぽっかりと(ちゅう)に浮かんでいると認識するようになります。そこにガリレオが現われ、望遠鏡を空に向け、月のあばた木星の衛星など次々と新発見をします。とうとうガリレオは、「地球は太陽のまわりを回っている」という驚愕の「コペルニクス説」を唱えるようになります。聖書と異なるこの説に、ローマキリスト教徒の人々は頭を抱え、協議し、コペルニクスの著書を禁書に指定します。ガリレオは宗教裁判所に呼び出され、「コペルニクスの著作は禁書となった。これを正しい説と論じたり、著作してはならない」と命じられます。しばらくガリレオはこの命令に従っていましたが、頭の固いアリストテレス論者が我慢のならない説を論じたのです。1618年夜空に彗星が現われると、ある天文学者の神父が彗星の存在はコペルニクス説に矛盾する、と言いだしたのです。これに対し怒りをたぎらせガリレオはまたもや論争に巻き込まれていきました。さらにこれに続いて『天文対話』を執筆しその中で、登場人物にアリストテレス説支持者とコペルニクス説支持者に分け討論させます。前の宗教裁判で地動説を支持する著作は禁じられているにもかかわらず、地動説を支持するサルヴィアチは聡明に描かれているのに対し、天動説を支持するシンプリチオは愚鈍に描かれています。1633年ガリレオは再び宗教裁判所に召喚され、判決は有罪となりました。以上がガリレオ裁判のあらましです。

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彗星の存在はコペルニクス説に矛盾する

年周視差

前節(ガリレオ裁判の真相[vol.4]-ガリレオの敵たち)で述べたガリレオの論争について見てみましょう。グラッシ神父が彗星の存在はコペルニクス説に矛盾するという説を述べたことです。コペルニクスはアリストテレス説と同じで天球上の星々は不変だと考えていました。おそらくガリレオは病気で、これらの彗星を観察していなかったのでしょう。彗星は月下の現象で、虹と同様の気象現象だ、と論じたのです。「天上界には不変でないものはいくらでもある」と論じたガリレオらしくない発言です。恒星が天球に貼りついているという天球モデルは、コペルニクス説の重大な欠陥なので詳しく見てみましょう。 私たちは両目でものをみることによって距離が判断できます。左目で見た像と右目で見た像が違うからです。もし地球が太陽のまわりを回っているとしたら、ある星をある日に見た角度と、それから180日後に太陽の反対側に来た時にその星を見た角度とは違うはずです。これを年周視差といいます。もちろん恒星は遠いところにあるので年周視差など識別できないのですが、コペルニクス説では星々は土星より少し遠いところにある天球にへばりついているという説でした。年周視差が測定できない以上コペルニクス説は成り立たない、というのが反対論の大きな論拠でした。

コペルニクス説の欠陥

望遠鏡で惑星を見ると球に見えるのに、恒星は望遠鏡で見ても点のままです。したがって、恒星は惑星よりずっと遠いところにあることが分かります。しかし、コペルニクスはまだ望遠鏡の存在を知りません。星々は空気中で(またた)きますから、惑星と恒星の大きさも、それほど大きな差があるようには見えません。もし恒星が土星よりかけ離れて遠くにあるなら恒星は莫大な大きさとなっています。コペルニクスが天球説をとったのはやむを得なかったと思います。ティコ・ブラーエが地動説を採ることができなかったのは年周視差が観測できなかったからなのです。

古代の著作で注意しなければならないのは、他人の行った業績に対する引用についてです。現在では、「だれが何を発見・発明したか」はとても重要です。つまり、“知的所有権”に対する考え方が昔と今では違うのです。他人の業績について述べるのは、自分の著作の価値を上げるためであることが多いように思います。ガリレオが地動説を採るようになってからは、ケプラーのことを引用しなくなりました。また、金星の満ち欠けについて論じた時も、金星と水星が太陽のまわりを回るというティコの説には一切触れていません。

ガリレオは地動説の根拠を示したのか

太陽の黒点は誰の発見か

前節で、太陽の黒点について、イエズス会のシャイナーと「第一発見者」の論争をあったと述べました。太陽の黒点については、ドイツのダーヴィト・ファブリツィウスという天文学者も発見していますし、イギリスのトーマス・ハリオットという天文学者は、太陽は25日という周期で自転していると報告しています。また、伝記にはいろいろなお話が入っていますから注意が必要です。特にガリレオのような文才のある作家は、創作が紛れ込んでいるかも知れません、前節で述べた「氷はなぜ浮かぶのか」の討論でも、相手がこの問題を持ち込んできたのではなく、ガリレオ自身が問題を用意したのかもしれません。

潮汐(潮の干満)は地動説の根拠となるか

それではガリレオ自身、なにか地動説の根拠となるものを示したのでしょうか。月のクレータ、木星の衛星、太陽の黒点などは天動説でも成り立ちます。金星の満ち欠けは、プトレマイオスの周転円でも説明できますが、より完全にはティコの説で説明がつきます。ガリレオが地動説の証拠としてもち出したのは、潮汐(ちょうせき)(潮の干満)でした。地球が自転と公転の両方の運動をしているとすると、運動の方向が一致している側では速度が速く、方向が逆の側では速度が遅く、この速度の差が海水を動かしている、とガリレオは説明しています。『偽金鑑識官』でこの説を発表すると、一般大衆には受けましたが、同時代の科学者たちからは欠陥や矛盾点の指摘が噴出します。ガリレオが干満に注目したことはさすがですが、実際に干満がいつどんな地域で起きるかを調べてみれば自分の誤りに気がついたと思います。しかしガリレオは聞く耳を持たなかったように思います。つまり、ガリレオもコペルニクスと同様、地動説を証明する明確な証拠を何一つ示すことができなかったのです。

