ヒエラティック(神官文字)
用語
Hieratic

ヒエラティック(神官文字)

ヒエログリフと同じ古代エジプト語を、手書きしやすい形に崩した筆記体。1〜9、10〜90…にそれぞれ固有の記号をあてる数字を持つ。
ひとことで言うと

ヒエログリフを手書き向けに崩した、書記たちの実務用の文字。

ヒエラティックとは

この用語の要点
  • ヒエログリフと同じ言葉を、筆で速く書けるように崩した書体
    • 使ったのは神官にかぎらず、専門の教育を受けた書記たち
    • 数字は 1〜9、10〜90… にそれぞれ固有の記号をあてる

ヒエログリフヒエログリフ(神聖文字)古代エジプトで「神の言葉」として使われた象形的な文字。1・10・100と位ごとに違う記号を置き、その数だけ並べて足し合わせる記数法を持つ。詳しく見る →は、神殿や墓の壁、石碑などに刻まれる格式の高い文字です。記号を絵のように整えて配置できる一方、石に刻んだり一つひとつ丁寧に描いたりするには時間がかかります。

そこで、パピルスや土器のかけら、木の板などに筆とインクで素早く書くために使われたのがヒエラティック(神官文字)です。記す言葉はヒエログリフと同じ古代エジプト語ですが、記号の形が大きく崩され、続け書きに近くなることもありました。

使われた場面は、行政文書や会計記録にとどまりません。手紙、文学、宗教文書、医学書、数学書まで、古代エジプトでもっとも広く使われた書体です。「神官文字」という日本語名から神官専用の文字に見えますが、実際に日々これを使っていたのは、専門の教育を受けた書記たちでした。

「単一文字方式」という工夫

ヒエログリフの数字は、1・10・100・1000を表す記号を必要な数だけ繰り返して書きます。9999を書くには、各記号を9個ずつ、合計36個並べることになります。

これに対してヒエラティックでは、1〜9、10〜90、100〜900、1000〜9000のそれぞれに固有の記号が用意されていました。9999なら「9000」「900」「90」「9」の4個で書けます。

1から9000までを数えると9種類ずつ4組で36種類。1万から9万までの記号を加えた表では45種類になります。ただし記号の形も使われ方も時代によって変わっているので、いつも45種類だったわけではありません。

覚える記号は増えますが、書くときの記号数は大きく減ります。計算や会計を素早く書き留めるには効率のよい仕組みでした。

このように、1〜9、10〜90、100〜900といった数にそれぞれ固有の記号を割り当てて足し合わせる方式を、記数法の分類では暗号化された加法方式と呼びます。本シリーズでは「単一文字方式」と呼んでいます。

ただし「各数字を1つの文字で表す」といっても、どんな数にも専用の記号があるわけではありません。23に専用の一文字があるのではなく、「20」と「3」の記号を組み合わせて書きます。

それぞれの記号が固有の値を持つので、原理としては記号の位置で値が変わることはありません。実際の文書では、読みやすい順序と配置で書かれています。

2つの文字は、使う場面が違う

同じ言葉に2つの書体があったのは、使う場面が違ったからです。

ヒエログリフは、神殿や墓、石碑などに刻まれ、神々への祈り、王の称号や業績、死者へのことばを長く残すために使われました。文字と図像が一体になった、格式の高い表現です。

ただし、象形的な形をしているからといって、教育を受けていない人が文章を読めたわけではありません。絵の部分から場面や権威を感じ取ることはできても、書かれた内容を理解するには専門の知識が要りました。

一方ヒエラティックは、書記や官僚が国を動かすために使う文字です。税や物資の記録を取り、手紙を書き、医学や数学の知識を残すには、彫るのではなく筆で走り書きできる、なめらかで速い文字が要りました。

ただしパピルスは高価でした。手習いや日々の覚え書きには、割れた土器のかけらや石灰岩の薄片が使われています。速く書けることと、書く場所が限られていたこと。この2つが、ヒエラティックという文字の性格を作っています。

