ガリレオはなぜ悲劇の主人公となったか

ガリレオはなぜ悲劇の主人公となったか

ガリレオの逸話 伝承について

伝記作家ヴィヴィアーニ

これまで述べてきたように、ガリレオは現代の数学を作り上げるという大きな貢献を果たしました。少しぐらいの欠点を挙げたところで名声に傷がつくようなことはありません。そこで、ガリレオを例にして伝記とか伝承について考えてみたいと思います。

ガリレオの最初の伝記作家は、ヴィンツェンツィオ・ヴィヴィアーニです。ガリレオは有名なガリレオ裁判で有罪の判決を受け、故郷の豪華な別荘に軟禁となります。ガリレオが最も実りある独創的な研究成果を挙げたのはこの時期のようです。このとき弟子となり、一緒に住むようになったのがヴィヴィアーニです。その後有名なトリチェリも弟子に加わり、彼も一緒に住むようになります。ガリレオの死の直後、トリチェリはヴィヴィアーニの協力のもとに、有名な気圧の実験(水は10m 以上ポンプでくみ上げることができないという実験)を行いました。

当時、ガリレオは失明しており、ヴィヴィアーニは、長々としゃべるガリレオの昔の出来事、行った実験のこと、それに発見した数々の数学の成果を口述筆記しました。ガリレオの死後、ガリレオの最後の著作『新科学論議』に、新たな証明などの追加を行っています。ヴィヴィアーニは、数学的能力もありましたが、それ以上に(ガリレオと同様)文学的才能もあったのです。ガリレオに対する真心と愛情のこもった伝記には彼の創作が入っています。例えば次のような逸話があります。

振り子の等時性

ガリレオが19歳の医学生の頃、ピサのドゥオーモの礼拝堂でミサに出席していたときのことです。礼拝堂のドアが一瞬開き、一陣の風が吹き込み、頭上のシャンデリアがゆっくりと揺れはじまました。ガリレオは自分の脈拍で時間を測ることで、振り子の等時性を発見しました。

ピサの斜塔の落下実験

ヴィヴィアーニが伝える逸話の中でさらに有名なのが「ピサの斜塔の落下実験」です。「ピサの斜塔」は誰でも知っている名所であり、落下実験の舞台効果としてうってつけの場所です。しかしながら「重いものは軽いものより速く落ちる」というアリストテレス説は当時すでに周知のことでした。遥か昔の6世紀に、ビザンチンの学者ヨアネス・フィロポヌスが「落下は重さには関係なく、ほとんど同時に落ちる」と述べていますし、ガリレオ以前のヨーロッパの学者の何人かが落下の実験を行っています。たとえば、1586年にシモン•ステヴィンがこの実験を行っています。

これらの逸話については以下で詳しくのべています▼
ガリレオ裁判の真相[vol.1] :“近代科学の父”ガリレオの生涯

関連記事以下の記事で詳しく解説しています++。

ガリレオ裁判の真相[vol.1] :“近代科学の父”ガリレオの生涯

10進小数

10進小数はアラビア数学で使われていた

話を中断して10進小数について述べます。というのは、ステヴィンは「10進小数の発明者」として誤って伝えられているからです。10進小数はすでに300年も前にアラビア数学で使われており、ヨーロッパにもずいぶん前から伝わっていました。ステヴィンは数学をよく理解してはいましたが、開平アルゴリズムなどを自分で開発するような創造的な数学者ではありませんでした。著書の中で「すべての数は平方数だ」などと驚いて書いていますが、これはアラビア数学の著作の中で、平方根や立方根の計算が、小数点以下何桁もなされていることを学んだからだと思われます。

ガリレオ以降ヨーロッパの科学は快進撃を続けますが、それ以前はアラビアの科学の方が進んでいたのです。事実の発見、あるいは言葉の定義だけからすると、等速運動、加速運動、地動説(太陽中心説)などはすでにアラビアにあったのかもしれません。しかし重要なのは、事実の発見ではなくガリレオの作り上げた理論の枠組みなのです。