プトレマイオスの占星術

現代の皆さんは占星術と聞くと単なる占いと思うかも知れませんが、プトレマイオスの占星術は、高度な数学を含んでいました。実質的に現在の sin とか cos といった三角関数を駆使していたのです。円一周を 360度とする度数法は、メソポタミアのシュメール時代から存在していました。星の位置や太陽の位置を正確に計算するためには、星の位置を測定しなければなりません。バビロニア時代には、太陽の通り道を基準として黄道座標系が用いられていましたが、プトレマイオスの時代には天の赤道を基準とした赤道座標系も用いられていました。したがって、天文観測には黄道座標系と赤道座標系の交互の変換が必要となります。

プトレマイオスの地図

プトレマイオスはまた地理学の大家でもありました。当時ヨーロッパで使われていた地図は、プトレマイオスの地図を使っていました。緯度に関しては正確でしたが、経度は正確に計測する方法がなかったのです。プトレマイオスの地図では経度が実際よりみじかく、コロンブスは発見したアメリカ大陸をインドだと勘違いし、カリブ海周辺を“西インド諸島”と名付け、現地の人々を“インド人”(インディアン、インディオ)と呼びました。   コペルニクスは、プトレマイオスの理論を熟知していて、理論的枠組みはほとんどプトレマイオスの理論です。ただし、宇宙の中心を地球から太陽に変えただけです。プトレマイオスは、楕円軌道を実現するためにエカントを用いた代わりに、コペルニクスは周転円を用いたのです。

地動説の証明 プトレマイオス説
地動説の証明 コペルニクス説

一般の人々はコペルニクス説を面白がっていましたが、イタリアだけでなく世界中の天文学者の大半はコペルニクス説を認めていませんでした。医学部などでは占星術を天文学者に頼っていましたし、キリスト教会は暦の編集に責任を負っていました。惑星の位置の計算ではコペルニクス説よりプトレマイオス説の方が正確だったのです。現代のコンピュータの計算でもそれが確認されています。惑星軌道の中心を太陽とするだけではなく、軌道を楕円とする必要があったのです。

ガリレオは友人からの手紙で、ケプラーの『新天文学』に書かれた楕円軌道について知らされても、興味を示さなかったようです。ガリレオは占星術の専門家ですが、理論や原理を知らなくても天文書さえあれば予測ができたからなのでしょう。

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自由落下の理論

落下距離は時間の自乗に比例する

ガリレオが、現代自然科学の創始者といわれるのは、彼の確立した「自由落下の理論」のためです。自由落下というのは、抵抗がないもない状態で、初速度 0 での物体の落下のことです。この理論で彼は、「落下距離は時間の自乗に比例する」こと、「速度は時間に比例する」こと、などを示しました。これは、この時代としては画期的なことだったと思います。“速度”、“時間”、“移動距離”などを数値として扱い、その関係を示したからです。それまでは、これらのものはそれぞれ別の種類の“量”とみなされ、互いの関係を数学的に扱うことはありませんでした。

この理論は大勢の人に影響を与えます。何人かの人が、「この理論を使えば、なぜ惑星が楕円軌道を描くのか」を解明できるのではないか、と考えました。ケプラーは、観測データから、惑星が楕円軌道を描くことを示しましたが、「なぜ楕円軌道なのか」は示していません。「磁力のようなものに引っ張られて楕円軌道を描くのだろう」とは言っています。最終的にこの問題に決着をつけたのはニュートンの『プリンキピア』です。この著書のキャッチコピーが「地動説の完全なる証明」でした。

近代科学の扉を開いた「望遠鏡」

近代天文学、あるいは近代科学の扉を開いたのは、ガリレオやニュートンの力学ではなく望遠鏡だったという人もいます。天体に望遠鏡を向けたのはガリレオが最初であり、彼の発見した新事実は人びとを驚かせ、それまでの常識を覆すものでした。しかし、望遠鏡を発明したのはガリレオではありません。また、実験、観測、計測という科学の方法が始まったのもガリレオの時代からではなく、すでに詳細な天体観測がバビロニアの時代になされていました。

コペルニクス、ガリレオはなぜ地動説と採ったのか

コペルニクスはどうして地動説に至ったのでしょうか。コペルニクスはほとんど観測をしていません。プトレマイオス説に対する彼の不満は“エカント”にあったのです。エカントは楕円に対する近似で、むしろ正解に近かったのですが、彼は完全なる“円”しか認めなかったのです。つまり、動機は観察データではなく“美意識”だったのです。しかし、本音は「宇宙の中心は汚濁(おだく)にまみれた地球なんかではなく、崇高な太陽であるべきである」という宗教的美意識だったのかもしれません。

エカント(離心円)については ガリレオ裁判の真相[vol.3]-天動説と地動説 で詳しく説明しています。

ではなぜガリレオは地動説を採ったのでしょうか。彼も観測値や古代からの蓄積されたデータではなく、天文学者としての“直観”によったのだと思います。もちろん、科学は観察や実験により修正され発達するものです。しかし、現在でも科学者の重要な特性のひとつは直感ではないかと思います。

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