古代ギリシアの数学者ピタゴラス

古代ギリシアの数学者ピタゴラスのお話[Vol.1]

何千年も語り継がれる偉人のお話

今回は“ちょっとひといき・数学コラム”と題しまして、『三平方の定理』でおなじみのピタゴラスについてのお話です。ピタゴラスは世界中の人が知っている有名な偉人の一人です。ヨーロッパでは、少し前までは子供たちの本などによく書かれていましたが、最近ではそもそも偉人伝の人気がなくなったせいもあり、あまり取り上げられなくなっています。最近では、歴史的事実かとか、後世の創作ではないかなどといったことが話題になっていますが、2千5百年以上も長きに渡って語り継がれてきたこと自体が歴史だと思われます。そして数学の歴史の中からこういった“お話”がなくなってしまうのは少し寂しい気がします。古代ギリシアの数学者・哲学者のピタゴラスについて、どのように語り継がれてきたのかをみてみましょう。

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ピタゴラスが生まれた頃のギリシア世界

まず、ピタゴラスが生まれたころのギリシア世界の地理と時代背景を確認しておきましょう。ギリシア本土の東側にはアテナイ(アテネの古名)があり、その東側のエーゲ海には数多くの島々が散らばっています。南には少し大きな島、クレタ島があり、さらに東は現在のトルコで小アジアともいいますが、古代史ではアナトリアと呼ばれています。アナトリアの東の沿岸部をイオニア地方といいます。アナトリアの北は黒海です。また、イオニア地方の南の地中海の東岸をレヴァント地方といいます。さらに南に下ると、エジプトのナイル河口の三角地帯に行き当たります。これらの東地中海の沿岸部一帯は古くから、エジプト文明とメソポタミア文明という二大文明の周辺部として文明がさかえ、巨大な交易のネットワークが築かれていました。

ピタゴラスが生まれた頃の古代ギリシア地図

哲学の発祥の地イオニア

ギリシア世界の特徴の一つは「ポリス」にあると言われています。歴史の専門家はポリスを「都市国家」と訳すのを好まないようです。大多数のポリスは国家と呼べるほど大きなものではなく、せいぜいが「町」か「村」程度で、国としての行政機関はなく、一つの町を単位とした自治組織、あるいは「独立共同体」だといいます。各ポリスは、オリエントの大国のような専制君主制ではなく、自由で平等な構成員による協議制を取っていました。オリエントでは、神官階級があり、困ったことが起きると、いつも判断を占星術神託に頼っていました。また、分からないことはすべて神のせいにし、訳の分からない迷信や神話を信じていました。古代文明はどこでも、呪術的で神話的な自然観に囚われているものです。一方、ギリシア人は、民主的で自由な空気の下で、お互いに自分たち自身で考えた意見を闘わせるという習慣を身に着け、自然を合理的で論理的に(とら)えるようになっていきます。このような状況から、“自然を語る人々”すなわち「自然学者」(フュシオロゴイ)が出てきたのです。イオニアは哲学の発祥の地とされています。

哲学の発祥の地イオニア

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ピタゴラスの生い立ち

これからがピタゴラスの“お話”です。ピタゴラスの生まれたのはイオニア地方のエーゲ海に浮かぶサモス島です。サモス島も古くからギリシア人が住みつき、ピタゴラスが生まれる頃にはギリシア世界有数のポリスに成長していました。ピタゴラスは、裕福な貿易商の家に生まれたので、あちこち賢者を訪ねて教えを受けることができました。

18歳のとき父親が死ぬと、叔父から紹介状と銀を受け取り、近くのレスボス島に住む賢者ペレキュデスを訪ねます。ペレキュデスはフェニキアに伝わる秘本を研究し、オリエントの魔術を会得していました。ピタゴラス哲学の根本である霊魂不滅輪廻転生、および数神秘主義はペレキュデスの影響で、ペレキュデスとは終生の親交を結びます。

20歳のころ、ピタゴラスはタレスに会いにミレトスを訪れます。ピタゴラスはタレスから、

人物

この宇宙を支配しているものは無秩序で混沌としたカオスなどではなく、合理的な説明が可能な秩序あるコスモスだ

と教わります。そのときタレスはすでに高齢だったので、ピタゴラスにエジプトバビロニアなどを訪れ見地を広げるように勧めます。ピタゴラスはタレスの教えに従って、いろいろな国を訪れるのです。

ピタゴラスとエジプト

エジプトでは神官からあの難解な神聖文字(ヒエログリフ)を教わります。神官たちはピタゴラスの熱心さに感心しエジプトに伝わる秘儀を伝授し、とうとうピタゴラスは司祭の地位に上りつめることができます。うわさは広まり、時のファラオであるアマシス王に謁見がかないます。ファラオの許可をえて、宗教都市ヘリオポリスをはじめ、メンフィステーベ(おもむ)くことができ、神殿の秘密の部屋への出入りや秘密の儀式への参加も許されるようになります。ピタゴラスは10年以上エジプトに滞在したと言います。

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ピタゴラスとバビロニア

その頃、ペルシアは小アジアからオリエントにかけて着々と勢力を伸ばしてきていました。ピタゴラスは、エジプトに進攻してきたペルシア軍に捕まり、バビロニアに連れていかれたという言い伝えもありますが、エジプトでの修行を終え自らバビロニアに訪れたという伝承もあります。バビロニアは当時のオリエントの文化の集まる都市で、オリエントのいろいろな国の楔形文字勉強したに違いありません。当時もオリエントでは、それぞれの国がそれぞれの言語の楔形文字を使っていました。そこでバビロニアの占星術天文学数学などを学びます。やっと生まれ故郷のサモスに戻った時、彼は50歳をすぎていました。

ピタゴラスと数学の研究

今回の記事ではピタゴラスが生まれた時代背景と人との出会いから、どのように数学や哲学の世界に入っていったのかを知ることができました。数学の研究は世界の原理や秩序を知るためであったことなどがその人生観からもわかります。それは現代の私たちが持つ『数学』のイメージとは大きく異なるものでした。

次回はピタゴラス学派が『数(整数)』についてどのように考えに行き着いたのかについて深掘りしていきましょう。

ピタゴラスと数学の研究

【古代ギリシアの数学者ピタゴラスのお話】は全2記事からなるWeb連載です

次の記事はこちら 古代ギリシアの数学者『ピタゴラス』のお話[Vol.2]

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