地動説
出来事
Heliocentrism

地動説

地球を含む惑星が、太陽のまわりを回っているとする天文学上の考え方。
ひとことで言うと

天動説と対になる考え方で、16世紀のコペルニクス以降にひろまった学説。

地動説とは

この用語の要点
  • 地球も惑星のひとつで、自転しながら太陽のまわりを回っているという考え方
    • 対になるのが、地球が中心にあって動かないとする天動説
    • 16世紀にコペルニクスが組み直し、その後の天文学の出発点になった

地動説とは「地球も惑星のひとつで、自転しながら太陽のまわりを回っている」という考え方です。これに対し、地球が宇宙の中心で動かず、太陽や月、星々が地球のまわりを回っているとする考え方を天動説天動説地球が宇宙の中心で静止していて、太陽や月、星々、惑星がそのまわりを回っているという宇宙観。プトレマイオスが数学的なモデルとして完成させた。といいます。

地動説を唱えた人としてよく知られているのは、1543年に『天球の回転について』を出版したポーランドのコペルニクスです。さらにさかのぼると、紀元前3世紀の古代ギリシアの天文学者アリスタルコスが、太陽を中心に置く考えを唱えていたと伝えられています。

地動説が置きかえた「天動説」

地動説が現れるまで、天文学の基本的な枠組みは、地球を宇宙の中心に置く天動説でした。2世紀の天文学者プトレマイオスは『アルマゲスト』で、惑星が小さな円を描きながら大きな円の上を進む「周転円」や、エカント離心円とエカント惑星の速さの変化を円運動のまま説明するためにプトレマイオスが用いた、中心をずらした円と、別に置いた基準点。といった仕組みを組み合わせ、天動説を精密な計算の体系にまとめます。この体系はその後およそ1400年にわたって、イスラーム世界やヨーロッパで使われ続けました。

地球から見ると、惑星は一時的に逆向きに進んで見えることがあります。これが逆行現象逆行現象外惑星(火星・木星・土星)が、通常の西から東への移動を一時的にやめ、逆に東から西へ戻るように見える奇妙な現象。惑星("惑う星")の語源にもなった。です。地球の側から見た動きと、太陽を中心に置いたときの動きを見くらべてみましょう。

コペルニクスによる再構築

この天動説の枠組みを組み直したのが、16世紀のコペルニクスです。ただし、いきなり新しい発想が出てきたわけではありませんでした。

発想そのものは、古代からあった

太陽を中心に置く考えは、プトレマイオスプトレマイオスなし詳しく見る →より前の時代にすでに登場していました。紀元前3世紀ごろ、古代ギリシアの天文学者アリスタルコスが、地球は自転しながら太陽のまわりを回っていると唱えていたと伝えられています。

ただし、アリスタルコス自身がそれを書いた著作は残っていません。内容が分かるのは、アルキメデスアルキメデス22/7 の秘密!発見と創造の数学者・物理学者詳しく見る →など後の人が書き残した記録を通してです。この考えは当時ひろく受け入れられず、地球を中心に置く宇宙像に代わる主流にはなりませんでした。

1543年『天球の回転について』

16世紀、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスが、それまでに積み上げられた観測記録をもとに太陽を中心とする宇宙モデルを組み直します。そして1543年、『天球の回転について』を出版し、地球をふくむ惑星が太陽のまわりを回るしくみを、ひとつのまとまった数学の体系として示しました。

変わったのは「中心」だった

ただし、コペルニクスが地球の動きを観測で確かめたわけではありません。

彼のモデルも、惑星は円を描いて動くという前提のままでした。円だけでは実際の惑星の位置に合わないので、周転円もそのまま使っています。計算のしかたという点では、プトレマイオスの体系とよく似たままだったのです。

変わったのは、中心に何を置くかでした。地球を、宇宙の中心から惑星のひとつへ移す。この置きかえが、その後の天文学を変える出発点になります。

17世紀に入ると、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡による観測を根拠に、この説を支持しました。

同じころ、ケプラーケプラー宇宙の法則を解き明かした天文学者詳しく見る →は惑星の軌道を円ではなく楕円とすることで、計算と観測をよく合わせることに成功します(1609年)。地球が太陽のまわりを回っていることを観測で裏づける証拠が見つかるのは、さらに後のことです。18世紀前半にブラッドリーが光行差を、1838年にベッセルが年周視差を観測しました。