10進小数が果たした重大な役割

ガリレオが開発した実験方法や理論的枠組みが多くの人に受け入れられるようになったのは、この10進小数が重大な役割を果たしています。ガリレオ自身は自然数しか扱えませんでしたが、10進小数を使えばどんな“実数”でも近似でき、実用上はまったく問題ありません。ガリレオは、時間、速度などの量を線分(の長さ)とみなしましたが、やがてこういった量は“実数”とみなされるようになります。科学の発達には10進小数が大きな役割を果たしたのです。

注意しなければならないのは、古代と現代では著作における知的所有権の扱いが違うということです。ステヴィンは著作の中ですべてが自分の発見のように述べていますが、このことは古代では普通なのです。ガリレオにしても、だれが最初に発見したかという先取権を重要視しているにもかかわらず、著作の中ではすべて自分が発見したことのように書いています。たとえば落下について、「2つの重さの異なる物体を、ひもで結んで落下させたらどうなるのか。重さの和が大きい結んだものの方が速いのか。あるいは2つの重さの平均の速さなのか」という思考実験についてガリレオは記述していますが、これはガリレオの独創ではなく当時すでに知られていた議論のようです。

ガリレオの思考実験

ガリレオの行った実験を検証する

坂の実験

1. 科学の時代の始まり〕にある「坂の実験」について考えましょう。これはガリレオの行った実際の実験とは異なります。しかし、現在においても未知のものを発見するために行う実験と、得られた結果を検証するためのもの、あるいは追試をするためのものとは異なることが普通です。さらにガリレオの著作は、聖職者(当時は学者の多くは聖職者でした)のためのものではなく、平易なイタリア語で書かれた一般人のためのものでした。「坂に 1, 3, 5, 7, 9 の間隔で印をつけ、球がそこを通る時間を計測する」という実験は、誰の目にも結果がはっきりと分かります。この実験はガリレオの著作にも書かれていますが、著作に書かれていたことそのものが真実とは限らないのです。ガリレオの初期の考えは、長さを基準にしたものでした。ガリレオには計測可能なものは長さ以外になかったのです。その後、30年もの長い考察の結果、理論の基底は“時間”に代わります。ガリレオの得た結果は“速度は時間に比例する”と“距離は時間の平方に比例する”でした。したがって実験は“時間を計測する”でなければならなかったのです。

ガリレオとローマキリスト教会

ガリレオは過激な発言のため敵も多くいましたがローマキリスト教会と敵対していたわけではありません。本サイトのWeb連載〔暦の起源 第13回 グレゴリオ暦〕で述べたグレゴリオ暦改暦委員会の中心人物グラヴィウスとも親交がありました。グラヴィウスは、キリスト教布教のためには数学教育が必要だと主張し、イエズス会会員の数学教育に尽力しました。そのため、イエズス会の数学は当時のヨーロッパの最高水準にあったのです。グラヴィウスは、天動説と地動説の知識を持っていて公平に判断しています。

ガリレオは、1587年にローマのグラヴィウスのもとを訪れ、それ以後、生涯彼を尊敬しています。ピサ大学の数学教授に就職できたのもグラヴィウスの強力な後押しがあったためです。グラヴィウスの弟子には、日本に来て長崎で殉教したカルロ・スピノラがいます。彼は書簡で「数学は、大名やその奥方たちの布教に大いに役に立った」と述べています。また、中国で西洋の科学を広めた有名なマテオ・リッチもグラヴィウスに学んでいます。

