グレゴリオ暦
用語
Gregorian Calendar

グレゴリオ暦

4年に1度閏年を置き、ただし100の倍数の年は閏年にせず、400の倍数の年は閏年にするという規則を持つ、現在世界標準の太陽暦。
ひとことで言うと

1582年に制定された、いま世界で広く使われている暦。

グレゴリオ暦とは

この用語の要点
  • 1582年に教皇グレゴリウス13世が定めた、ユリウス暦を改良した暦
    • 1582年10月4日の翌日を10月15日として、10日ぶんのずれを取り除いた
    • 閏年は「4の倍数。ただし100の倍数は除き、400の倍数はまた入れる」

現在私たちが使っている暦はグレゴリオ暦といい、ユリウス暦ユリウス暦共和政ローマの太陰太陽暦を改め、平年を365日、4年ごとに1日の閏日を置くようにした太陽暦。詳しく見る →を改良したものです。1582年に、ローマ教皇グレゴリウス13世が定めました。

なぜユリウス暦は修正されたのか

改革の発端は、暦と季節のずれでした。

ユリウス暦は、1年の平均を365.25日としていました。実際の1年はこれよりわずかに短いため、長い年月のうちに、暦の上の日付と季節が少しずつずれていきます。

325年、アナトリアの古代都市ニカイアで開かれたキリスト教会最初の公会議をきっかけに、教会では春分を3月21日として復活祭の日を計算するようになりました。ところが16世紀になると、実際の春分は3月11日ごろまで移っていました。

春分の後の満月を基準に復活祭の日を決める教会にとって、このずれは大きな問題です。暦は祭事を司る教会にとって、重要な権威の象徴でもありました。

導入と、10日ぶんの調整

そこで教皇グレゴリウス13世は、数学者アロイシウス・リリウスやクリストフェル・クラヴィウスらの助言を得て、暦を制定し直しました。

まず、たまったずれをその場で消します。1582年10月4日の翌日を、10月15日としました。10月5日から14日までの10日間は、暦の上に存在しません。これで春分の日付が、教会の基準である3月21日ごろへ戻りました。

そのうえで、これから先ずれが増えないように、閏年の入れ方を改めます。

精密な閏年規則

グレゴリオ暦では、次の規則で閏年を定めます。

(a) 4の倍数の年は閏年とする
(b) ただし100の倍数の年は閏年としない
(c) しかし400の倍数の年は閏年とする(後の条件を優先)

たとえば2000年は400の倍数なので閏年、2100年は閏年ではありません。

この規則に従うと、連続した400年間に閏年は97回、平年は303回となり、1年の平均日数は365.2425日となります。現在の1太陽年の理論値365.2422日との差はわずか0.0003日、1万年で3日程度の誤差にしかならない、きわめて精密な暦です。

日本への導入

日本が太陰太陽暦からグレゴリオ暦へ切り替えたのは、明治になってからです。

明治5年11月9日、明治政府は改暦の詔書を出し、太政官布告第337号で「来たる12月3日をもって明治6年1月1日とする」と定めました。こうして明治5年は12月2日で終わり、本来なら12月3日にあたる日が、新暦の1873年1月1日になりました。明治5年12月3日という日は、存在しません。

グレゴリオ暦が定められた1582年から、日本で使われはじめるまで291年。ただし、このときの布告は閏年を「4年ごと」としか定めていませんでした。「100の倍数の年は平年、400の倍数の年は閏年」という、いまと同じ規則が法令に書かれたのは1898年(明治31年)のことです。

グレゴリオ暦は、世界のどこかで一斉に切り替わったわけではありません。多くのカトリックの国々は早い時期に取り入れましたが、プロテスタントの国や正教会の国では導入が遅れ、イギリスとその植民地の切り替えは1752年でした。日本のあとに切り替えた国もあり、世界へ広がるまでには数世紀かかっています。

さらに深掘り

ガリレオが亡くなった年に、ニュートンは生まれたのか

「ガリレオ・ガリレイが亡くなった年に、アイザック・ニュートンニュートン三大数学者の一人。万有引力の法則で知られる天才詳しく見る →が生まれた」という話は、天才科学者から次の天才科学者へのバトンタッチとして、しばしば語られます。

けれども2人の日付を同じ暦にそろえると、年は重なりません。ガリレオガリレオ地動説を唱えた近代科学の父詳しく見る →が亡くなったイタリアでは、すでにグレゴリオ暦が使われていました。没日はグレゴリオ暦の1642年1月8日です。一方、ニュートンが生まれたイギリスはまだユリウス暦を使っていました。生誕日はユリウス暦の1642年12月25日ですが、グレゴリオ暦に直すと1643年1月4日になります。

「1642年」という数字が重なって見えるのは、それぞれの国で使われていた別の暦の日付を、そのまま並べたためです。暦の切り替え時期が国によって違ったことが生んだ、有名な「日付のトリック」だといえます。

もっと単純な規則ではダメだったのか

グレゴリオ暦の「4年に1度、ただし100の倍数はダメ、ただし400の倍数はOK」という規則は、現代人の目には少し複雑に映るかもしれません。そもそもの原因は、千年も前に「春分の日を3月21日とする」と決めてしまったことにあります。

ポゥじい博士の見立て

実は「128年ごとに春分の日を1日前に移動する」という規則を設けるだけでも、実用上は十分だったと思うておる。閏年の入れ方をいじるのではなく、「春分の日」という目印のほうを動かしてしまうのじゃ。

千年に8日ほど季節が移動しても、日常生活には何の影響もない。人の一生でその移動を経験するのは、せいぜい1回じゃからのう。1日ずれたぐらいでは、気づく者は誰もおらん。

それでもグレゴリオ暦がこれほど精密な規則にこだわったのは、天文学からの要請ではないじゃろう。「自然が司る時」と「教会が司る時」を教皇が一致させた。そう示すことで、威信を失いかけていたカトリック教会の権威を立て直そうとした側面があったのではないか、とわしは見ておるんじゃよ。

本ではこう語られています
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ポゥじい
ローマ・カトリック教会は暦の制作に責任を持っていたから、予測精度が高いプトレマイオス説(地球中心説)から簡単には離れられなかったんじゃよ。
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