「地動説」「天動説」は日本語独特の呼び名

西洋では「太陽中心説(heliocentrism)」「地球中心説(geocentrism)」にあたる言葉が使われます。日本語の「地動説」「天動説」は、江戸時代の蘭学者・志筑忠雄による訳語とされ、どちらが中心かではなく、地と天のどちらが動くかに注目した呼び方です。

さらに深掘り

「地動説」という日本語のこと

ポゥじい博士の見立て

なぜ日本では「太陽中心説」ではなく「地動説」と訳したのか。わしはこう見ておる。

日本の寺や神社は、森や山の中、鬱蒼とした自然に溶け込むように建っておる。いっぽう西洋の教会は、その存在をはっきり目立たせ、自然を支配するかのように建っておるな。日本人にとっては太陽が中心でも地球が中心でも、どちらも自然が中心じゃから、2つの語の違いがはっきりせん。「大地が動く」と「天が動く」のほうが、違いが際立つのじゃよ。

西洋ではそうはいかん。あちらで地球中心説といえば、宇宙を支配するのは人間であるという、由緒正しい一神教を表しておった。いっぽう太陽中心説のほうは、太陽や月や惑星が人を支配するという、オリエント由来のいかがわしい多神教ではないかと疑われてきたのじゃ。どちらを中心に置くかが、そのまま信仰の色分けになっておったのじゃな。

これは自然観と信仰のちがいから読み取ったひとつの見方で、志筑忠雄自身がそう説明した記録が残っているわけではありません。

コペルニクスの体系は「単純」ではなかった

「コペルニクス説になって太陽系のしくみが簡潔ですっきりした」と語られることがありますが、これは誤解です。

ポゥじい博士の見立て

コペルニクスの理論的枠組みは、プトレマイオスの体系をほとんどそのまま踏襲しておってな、宇宙の中心を地球から太陽に変えただけで、プトレマイオスがエカントを用いていた代わりに周転円を用いたにすぎんのじゃ。コペルニクスの時代には、周転円の中にさらに周転円が入るという、むしろ複雑な体系になっておった。

惑星が太陽のまわりを単純な円軌道で回っているという説明(本書では便宜的に"単純地動説"と呼ぶ)を、当時の天文学者は採用できなかったんじゃよ。円軌道では春夏秋冬の期間の長さの違いを説明できんためで、暦の設定を担う教会にとってこれは重要な問題だったのじゃ。

ガリレオは地動説を「証明」したのか

ガリレオガリレオ地動説を唱えた近代科学の父詳しく見る →は望遠鏡による観測で、月のクレーターや木星の衛星などを発見し、これらを地動説の傍証として提示しました。

スウカ
望遠鏡でそれだけ見つけたのなら、もう地動説で決まりだったんじゃないんですか?
ポゥじい
それがな、月のクレーターも木星の衛星も、太陽の黒点も、実は天動説のままで説明がついてしまうんじゃ。金星の満ち欠けも、プトレマイオスの周転円でいちおう説明できる。きれいに説明がつくのは、むしろティコ・ブラーエの説のほうでな。
スウカ
では、ガリレオ自身は何を決め手にしたんですか。
ポゥじい博士の見立て

ガリレオが実際に地動説の証拠として持ち出したのは、潮の干満だったのじゃ。地球が自転と公転の両方の運動をしていると、運動の方向が一致する側で速度が速く、逆側で遅くなり、この速度差が海水を動かしておる、とガリレオは説明した。

じゃが、この説明は実際の干満の起こり方とうまく合わん。同時代の科学者たちからも、欠陥や矛盾を次々に指摘されておる。ガリレオの説は、そのあたりをうまく説明できていなかったんじゃな。

つまりガリレオもコペルニクスと同様、地動説を証明する明確な証拠を、何ひとつ示すことができなかった。それが実情に近いんじゃよ。

本ではこう語られています
ガリレオの挑戦1 速度の謎に挑んだ30年の軌跡この本を見る
ポゥじい
ここで用語を整理しておこう。「地動説」「天動説」という用語は日本語のもので、世界標準ではそれぞれ 「太陽中心説」「地球中心説」 と呼ばれておる。
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