ガリレオはなぜ悲劇の主人公になったのか

19世紀のヨーロッパ

ガリレオはなぜ悲劇の科学者として描かれるようになったのでしょうか。それにはガリレオの時代だけでなく、それから200年もあとの19世紀のヨーロッパの歴史を見てみる必要があります。19世紀は近代イタリアが誕生した時代で、1861年までイタリアという国は存在していなかったのです。1798年、フランス革命が勃発しヨーロッパ全土に自由と平等という思想がひろがります。 イタリアではリソルジメントと呼ばれる統一運動が起きます。中世以来、イタリアは多くの公国、王国、都市国家が乱立しており、外国軍の介入などもあり混乱状態でした。イタリア地方は、古代ローマ・ギリシア時代には世界帝国の中心であり、ルネサンス期には文芸芸術の中心地でした。リソルジメントとは“再興”という意味であり、もう一度あの輝かしい時代に戻り、統一国家を樹立しようと愛国者たちが立ち上がったのです。1870年にローマはイタリア王国軍に占拠されます。ローマは中世以来ヨーロッパ・カトリック教会の中心地で、絶大な権力を保持しており、王国政府との確執は絶えませんでした。新政府の人々は、自由と国を守るためには教育と科学技術が必要だと主張し、とりわけ数学の重要性を強調します。科学研究は政治活動と密接に結びつき、当時の科学者や数学者の多くは政治にかかわっていました。

新政府側の人々は、教会側の知識人は保守的でキリスト教の教義に資するもの以外の科学は認めようとしていない、と考えていたのです。そこで、アリストテレス説は硬直した古い考えで、それに固執しているのはローマキリスト教の教条主義と同じだ、と訴えたのです。天文学などの科学的な問題に関しては、アリストテレス説が間違っていたことは明白ですから、このことは教会側を直接非難するよりも効果的に民衆の心の中に入ってきます。 かつてガリレオの時代には、イタリアは科学や数学の分野でもヨーロッパをリードしていましたが、いまや近代文明から取り残され、決して数学の中心地ではありませんでした。ガリレオを称えることは新生イタリアの自信を取り戻すことでもあり、教会の圧力に屈して、もはや正しいことが明らかとなった地動説を「愚かな間違った説である」と強制的に宣言させられたことは、明らかに教会側の失点です。国定版『ガリレオ・ガリレイ全集』が出版されたのは、まさにこの時代、1890年から1909年にかけてです。ローマキリスト教と王国との確執は第一次大戦後まで続きます。イタリアが共和国となったのは 1948年のことです。

ガリレオの成し遂げた偉業

ガリレオには多くの逸話が残っています。裁判の後で発した「それでも地球は回っている」という名言も有名ですが、博物館に行くと「ガリレオの実験」と称する装置を見かけることがあります。ビンの中の羽とオモリが落下する装置です。空気がある場合、羽よりオモリが速く落ちますが、空気を抜くと、羽とオモリは同時に落下します。さらに有名なのは、1971年アポロ15号の月着陸のテレビの実況中継です。スコット船長が宇宙服の分厚い手から羽と金槌を離すと、ゆっくりとしかし同時に月面に粗利ました。「どうです。ガリレオは正しかったのです」

ガリレオは多くの逸話を残しました。ここで伝えたい事は、その一つ一つか真実であったかどうかではありません。ガリレオが成し遂げたもっとも重要なことは、現在私たちが使っている数学を作ったことなのです。ガリレオをきっかけに数学が急速に発展しました。その第一の後継者がニュートンです。多くの逸話の影に、最も大切な「数学の構築」という仕事が隠れてしまっているのではないかと心配します。ガリレオは、長年にわたる観察と実験を土台に、それまでとして扱っていた“時間”とか“速度”をとして扱い、実測し、計算し、理論を打ち立てました。この革新こそが、今日の科学や数学の原点なのです。

ニュートンのお話は以下の記事で詳しく書いています▼
最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.1]:科学革命の旗手

関連記事以下の記事で詳しく解説しています++。

最後のバビロニア人『ニュートン』のお話 [Vol.1]:科学革命の旗手

スポンサーリンク