長く見せるための文字と、日々書いて使うための文字。記数法の違いも、この場面の違いから来ています。

なお紀元前7世紀ごろからは、ヒエラティックをさらに崩したデモティック(民衆文字)も広く使われるようになります。「民衆文字」という名前ですが、民衆の多くが読み書きできたという意味ではありません。

さらに深掘り

覚える負担と書く効率のトレードオフ

ヒエログリフの数字は、覚える基本記号が少なくて済みます。そのかわり、大きな数を書くと同じ記号を何度も並べることになります。ヒエラティックはその逆で、覚える記号は多いものの、1つの数を少ない記号で書けます。

9999でいえば、ヒエログリフは36個、ヒエラティックは4個。大量の物資や税を毎日記録する書記にとって、この差は大きなものでした。

ただし、古代エジプト人がこの損得を設計として意識していたかどうかは分かりません。長く実務で使われるうちに、繰り返しの部分が省略され定型になり、より速く書ける形へ育っていったと考えるほうが自然です。

読める人が、ほんの一握りだったということ

古代エジプトで読み書きができた人は、人口のごく一部だったと考えられています。正確な識字率は分かりませんが、高度な読み書きには専門の訓練が必要でした。

ヒエラティックの習得が難しかったのは、数字の記号が多かったからだけではありません。古代エジプト語の文字・語彙・文法に加えて、文書の形式、計算、行政の実務までひと通り学ぶ必要があったからです。

リンド数学パピルスリンド・パピルス紀元前16世紀ごろに書記アーメスが筆写した古代エジプトの数学文書。書記の教育に使われたと考えられ、多数の計算問題と解法を収めている。詳しく見る →やモスクワ数学パピルスなど、現存する代表的な数学文書の多くはヒエラティックで書かれています。数学の知識が、おもに書記の教育と実務を通して受け継がれていた様子がうかがえます。ただし後の時代には、デモティックで書かれた数学文書も残っています。

ギリシアの記数法へ受け継がれたのか

ヒエラティックの数字と、のちのギリシアのイオニア方式には、よく似たところがあります。イオニア方式は、ギリシア文字を使って1〜9、10〜90、100〜900にそれぞれ別の記号を割り当てるもので、少ない記号で大きな数を書けるという点でヒエラティックと同じ型の記数法です。

ただし、仕組みが似ていることだけでは、エジプトからギリシアへ受け継がれたとは言えません。

文字については、ギリシア人がフェニキア文字を取り入れてギリシア・アルファベットを作ったことが知られています。文字の名前や並び順の多くも受け継ぎました。ただし母音を表す文字を作り、新しい文字も加えたので、文字の数まで同じだったわけではありません。さらにさかのぼると、フェニキア文字の祖先にあたる初期の西セム文字は、エジプトの文字を参考に作られた可能性が高いと考えられています。

これはあくまで「文字」の系譜です。数字の書き方まで同じ経路で伝わった証拠にはなりません。エジプトのデモティック数字を参考にギリシアのアルファベット式数字が作られた、という説も提唱されていますが、想定されている経路はフェニキア経由ではなく、エジプトと小アジアの交易です。

ポゥじい博士の見立て

ギリシア世界に文字が伝わったのは紀元前7世紀ごろじゃ。数字もそのころに伝わったものと、わしは思うておる。

ギリシアのアルファベットは、フェニキア文字をもとに作られた。文字の名前も並び順も、フェニキアのものとほとんど同じじゃからのう。そのフェニキア文字の祖先をたどれば、エジプトの文字を参考にしたとみられる初期の西セム文字に行き着く。

その道を、文字だけが通って数字は通らなかった、と考えるほうがむしろ不自然じゃ。エジプトの書記たちが実務のなかで編み出した「1つの数に1つの記号」という工夫が、ギリシアの記数法まで届いておったとわしは見ておる。文字の形は変わっても、考え方のほうは残ったのじゃよ。

ただし、この道すじを直接に示す資料はまだ見つかっていません。エジプトのデモティック数字を参考にした、という別の説もあります。

関連する用語
関連する人物
広告
広告250×250