ガリレオ裁判

ガリレオ裁判の真相[vol.6]-裁判のウラ側

ガリレオ裁判の真相[vol.3]-天動説と地動説 では地動説であるコペルニクス説天動説であるプトレマイオス説について詳しく見ました。 ガリレオ裁判の真相[vol.4]ガリレオの敵たち では、ガリレオ裁判について多くの伝記に書かれている一般の解釈を述べました。「それでも地球は回っている」という言葉とともに多くの人々が一度は耳にしたことがあるガリレオ裁判のエピソード。この裁判の真相はどのようなものだったのでしょうか。歴史的背景やガリレオを取り巻く様々な人物との関係を踏まえ、一連の裁判を振り返ってみましょう。

第一回目の宗教裁判

裁判の結果、コペルニクスの著作は出版停止に

まず第一回目の1616年の宗教裁判です。裁判は少し異例の扱いでした。通常裁判結果は数週間後に届くのですが、裁判の翌日ベラルミーノ枢機卿が直接ガリレオのもとへ訪れ、口頭で裁判結果を知らせました。内容は次のようです。

「聖省はコペルニクスが説く、太陽が不動であるという誤ったピタゴラス学派の説がすでに広まっていて、多くの人々がこれを受け入れていることを知るに至った。したがって聖省は、この種の見解がカトリックの真理を傷つけないよう、コペルニクスの著作を、修正されるまで出版停止にするよう命じる。」

地動説の出どころがコペルニクスではなくピタゴラス学派となっていることに注意してください。また、裁判の判決がガリレオ本人、あるいはガリレオの著作に関するものではなく、コペルニクスの著作に関するものあることにも注意が必要です。

コペルニクスの著作『天体の回転について』の扱い

一般に禁書とは、支配者の権力基盤がその著作によって危うくなったときに行うものです。かつてはアリストテレスの著作も禁書となったことがあります。このときは著作を持っていることが発覚しただけで捕まり処刑されてしまいました。アリストテレスの思想がキリスト教を破壊するという恐怖があったのです。では、コペルニクスの著作『天体の回転について』の場合はどうだったのでしょうか。この本が出版されてからもう70年が経っていますが、この本が禁書になったのは 1616年のガリレオ裁判のときです。ガリレオの言論と著作が問題となり、教皇の要請で真摯な会議や議論が重ねられた末に禁書という決定が下されました。禁書といっても扱いがとても寛大でした。すでに印刷されたものは、異端の部分を線で消せば販売が許されたようです。線が引かれた部分は、何が書かれていたか十分判別ができ、読者がどこが異端かが分かるようになっていました。

ガリレオ自身が異端であることを問われたのか

ベラルミーノ枢機卿はガリレオに、コペルニクス説は仮説であって証拠を示していない、と言っています。そしてガリレオは、「科学的な“証明”がない限り、聖書の権威を認めるべきである」という忠告を認めたのです。

当時は異端審問は苛烈(かれつ)でした。少し裕福そうにみえたりすると密告され魔女裁判に掛けられます。拷問され白状すると処刑されますし、拷問に耐えると「魔女に違いない」といって処刑です。しかし、これは被告人が異端かどうか、つまり非キリスト者かどうかの裁判の場合です。裁判官自身は「自分は正義を行うものだ」と思っていて、非キリスト者はどんな残忍な刑に処しても神はお喜びになるが、もし間違ってキリスト信者を異端だと判断すると、自分が神から罰せられると心底恐れていました。ガリレオの宗教裁判は、ガリレオ本人が異端であるかどうかの裁判ではなかったのです

--Advertising--

第二回目の宗教裁判

天文学・数学界におけるイエズス会の存在

この判決の数年後、ガリレオは新しく法皇となったウルバヌス8世に謁見します。ガリレオは友人への手紙の中で、法皇にコペルニクスについて訊ねたと書いています。「猊下(げいか)は、教会は今までもこれからも彼の説を異端だと非難しない。ただ軽率だったとおっしゃっています。真実であると証明されておらず、仮説だと。」

ガリレオは当代随一の数学者のように振る舞っていますが、当時のイタリアにはクラヴィウスという天文学者がいて、ガリレオもクラヴィウスを尊敬していました。『暦の起源』第13回 グレゴリオ暦:ユリウス暦の改良 で述べたようにクラヴィウスは、グレゴリオ暦設定の中心人物でもあります。彼は数学教育の必要性を解き、イエズス会の研究教育機関であるコレジオ•ロマーノに数学アカデミーを設立します。そのためもありイエズス会は当時のヨーロッパの数学研究をリードしていました。1601年には、コレジオ・ロマーノにあらゆる文物を検閲する権限を与えられた検閲部が設置されます。当時の最新の数学「無限小(あるいは不可分者)という概念を用いた数学技法」も検閲の対象となっていました。

イエズス会は天文学、数学、神学の権威だと自負していました。それなのにガリレオは、「 数学は神の母語である 」などと説き、あたかも、神、数学、天文学の第一人者のように振る舞っています。実際ヨーロッパ中の多くの人はそのように評価しています。コレジオ・ロマーノの中にはガリレオに恨みを持っている人もいましたし、あからさまに彼は教会の敵だとする人も多くいました。しかし、教会はガリレオの主張を無視したり、拒絶していたわけではありません。学問の世界の最高権威であり、教皇から調査を託され裁判に深くかかわったベラルミーノ枢機卿は、もし地動説が科学的に証明されれば、「その事実と矛盾するように見える聖書の一節は誤解されてきたのだと認める必要があるだろう」と記しているようです。

二回目の宗教裁判はなぜ行われたか

その権威が第一回目の裁判で、「コペルニクス説は異端である」と判断したのです。しかし一般大衆は「『天文対話』を読んで、ガリレオは頭の古いアリストテレス派を論破し、地動説が正しいと主張している」と受け止めています。いくら「ガリレオの説は不完全で矛盾に満ちている」とイエズス会の内部で議論しても世間には通じません。このままでは、コレジオ•ロマーノの権威は失墜します。これを阻止するには、ガリレオ自身に自説の誤りを宣言してもらう以外にありません。これが二回目の宗教裁判の目的だったのです。ガリレオ自身も、敬虔なキリスト教徒ですから教会の意向に従ったのだと思います。

終身刑の実態

故郷トスカーナでの軟禁生活

判決は“終身刑”だったようですが、どういうわけか収監されることもなく、ローマのトスカーナ大公国のローマ大使館に軟禁、となっています。トスカーナはガリレオの故郷ですし、ガリレオは故郷の英雄ですから待遇が悪いはずはありません。連日ガリレオのもとへ支持者が訪れます。これでは“罰”などではなく“賞与”だという声がイエズス会内部に起こっていたようです。さらにニッコリーニ大使の奔走のかいもあって、ガリレオは故郷に送り返されることになります。シェナにあるピッコロミーニ大司教の館です。この大邸宅に移っても、科学者、芸術家、詩人などが毎日のように訪れ、やがてガリレオは静かな研究生活に入りたいと望むようになります。

ガリレオはシェナの近郊のアルチェトリに、老後を家族と過ごせるように邸宅を建てていました。彼は私邸に移りたいと申し出ますが、教会側は困惑してしまいます。しかし、偶然にも娘の一人が重病にかかったという知らせが届きます。教会側もこれでは許可せざるを得ません。ガリレオは私邸に移り何ヵ月も娘の看病をしますが、介護のかいもなく娘は息を引き取ります。その後ガリレオはひきつづき私邸で自宅軟禁を続けることになります。

当時の上流階級の邸宅には、現在の皆さんの家庭とは異なり、召使やメイドを含め一族郎党が一緒に住んでいました。ガリレオの私邸にも、ガリレオの息子ともう一人の娘、それにガリレオの弟子たちが住んでいました。ガリレオはそのころ、太陽の観察がたたったのか目が見えなくなっていました。ガリレオの口述筆記をしたのが弟子の一人ヴィヴィアーニでした。ヴィヴィアーニはトリチェリの弟子でもあり、トリチェリもガリレオが亡くなるまで一緒に共同研究をしています。後にヴィヴィアーニとトリチェリは協力して、トリチェリの実験と呼ばれる有名な空気圧の実験を行っています。

著書『新科学対話』の執筆

娘の死を忘れさせてくれるのは研究と執筆です。そして3年間の集中の結果、最後の著作『新科学対話』が完成します。この著書は、またもやおなじみの3人、サルヴィアチ、シンプリチオ、ザグレドが登場します。この著書には、裁判で自分の非を認めた自身の「宣言文」が付されています。また、この著書はオランダのライデンで出版されています。前回の著作で、法皇の身代わりではないかと疑われたシンプリチオが再び出場しているのを見ると、ガリレオには法皇を揶揄(やゆ)する意思などなかったと思われます。またこの本をオランダで出版したのは、ガリレオと教会との対立を興味をもって見守っている人びとが世界中にいるので、イタリア以外の国で出版した方が、本がよく売れると判断したからでしょう。ガリレオ裁判を聞いて、ケプラーは自著『コペルニクス天文学要綱(ようこう)』が売れるかどうか心配しましたが、出版者から「なおさらよく売れますよ」と請け負う手紙が届き、そのとおりになりました。ケプラーは熱烈なプロテスタントですが、地動説を唱えることになんの恐れも抱いていません。

ガリレオは教会に敵対したことはなく、敬虔なキリスト教徒であり続けました。裁判の後もバチカンの人々と友好な関係を保っていて、亡くなる少し前には教皇から特別の祝福を受けています。1642年1月8日、78歳でガリレオは永眠しました。

--Advertising--

地動説の評価の変遷

ニュートンの登場

ガリレオと教会のもくろみは長くは続きませんでした。しばらくするとニュートンプリンキピアという著作を発表して、ケプラーの楕円軌道の正当性を論じたのです。人びとは「やっぱりコペルニクスの地動説は正しかった、ガリレオは教会に脅迫され地動説を捨て去るよう強要されたのだ」と受け取りました。天動説を採っていたプトレマイオスは人びとの嘲笑の対象となりました。天文学者たちも、楕円軌道が認められた以上地動説を採るようになります。

地動説を最初の唱えた人物とは?

しかし科学史は、正しいか間違っているかというだけで単純に判断できないと思います。この節の最初で述べたように、ローマ教会も地動説を最初に唱えたのはピタゴラス学派だと言っていますし、コペルニクス自身もその著書で、地動説は古代ギリシアのアリスタルコス(前310頃~前230頃)によると言っています。それ以前にも、ポントスのヘラクレイデス(前390頃~前339頃)がいますし、以後にはアラビアの天文学者の中にも何人かの学者がいます。コペルニクスを含め、これらの学者は「なぜか」を述べていません。アリスタルコスの生まれたサモス島には彼の銅像があり、台座には次のように書かれています。

最初に地動説を発見した人。コペルニクスはアリスタルコスの真似(まね)をした

SNS RSS

更新情報やまなびの豆知識を
お届けしています。

スポンサーリンク